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真庭市社の式内八社神社の謎を解く、和気清麻呂とたたら製鉄、湯原温泉と吉備王国の歴史

社地域の概要

 社地域は、岡山県北の真庭市湯原地域にある、中山間地域です。
 名湯「湯原温泉」が近くにあり、山々に囲まれ、涼やかな水が湧き、四季折々の豊かな自然に抱かれています。日本の原風景を思わせる集落、社地域のなかには、いまだ謎の多い中世の歴史が残る神社やお堂、石造物や城跡などの遺産がいくつも点在しています。
 なかでも、社地域にある佐波良神社・形部神社(合祀)、長田神社、兎上神社、壱粟神社・大笹神社(合祀)、久刀神社、横見神社の8つの神社は「式内社」(通称:中世式内八社)であり、中世からの遺産は、地域住民の生活に溶け込んでいます。
https://i-maniwa.com/area/yashiro/

式内八社案内ガイドツアーを実施しました。
https://i-maniwa.com/area/yashiro/info/info_detail/index/2041.html

2月24日 中世式内八社案内ガイドツアー
https://www.facebook.com/events/316266895650942/

 昨日は岡山県の北部、湯原温泉で有名な真庭市社(やしろ)の「中世式内八社案内ガイドツアー」というのに参加してきました。

 真庭市社(やしろ)に中世式内八社が集中していて、これは異常な事態なんですが、謎だと言われています。

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。

概要
延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F%E7%A5%9E%E5%90%8D%E5%B8%B3

 地元のガイドさんは謎なんだというのですが、昨日は生憎の雪で参加者は八名→三名に減ってしまったのですが、僕も含めて神社マニア過ぎるメンバーが残ったのか、参加者のひとり、岡山県の近隣の美咲町のK氏が謎を大体、解いてしまいました。

 この方、理論物理学を学び、日立のプラントで電気関連の仕事をしていて、今は地元の美咲町で7店舗ぐらいのファッションショップを経営されてる社長さんらしいのですが、歴史に詳し過ぎました。

 僕も神社はタイムカプセルという説を唱えてるので、神社の祭神などを調べれば大体、この神社がどんな神社だったかが分かると思ってます。
 ざっくりいうと、この地域は美作国に属するんですが、備前国と二国を統治していた和気清麻呂公のたたら製鉄に関連してるようです。
 つまり、リアル「もののけ姫」の世界が展開していて、弥生から奈良時代700年代には、この地域にたたら製鉄の作業員が千人ぐらいはいたのではないのかと推測されます。

 それでその作業員の病気ケガ療養に湯原温泉が利用されはじめ、このあたりは冬には雪が降りますので、越冬の暖房として温泉が利用されたようです。
 後の時代に有馬温泉を良く利用した秀吉の妻ねねが、この温泉を湯治場にしていたようです。
 昨日の有馬温泉にも関連してたんですね。雪が降ると温泉に入りたくなります。
 

塞坐黄泉戸大神 (さやりますよみどのおおかみ)
またの名を
「道反大神 (ちかえしのおおかみ) 」
イザナミノミコトが黄泉比良坂 (よもつひらさか) を追いかけてきたとき、イザナギノミコトは大岩で出口を「塞ぎました」
(中略)
神社と山
ここの神社は後ろに山を望む場所にあります。
山が崇拝の対象だったのでしょう。

横見神社⇒櫃ヶ山
二宮神社⇒五市山
佐波良・形部神社⇒霰ヶ山
(中略)
横見神社 (よこみじんじゃ)
大御堂から見えます。
すぐ近くです。
祭神は「大山津見命 (おおやまつみのみこと) 」とあります。
「山の神様」です。
オオヤマツミはコノハナサクヤヒメのお父さんです。
「大山祇神」「大山津見神」などとも書かれます。

コノハナサクヤヒメについてはこちらにちょこっと書いてます↓

古事記~イワナガヒメ (磐長姫)とコノハナサクヤヒメ (木花咲耶姫)
https://higeojisan-lab.com/kojiki-iwanaga-hime-gassuiseki/
(中略)
磐座 (いわぐら)
「石積遺構 (いしづみいこう) 」「祭祀遺構 (さいしいこう) 」
古神道における信仰の対象と思われます。
むかしは石、岩、木などが信仰の対象となっていました。

木造の社殿が建てられるようになり、次第にその目的や存在が忘れられてきましたが、その痕跡が今でも残っています。

社 (やしろ) 。式内八社 (しきないはっしゃ) 岡山県真庭市湯原https://higeojisan-lab.com/yasiro-sikinai-hassha-shrine/

湯原温泉の開湯は?

