「モラハラ加害者は変わることができる」という「事実」が与える幻想

これについて、少し書こうと思ったらだいぶ長くなってしまったので、ここにまとめておく(まとめるというほどまとまっていないことについてはご海容願いたい)。

1.「モラハラ加害者は変わらない」のか

私見は、「モラハラ加害者も変わる可能性がある」ということ自体を否定するわけではない。どんな人間にも変化の可能性はあり、それが良い(とされる)方向への変化であることは常にあり得る。例えば、犯罪行為をした者も「今後、二度と犯罪行為をしない」という意味での更生(何をもって「更生」と定義づけるかはそれ自体大きな問題だが)の可能性は十分にある。それと同じことである。

2.「夫婦関係の維持」という危険

しかし、最近一部で注目されつつあるムーブメントの一つとして、「『夫婦関係・親子関係を維持したままでの』カウンセリング等によるモラハラ加害者の変容で『夫婦関係・親子関係を改善する』」というものがある。
これは、一見モラハラ問題の解決に取り組むもの姿勢の一つのように見えるが、むしろ逆であり、(少なくともマクロレベルでは)モラハラ被害の拡大を招くアプローチである危険がきわめて高いと思う。

例えば近時このような

書籍が出ている。この本自体はモラハラ加害の内外面の描写として優れたものがあり、また理論的にも有益な示唆を与える点もあると思われるが、それはあくまでも思考とか研究といったレベルでのもので、実践としての危険性を低下させるものではない。実践書としてのこの本は「ヒロイックなサクセスストーリーとしてのモラハラ加害者の変容」を描くものであり、むしろそれ自体がモラハラ加害的である(ただし、実践部分でも、モラハラ加害者の変容過程自体には参考になる部分は少なくないことは注記する)。

3.「被害者に義務はない」というおためごかし

この本の中では、繰り返し、「被害者が加害者の変容にお付き合いする義務はない」という趣旨を強調する記載がある。しかし、それは、全体のストーリーや結論の中で単なる「演出」としてしか作用していない。いってみれば、映画によくある「これは極めて危険な戦いだ。逃げたい者は逃げてくれ。誰も責めはしない」という司令官のセリフと同じである。それで全員が逃げたら話が終わってしまうので、勇気ある者が残り、僅かな可能性を信じて戦い、勝利を収める。そういう「お話」である。
これはフィクションだからそれでいいのだし、また、こういう場面では、そのまま負けると地球が滅亡したり人類が全員巨人に捕食されたり、要するに逃げても(自分も含めて)どうにもならないレベルの危機が迫っているからこの「僅かな可能性に賭けた戦い」というのが肯定されるのだが、日常生活の中でそんな可能性にいちいち賭けていたら人生が破綻するので、普通そういうことはしないし、推奨もされない。
そういう意味で、(著者は、そういう意図はないと主張するかもしれないが)「被害者にはお付き合いする義務はない」というのは、この本のストーリー上、単なる演出のスパイスにしかなっていない。要するにおためごかしである。

4.被害者が抱いてしまう幻想

このようにフィクションであればエンタメとして害のないスパイスであっても、生活実践としてこのような「サクセスストーリー」の描写がなされることで、モラハラ被害者は、自分に加害しているパートナーが「変わる余地がある」という期待を強化される。
もともと、モラハラ被害者は加害者に対しては強い期待を持っていることが多く(ある種のサンクコストであることが期待につながるのであろう)、それが幻想にすぎないことを理解するまでには相当な時間と現実の被害を覚悟する必要があるが、このストーリーはそれを一層強化してしまう。
もともと人間は期待に飛びつきやすいので、仮に、1件1ページで「99件=99ページの失敗例と1件=1ページの成功例」を載せた本を作っても、成功例の1ページだけ繰り返し読んでしまうのが当事者の心情である。そうして幻想が強化され維持されてしまい、その間にも被害は蓄積していく。被害者心理のもう一つの特徴として「被害の否認」というものがある。自分が被害を受けていること自体をできるだけ否定し、それが難しければ「たいしたことはない」と言いたくなる心理である。こういう心理とこの幻想が結びつくことは極めて危険である。
このような乏しい可能性に賭けて人生をひっくり返そうとするのは、ギャンブルで多額の借金を返そうというようなもので、その時点である種の依存に陥っていまっている。しかも自分(被害者)の借金ではなく、他人(加害者)の借金を、自分が掛け金を払っても加害者自身に賭けようということである。こう書けばいかにも異常な関係であることが一目瞭然なのだが、愛情とかケアとかいった美名がそれを覆い隠してしまう。

