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「それは作業療法じゃない」の時代を振り返る

大雨の日もありましたが皆様大丈夫でしたでしょうか?雨が多い時期の訪問業務はグロッキーになりがちですが…私はなんとか元気です。

ここ最近は家事をしている時に研修のオンデマンドの動画を見ていることが多いです。オンデマンドじゃ協会のポイントは付与されず…認定作業療法士の更新のポイント貯まるかな…。

どの研修か忘れましたが作業療法で「機能訓練はダメなんて話も10年前は聞きましたが…」みたい話題が出ていて、ああ、そんな話は10年前くらいの話になったのかな、なんてことを思っていました。

確かに、作業療法で行われる機能訓練について色々と言及されていた時期があり医学寄りの作業療法は「それは作業療法じゃないと」と言われていた頃もありましたが、最近はあまり聞かなくなった感じはします。ある意味、業界自体が成熟してきたのではという気すらします。

最近あまり作業療法士のアイデンティティについてみたいなのはあまり考えていなかったのですが、なんとなく「あの頃」を思い出しながらいろいろと書いてみようかと思います。

「視点」のアイデンティティと「方法」のアイデンティティ

専門家のアイデンティティとして、何か特別なことが出来る、いわゆる「方法」のアイデンティティがあると思います。例えば手術は医者にしかできないとか。

ただこれって名称独占の作業療法士には作業療法士じゃなきゃできないことって意外とないんじゃないかななんてことを思ったり…少なくとも制度上では無いですかね。

「視点」のアイデンティティは同じ支援をしていたりしても専門的な視点で見ることが出来ることかと思います。

例えばトイレの練習をしていてもトイレ動作でどんなどんな体の使い方ができるかに重きを置く人もいれば、トイレをするときどのくらいの介助量で誰に手助けしてもらって、どんな支援が必要かに重きを置く人もいるかもしれません。同じ支援でも様々な視点で見ることが出来ます。

「それは作業療法じゃない」が流行っていた(?)頃は明らかに「方法」としてのアイデンティティを求めていたような気がします。多分それはアンフィッシャーのいう「OBP」の影響が強かったからかと思います。

アンフィッシャーのOBPとは何ぞやという定義はここから読めます

作業療法教育研究 第 13 巻 第 1 号(http://www.joted.com/journal/v13paper.pdf

作業を実際にする、行うこと、それを支援することこそ作業療法なのだという雰囲気がありました。

ただそうすることで「実際に作業をしない機能訓練は作業療法じゃない」最終的には「意思疎通出来ない人は対象にならない」みたいな作業療法にとってあるべきクライエント像みたいな話をする方もいました。

とは言え私は、とにかく身体を良くしたいから機能訓練をしたいというクライエントに出会うこともありましたし、やはり意思疎通ができないクライエントに出会うことも多々ありました。

しかし、そのクライエントとの関りとの中でもやはり作業的存在としての何かを見ていると思う瞬間もあったわけで…。

現場での経験にもまれて私自身は「方法」のアイデンティティから「視点」のアイデンティティに変わってきたのだと思います。

それなので最近は私自身はあまり作業療法のアイデンティティに関してはあまり葛藤なく日々を過ごしております…笑。

Twitter上とかでアイデンティティの話でかみ合わないときは、作業療法士だからできる特別な「方法」を求めている人と、作業の視点を持ってクライエントに関われればいいよねという「視点」の話をしている人がいて平行線をたどっているのでは?となんとなく思っております。

純金の臨床へのあこがれ「純金コンプレックス」

最近は精神分析界隈の話に興味があって色々と覗いてみているのですが、その中に純金の精神分析の話が出てきます。

フロイトのが定義する精神分析は枠組みが細かく決められていて、週6回、カウチを使って、自由連想する…その枠組みで行われる精神分析が「純金」で、それ以外は「合金」であるとしました。

そして「純金」の臨床こそが本物だと。

純金の臨床へあこがれ、純金に近づけるように頑張るわけですが、現場はデイケアなど個別支援じゃなくて集団だったり、精神分析的なカウンセリングが求められず、いかに他職種と連携するかといったところに焦点が当たることもあります。

そのあたりはこちらの本にも書いてあります。書評にもなんとなく書いてあります。

https://jumonji-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=144&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

今年は「ありふれた臨床研究会」という心理士向けの講義や、研究を行う会に参加しているのですが、そこでは「純金コンプレックス」という言葉が使われています。

純金への劣等感やあこがれを持ちますが、「純金」とは程遠い「合金」には意味がないのか?そんなことはないですよね?「合金」のありふれた臨床にも意味もあり、そのことをしっかりと再考する必要があるかもしれません。

この話を作業療法に置き換えると、機能訓練をしない作業療法というのは、「純金」なわけですが、「それは作業療法じゃない」の時代に現場レベルでみたら本当に「純金」の作業療法は行われていたのでしょうか?

著明な先生方は作業基盤で作業療法を進めることを強く発信していましたが、現場で行われている多くの作業療法は機能訓練をしたり、医学モデルも使いながら作業モデルのを混ぜて折衷しながら繰り広げられる「合金」の臨床だったのではないでしょうか。

最近は「純金」でないことにコンプレックスを持たずに「合金」の価値が再考されてきているように感じます。「それは作業療法じゃない」の時代は少しずつ終わってきているような気もしています。

「カウンターカルチャー」としての視点

医学モデルや作業モデルの対立について最近思っていることは一見すると相反するような文化の影響を受けたり取り込まれたりしながら臨床が進んでいくことが健全じゃないかと思っています。

私自身は医学モデルが強い職場にいるときは、作業モデルを学んでそれなりに意味があったと思っていますし、作業モデルに偏り気味の職場にいると「医学モデルを勉強しなくていいんですかね」と同僚から何度も聞かれました。

医学モデルが強い時には作業モデルがカウンターカルチャーとして存在することに意味があると思いますし、作業モデルが強い時には医学モデルがカウンターカルチャーとして存在することに意味があると思っています。

OCPセミナーで作業中心というムーブメントなんですと講師の先生が話していました。作業中心という大きな流れにいると思います。その大きな流れの中での「合金」の臨床の意味を作業療法でも再考する必要があるかもしれません。

なんか相変わらずまとまりがないですが、雨だったのでなんとなく書いてみました。ではまた!

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