弥生時代?縄文時代?神代から?
 最初に湯原温泉の温泉を利用し始めた人々は、たたら製鉄に従事する山人だったというのが定説です。湯原温泉は、現在も温泉薬師周辺の河原一帯から温泉が自噴しており、古くは、その自噴する温泉をそのまま利用した露天風呂が多数ありました。またその一帯は河原の地熱そのものが高く冬季は、水量も減る為、その河原に小屋を建て天然の床暖房として、たたら製鉄に従事する特に高齢者達が越冬地として利用していたそうです。

「たたら製鉄」は、弥生時代から始まっており、湯原温泉一帯にはその時代からすでに多くの人達が分け入りたたら場と同時に温泉も利用されていたようです。出雲の八岐大蛇、山陽の桃太郎伝説のウラジャ(鬼)、これらは古代たたら製鉄を行っていた人達のことで湯原の場所は中国山地の真ん中で盛んにたたら製鉄が行われていました。この事から湯原温泉の開湯は、鉄の伝来とほぼ同時の約2000年前という説が有力です。

奈良時代には中央政権で重くもちいられた和気清麻呂は、湯原周辺でたたら製鉄を行い勢力を持っていた佐波良一族から出たと伝えられています。その和気清麻呂が中央政権から退いた後、この地の豪族の力を恐れた朝廷が、政(まつりごと)を行う8つの式内縣社をこの地に造ったと言われています。今でもその社跡や史跡や金山(かなやま:製鉄後の屑を積んで出来た小山)社地区から7里四方に多く存在しています。たたら場には多くの人手が必要とされ500名から5000名規模の集団で作業を行ってたそうです。湯原温泉周辺にはそのたたら場が多数存在していました。たたら製鉄には良質の砂鉄は勿論ながら燃料として大量の木材が必要である事から山から山への移動が必然でしたが労働は過酷であり療養としての温泉の利用や冬の越冬地として湯原温泉がその拠点になっていたようです。たたら場のイメージは、アニメ映画「もののけ姫」の中にも描かれています。

戦国時代の湯原温泉
 湯原温泉が歴史的に登場するのは、豊臣秀吉の五大家臣である宇喜多秀家が母である「おふくの方」の湯治場を開設したと言う記述からです。「おふくの方」は、妖艶な美貌だったと伝えられています。 生まれはこの地方で戦国の数奇な人生の中、羽柴時代に秀吉の側室となった方です。秀吉は、おふくを寵愛しその結果、秀家が秀吉の五大老まで上り詰めたと言われます。「おふくの方」が病になった際、秀家は、療養の地として湯原に湯屋を調えました。この時、秀家は20歳余りの若者、親孝行だったのですね。

湯原温泉の歴史
http://www.net626.co.jp/sp/rekisi.html

  神社というのは元々、泉とか(一昨日行った京都府亀岡市の「大井神社」は渇水の時に涸れなかった湧き水を祀ってる)、イワクラ、山などが信仰の対象になっていて、農業に必要な暦などを知る天体観測所(冬至、夏至のレイラインを形成している)でもあるのですが、式内八社の場合は背後の山と神社の後ろに存在するストーンサークルのようなものがご本尊、祭祀場だったようです。
 これは磐座 (いわくら)などと呼ばれていて、ここに神様が降りてくる依代(よりしろ)のようなものです。

 この辺りはもう亡くなられたのですが、岡山市の吉備津(吉備津神社の近く)に住まれていた薬師寺 慎一氏(古代祭祀研究家。1924年生まれ。第六高等学校卒業後、京都大学中途退学。中高校社会科教員を経て退職。岡山市吉備津在住)が詳しいです。この方の師匠の黒住秀雄氏も合わせて読むと、古代吉備国が渡来人の合衆国、隼人など海人族(上海あたりまでい航海して交易していた薩摩隼人)との連合王国だったことが分かります。