5.「子の被害」という視点の欠如

さらに、こうした場合、配偶者(特に被害者)が夫婦関係のみに注目すると、何の責任もない子が置き去りにされてしまうというさらなる被害が現象として発生する。たとえば、時期を同じくしてこういう書籍

が出ているが、この事例において、妻の負担のもとで夫のモラハラを改善しようとすることは何歩か譲って妻の自己責任であるとしても、そこではその間の子に対する被害は等閑視されている。結婚にあたって夫を選んだのは妻であるが、子は父親を選んではいない(子連れ再婚の場合には多少の主張ができる可能性はあるが、その主張に何らかの責任を負わせるべきでないことは言うまでもない)。自分だけでなく子の生活のために必要があるという主張も十分にありうるのではあるが、それも度を超すと

というような本末転倒なことになり、被害者が加害者の共犯になってしまうので、その前にどこかでストップをかけなければならない。

6.モラハラ加害者にとっての幻想

他方、モラハラ加害者がこうした事例を目にしたときどうなるか。考えられる反応は大きく2通りで、一つは「自分はこういうのとは関係ない」という受け止め、もう一つが「自分も変わる必要がある」という受け止めである。前者はどのみち手の施しようがないのでどうしようもないのだが、後者は別の意味で面倒な存在になる。つまり、後者のうちの99パーセントは変容に失敗するので、「変わろうとしているのだが、変われないので被害を及ぼし続ける」ことになり、しかも、「変わろうとしている」ことが被害者に伝わることで、被害者の「変わってくれるかもしれない幻想」は一層強固なものになり、ある種の相互依存を生むことになる。1パーセントの成功例がさらにそうした幻想を強化する。被害者の離脱を妨げるという意味で、むしろ後者のほうが前者よりも加害を拡大することになりかねないのである。

夫婦間のモラハラを、「夫婦関係を維持したまま」やめさせようとするのは、いわば、薬物犯罪の常習者に対して、薬物をテーブルの上に置いたまま、「毎日カウンセリングに通って薬物を止めましょう」というようなものである。刑罰というペナルティを受けるかどうかに関係なく、そんな環境では止められるものも止められないことは想像に難くない。薬物犯罪がたとえとして適切でなければ、自宅の冷蔵庫にビールが並んだままアルコール依存症の治療ができると思うだろうか。しかも、モラハラというのは薬物やアルコールのような対物関係ではなく、パートナーや子という対人関係の中で行われる加害行為であり、それ自体を切断しなければ環境は変わらないのである。

7.宝くじ、買いますか

以上を要するに、「モラハラ加害者は変わることができる」という理屈は、それそのものは偽ではないが、「それによって夫婦関係を維持・改善しようとする」実践としては、「配偶者が作った1000万円の借金を、自分が宝くじを買って返済しようとする」というような、「きわめてリスク(=利息の発生=加害の蓄積)が高いわりにリターン(=当選金)が期待できない」ギャンブルである。しかも、ギャンブルなら、あたれば借金を返した上に大富豪になる可能性もあるが、モラハラ加害の場合、別に標準以上のすばらしい配偶者になるわけではなく、とりあえず加害がなくなるだけである。しかも、離婚(=戦いからの離脱)したからといって、フィクションの映画とは違い、地球は滅亡しないし人類が巨人に捕食されることもない。離婚には一定の困難は伴うが、一般的にはモラハラ被害を受け続けるより十分有益な選択肢であるし、方向性としては離婚後の困難をこそ支援すべきであって、モラハラ被害を受忍させる方向の努力を推奨するべきではない。
こうした現実を無視して幻想を与えることは、それ自体が加害的であり、少なくとも加害の助長である。ミクロレベルの(極少数の)成功例をもってマクロの加害の助長を正当化することはできないであろう。

