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哲学試論”周利槃特”に学ぶ継続の大切さ

哲学的に試作したオピニオンです。題名にある周利槃特(すりはんどく)というのはお釈迦様(以後、「釈尊」と表示)の弟子のひとりです。世間にあまりなじみのある人物ではありません。物覚えが極端に悪かったものの釈尊から与えられたわずかな教えを基にひたむきに修行し阿羅漢の果を得た(悟りを得た)という方です。
この投稿では仏教方面にではなく、冒頭に強調した「物覚えが極端に悪かった」「ひたむきに修行し」の部分を取り上げて物事に対しひたむきに取り組むことについて雑多に論じていきたいと思います。

(周利槃特の事例)

物覚えの悪さは釈尊の教えのわずかな部分でさえいつまでたっても諳んじることができなかった程という伝えが残されています。釈尊は彼に一枚の布を与えて(箒という説もあります。)「塵を除く、垢を除く」と唱えさせながら、修行する施設や寺院を掃除して綺麗にさせたそうです。結果としてひたすら続けることで悟りを得ることができたのは冒頭で記述したとおりです。

(なぜ周利槃特なのか)

よく自己啓発的な投稿に「誰でもできる」とか「とてもカンタン」という表現を見かけます。それは誰の目から見て何でしょうか?著名で頭脳明晰な方が”誰でもできる”と表現するのと、周利槃特のような方の事例を見て”誰でもできる”と表現するのでは意味合いが違ってくると考えます。説得力という観点で考えると後者の方がより説得力が増すでしょう。

今の世の中、カリスマ性のある方がもてはやされます。時にインフルエンサーとして世に影響を与えます。しかし誰もがカリスマ性を持っているわけではありません。それならば平凡で愚鈍であってもひたむきに継続することで事を成すことができる事例の方がわが身に染みることでしょう。

(周利槃特の事例から何を学ぶか)

周利槃特はひたすら綺麗にすることで悟りを得ることができました。再三聴くことではありますが、「成せば成る」「継続は力なり」ではないでしょうか。私自身、自転車旅でも青年会議所などの活動でもそうでしたが、長い間やり続げたことで初めてわかったこともあります。地道にひたむきに生きて物事を徹底してやり遂けることの大切さを周利槃特の事例は示しています。

(自身に照らし合わせて)

振り返ると自分は地頭がいいわけではなく、子どものころは「お前は頭よくないんだよ。」と言われて育っています。今、推奨される「誉める教育」とは真逆の方向です。但し、この後に「だから人の2倍3倍努力をし続けなければだめなんだよ。」と続きました。これは人が怠けている時に努力をするべきということです。今思い返して、また子どもを育てる側になってしみじみ感じます。自分が誉める教育を受けてきたら出来の悪いことに満足しきったかもしれません。

本業仕事や自転車旅や市民活動など得られた成果も投稿することができました。少しは周利槃特の事例に倣うことができたでしょうか。

(総括)

総括になりますが、「当たり前のことを当たり前に続けることは意外と難しい」のは誰しも理解できるでしょう。事を成すには悟りの境地に至るまでやり遂げることが大事であり、だからこそ成果をつかみ取ることができると考えます。成果とは何か?それは人それぞれ違うと思います。具体的な成果かもしれません。抽象的ではありますが、充実感かもしれません。しかしやり遂げたことで何かしらの成果を得るのは間違いないと考えます。
目指すべき人は完成された真似できない人ではなく、周利槃特のような愚鈍でも愚直に努力する人なのかもしれません。


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