 黒住 秀雄氏は東大寺の瓦を発掘した民間研究者ですが(備前焼を生んだ技術があって吉備で焼いていた)、吉備王国(広島市福山市、岡山県、兵庫県西部)全盛の頃は、吉備=米国、大和朝廷=日本という感じだと思ってくれていいです。
 この関係がぴったりくる。防衛を吉備に任せて経済発展していくようなイメージで、次第に吉備の力を分国で制限して取り込んでいきます。

 吉備は軍船40隻以上の連合艦隊を擁し(天皇家の乱の時にそういう記述がある)、製鉄技術は凄くて大量の武器を作っていて(軍事氏族物部氏、秦氏の拠点でもある。日本刀の半分が備前刀)、渡来人と隼人の連合王国として栄えていたようです。
 たたら製鉄には大量の木材が必要で朝鮮半島はあっというまに禿山になりましたが、中国山脈は巨大な再生力があり、場所を変えながらやれば数十年で山は再生するので、出雲吉備がたたら製鉄の拠点となったようです。
 何故、呉に連合艦隊司令部があるのかの理由ですが、岡山県の塩飽水軍がが神戸の海軍操練所の中核技術を担っていたからです。瀬戸内海の海賊がそのまま海軍になった。
 朝鮮半島などに出兵する時は吉備の船が欠かせなくて、遣唐使なども吉備の船だし。


塩飽水軍は、天領として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と治世が変わるごとに朱印状と言う所領の安堵や許認可の書状を得て、船方衆650人(船主、乗組員)を人名といい全員が千二百五十石を共同領有した。
塩飽水軍の統治は、「人名(にんみょう)制度」により行われました。
塩飽水軍の船方衆は、武士ではありませんが、大名旗本のように秀吉や徳川幕府に直属で仕え、年貢を納める義務もなく、実質的に封建制度下では珍しい自治権を与えられた「人名」という特別集団であったわけです。
島の政務は、人名から選挙で選ばれた4名の年寄が、最高指導機関として全島を管理し、訴えや裁判をした。
塩飽水軍は、「主家に仕える」と言う武士的な武門意識に薄かった。
その薄かった武門意識が幸いして、常に時の最高権力者である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と主君を替えて生き抜いたようです。

江戸幕府の御用船方も務め、咸臨(かんりん)丸が太平洋を横断した際に乗り組んだ水夫の7割を塩飽出身者が占めた。塩飽の大工は造船技術をベースに巧みな技を発揮し、「塩飽大工」と呼ばれて各地で宮大工などとして活躍したという。享保6年(1721年)に、廻船の運航権を大坂の廻船問屋に奪われると、島民はそれまでの船大工の技術を生かし家大工や宮大工へと転身し、塩飽大工と呼ばれ瀬戸内海沿岸を中心に建築を行い、本島泊の大江紋兵衛常信は吉備津神社本拝殿、生の浜の橘貫五郎は備中国分寺五重塔と善通寺五重塔を建てる。
https://kfujiken2.exblog.jp/23299238/


 ただ、大和朝廷が大きくなっていくにつれて、吉備は力が強すぎるので備前、備中、備後、美作の四国に分割されて、製鉄技術を担う山部を大和朝廷に取り上げられて力を失っていきます。
 吉備王国(岡山県)というのは未だに日本ではないというか、天皇家の王妃(黒媛など仁徳、応神天皇の妃に吉備の媛がいる)、王子(吉備津彦、御友別〔みともわけ〕とか鴨別〔かもわけ〕。別というのは天皇家から分かれた」という意味)などが多数住んでいたので独立国のような感じもありますね。
 秀吉の正室のねねの木下家の足守藩というのもありますし、天皇家の近衛兵が吉備から選ばれたり、


仲哀の死後、妻の皇后は神の教えのままに、新羅を討とうと決意し渡海する前に「吉備の臣・鴨別(かもわけ)」を遣わして熊襲を撃たしたところ、すぐに「自ずからに服した」という。
http://kamodoku.dee.cc/kumaso-hayato-1.html

 