8.結語~宝くじを売りつけようとするのは誰か

そして、冒頭のツイートの件である。
こうしたムーブメントは、当事者が意図しているものかどうかはさておき、モラハラに対する批判が強まったことを契機として表れつつあることは否定できないように思う。
モラハラに対する批判に、一方的な断罪(映画の例でいえば、いわゆる悪の親玉的な位置づけ)が含まれているとすれば、それに対する一定の反論は必要である。上掲書にもあるように、モラハラ加害者は別にモンスターではなく、適切な学びを得られなかった、ある意味で気の毒な存在である。
しかし、だからといって加害を継続することは是認されない(その意味で、犯罪行為に対する刑罰のような事後的な評価と、本稿で取り上げている人間関係の継続を前提とした「変容」とは別問題なのである)。まず加害=被害の発生を止めなければならないのだが、人間は強制的な契機でもない限り急に今までの行動を変えることはできないし、強制的な契機(例えば離婚)は強い痛みを伴う。
特に、モラハラ加害者にとっては、それは「支配対象の喪失」であるから、きわめて強い心理的抵抗が生じる(その意味でモラハラ加害者は常に依存的である)。
その痛みを緩和するために、「モラハラ加害者は変わることができる」という言説は、二重の意味で強い薬効をもたらす。一つは被害者に対して与える「アメ」としての幻想であり、もう一つは、自分自身の「今のままでは加害を止めることができない」という心理に対する「ごまかし」としての幻想である。それが効いている限り、被害者は離婚を求めてこないし、自分は努力をしているという言い訳ができる(その当事者の足元で被害は発生し続けているにもかかわらず)。
人間とはこの種の幻想にすがって生きている生き物である、といった諦観もなくはないが、しかし、その幻想がどういう需要のもとに生じたものであるのか、少なくともどういう需要にこたえるものであるのかを明確にしておくことには(特に被害者にとって)意味があると考え、本稿をまとめた次第である。

9.新たなモラハラの「ソフトな浸食の形」(2023.1.5追記)

以上の記述後にTwitterで追記したことを整理してまとめておく。

基本的に、「モラハラ被害を受けていて、パートナーに変わってもらおうと努力する人」というのは、被害によって感覚が麻痺(自分が受けている被害の深刻さを自覚できない)していたり、被害からの逃避(努力自体を目的化することでやっている感を増す)を(無意識に)図ったりする状態にあり、かつ、そういう状態に対する依存に陥ってしまっている可能性が高い。

なぜそういう依存に陥りやすいかというと、基本的に、法律婚等のパートナーシップは、「一度は自分も自由に選択し、判断した結果」だという意識が、相手に対しては一種の負い目、自分に対しては「もったいなさ」あるいは自己責任論的に作用するからである。
被害者がそういう心理状態をひっくり返して依存を脱するには、「その関係性を壊したのは加害者である。自分ではない」という現実、つまり、加害ー被害の関係性を明確に認識するところから始める必要がある。

ところが、加害者がこういうところにやんわりと浸食してくることがある。たとえば、「あなたが悪い。自分は悪くない」というのが典型的なモラハラの形だが、「自分も悪かった。しかしあなたも悪かった」というパターンもまた、典型的なモラハラ加害者の「ソフトな浸食手法」の一つである。これは、「加害ー被害」の関係性を、「お互い様」に持ち込むことでごまかそうとする試みの一つである。特に、モラハラに関しては被害者に自己肯定感が低いことが多いので、この種の、「被害者の落ち度」をうまく刺戟する手法は被害者の心理に刺さりやすい。掃除のやり残しがあったことを責め立てるようなケースであれば、「忘れていたあなたが悪い」とだけ言いつのるのではなく、「確かに自分も怒りすぎたと思うが、もともとは忘れていたあなたにも原因がある」というわけである。

その目的(意図的なこともあれば意図的でないこともある)はただ一点、「支配関係を継続する」ことである。社会的にモラハラに対する認知や批判が進んでくると、「絵に描いたようなモラハラ加害者」というのはさすがに言い逃れが難しくなっていく。そこで思いつくのがこの種のソフトなやり口で支配関係を継続しようとする試みである。

「モラハラ加害者であっても変わる可能性がある」という一つの「事実」を喧伝することで生じる幻想も、こういう「ソフトな浸食」の方法として容易に利用される。このやり方が巧妙なのは、被害者の罪悪感(変わる可能性のある加害者を見捨ててしまう)を刺戟するだけでなく、被害者に希望といういわばエサを与えることによって支配関係を継続させるところにある。こういうものが広がることには強い警戒が必要である。

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