聖なる山とイワクラ・泉 単行本 – 2002/1/19 薬師寺 慎一 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4860691105/

考えながら歩く吉備路〈上〉 単行本 – 2008/12/21
https://www.amazon.co.jp/dp/486069211X/

ふるさとを歩く―黒住秀雄の見た吉備 単行本 – 1997
黒住 秀雄 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4906577040/

古代日本と海人―長江・隼人・吉備ルート1989/12
黒住 秀雄、 藤岡 章
https://www.amazon.co.jp/dp/4479830197/

 美咲町のK氏のたたら製鉄の解説ですが、このあたりには無数のたたら製鉄の跡が残っていて、出雲の系統の製鉄技術が入ってきていて(スサノオなど出雲神話関係の祭神が大い)、山の形が変わるほど鉄が採掘されていたようです。
 それが和気清麻呂一族である佐波良(さわら)一族が握っていて、朝廷にがその力を怖れて、式内八社をこの土地に築く理由だったようです。
 それを踏まえて式内八社の御祭神を見ていきますと謎がすっきり解けて来ます。
 
佐波良神社(さわらじんじゃ、別名「大社」〔おおやしろ〕)
御祭神は佐波良神(佐波良命)、和気清麻呂の高祖父〔祖父の祖父、曾々おじいさん(ひいひいおじいさん)〕。

形部神社
御祭神は神阿多都姫命(カムアタツヒメノミコト)。

『古事記』では木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。
(中略)
天照大神(アマテラス)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻。オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギノミコトの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A4%E3%83%93%E3%83%A1

境内社に、荒魂神社(須佐之男命)、大山祇神社(大山祇命)、剣上神社(武甕槌命)、宮茂神社、祖霊神社がある。

形部神社・佐波良神社 岡山県真庭市社
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1065588597.htm

 佐波良神社(上の写真は建て替えられた神社です)、形部神社は大社(おおやしろ)と呼ばれて、ひとつの所に祀られてるんですが、和気清麻呂の高祖父だとか、古事記の神々、製鉄民である出雲神話のスサノオ系の御祭神が多いですね。
 愛宕神社も末社(付属の神社、小さな神社)としてあるんですが、火伏せ・防火に霊験のある神社で防災の神ですね。
 この神社に境内には樹齢900年といわれる佐波良の大杉(千年杉)がありますが、大河ドラマ「武蔵」(市川海老蔵主演)の主人公武蔵が吊るされた杉の樹があります。
 写真の右手の樹は杉と


 次に二宮(にのみや)という場所に五つの神社が祀られています。

美作 二宮神社(ふたみやじんじゃ)http://www.geocities.jp/kibi_setouchi/futamiyajinja/futamiyajinja.htm


長田 (ながた)神社 御祭神 事代主神 
事代主(ことしろぬし、言代主神)は、日本神話に登場する神。別名は八重言代主神、八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)。
八重言代主神とも表記し、大国主神と神屋楯比売命との間に生まれたされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E4%BB%A3%E4%B8%BB


菟上 (おのかみ) 神社 御祭神 岐神あるいは弟彦王命

岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)、とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味[1]。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である。

道祖神の原型の1つとされる[1][注釈 1]。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある[2]。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)[3]、峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)[4]、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E3%81%AE%E7%A5%9E

◆和気氏由緒
第11代垂仁天皇の皇子 鐸石別命の曾孫である弟彦王は、

神功皇后に反逆した忍熊王(おしくまおう)を和気関に滅ぼした功により、藤原県を与えられ土着した。
その弟彦王を祖先とする和気氏は備前・美作両国に栄え、その12代後裔が和気清麻呂公・和気広虫姫である。

弟彦王を祖先とする和気氏は備前・美作両国に栄えた金属 銅 鉄に古代より関わる石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採りて、
https://blog.goo.ne.jp/tohnai99/e/f11441e13af1fd79aed6117cebc8038d

 長田神社は和気(別)氏の祖先の弟彦王命と道祖神の岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)を祀っています。弟彦王命は武人で神功皇后に仕え、ヤマトタケルの全国遠征の副大将だったようです。

壹粟 (いちあわ) 神社 御祭神 神大市姫命

日本神話では、『古事記』の須佐之男命の系図に登場する。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、大年神と宇迦之御魂神(稲荷神)を産んだ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E5%B8%82%E6%AF%94%E5%A3%B2

  スサノオ系の神様です。

大笹(おおささ) 神社 御祭神 大佐々神

 大佐々神がちょっと分からないですが、佐々木氏とかは製鉄に関係する氏族だし、製鉄の神なんでしょうねとK氏も言ってました。

この「大佐々命」について記載されているのは、「神道五部書」のうちの一冊、「倭姫命世記」なのですね。
この書物は持ってないのですが、「神社新報社 日本神名辞典」で、「大佐々命」をひくと、
「阿波羅波命の子。倭姫命世記に雄略天皇二十二年七月七日、倭姫命の夢のお告げにより大佐佐命が丹波国余佐郡真井原より現在の鎮座地である度会の山田原へ止由気大神を迎えたことが記されている。さらに倭姫命世記には大神を奉遷の後、大佐佐命を以って二所大神宮の大神主として任命し、神宮に奉仕させたとみえている。また、豊受皇大神御鎮座本紀にも同様の事が記されている」
と説明されています。
https://www.norichan.jp/jinja/renai/izanagisuita.htm

 イザナギ神社とか、元伊勢の話が出てきて、丹波国とも関係があるかもしれず、古い神かもしれないですね。
 ここは保留でまた調べてみます。


久刀(くと) 神社 御祭神 久那止神


岐の神 (くなどのかみ)
語源からは「来な処 (来てはならないところ) 」で「来名戸」と書かれます。
日本書紀で、イザナギがイザナミに「これ以上来るな! 」と杖を投げつけたことから。

「久那土」「久那止」などとも書かれます。
とにかく漢字はあとから入ってきたのでいろんな字が当てられます。
あくまで「はじめに、やまとことばありき」です。

外から悪霊や疫病がはいるのを防ぐために国境 (くにざかい) に置かれます。
それが「塞の神 (さいのかみ、さえのかみ) 」、やがては本来の意味が薄れて、道標 (みちしるべ) のような存在になり「道祖神」などと混ざりあっていきます。

久那止神は、これから行く二宮の久刀神社の祭神です。

(ウィキペディアより抜粋、加筆)
https://higeojisan-lab.com/yasiro-sikinai-hassha-shrine/#kunato


 横見神社(よこみじんじゃ)別の場所にあり、御祭神は大山津見命で『古事記』では伊邪那岐命と伊邪那美命の息子ですね。
 神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。
 花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)の父親で花咲爺さんというか山の神ですね。

 横見神社は背後に櫃ヶ山があり、二宮神社は五市山で、佐波良、形部神社は霰ヶ山と背後の山がそれぞれ信仰の対象で、神社の背後にイワクラがそれぞれ存在します。
 

横見神社(よこみじんじゃ)は、岡山県真庭市社758にある神社。通称は「十の宮」。御朱印の有無は不明。

『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 美作国 大庭郡「横見神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

二宮神社の南、川を隔てて100メートルの位置に鎮座する。創祀・創建年代は不詳。御祭神は大山津見命。例祭は10月9日。

横見神社 岡山県真庭市社
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1065586659.html

 
 ここまでの話をまとめると、神功皇后の生きていた300年代から和気氏のたたら製鉄の領地として栄えていたのが、この式内八社のあった真庭市杜(やしろ)だったようです。
 仏教が伝来してからは、京都の仁和寺の所領になったり、戦国時代は戦乱に巻き込まれて大変だったようですが、秀吉の時代に正妻のねねの湯治場として使われたり、その後は温泉地として栄えていきました。

 実は神社の後ろに埴輪が出てきたり、石棺があるとか、古墳があったりもするので、その辺りの発掘も楽しみです。
 岡山県古代吉備文化財センターなどで真庭市の古墳の発掘も進んでいるようなので、今後の展開が楽しみです。

岡山県古代吉備文化財センター
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kodaik.htm


 帰りに車で数分の所にある、「下湯原温泉 ひまわり館」(入浴料500円)によって温泉に入りました。
 雪が降ったのもあって、空いてて良かったです。


湯原温泉郷 日帰り入浴
http://www.yubara.com/higaeri/

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