2. ポール・デルヴォー
何回か見たことがあるけれどまとまって作品を鑑賞したことはなかったこの方。諸星大二郎展にも、最後の方で何作か展示されていた。
諸星大二郎作品についてはマンガのコーナーでいずれ取り上げますが、とりあえず、10月10日まで三鷹で、10月23日~12月26日まで栃木で展覧会をやっているのでぜひに!!三鷹の展示は想像以上にボリューミーでへとへとになる程の充実した展示でした。
ポール・デルヴォーの絵画の多くには、感情の読めない裸体の女たち、汽車、静かな道と古代ギリシャ風の建築などの同じモチーフが繰り返し出てきます。
同じ顔をした女たちは動かないで、或いはとてもゆっくりと奇妙な動きをしているように見えます。
何となく青い絵の印象があったのですが、画集を見てみると青くない絵も同じくらいありました。
無機質な女たちの群れは何か、わたしたちの知らない重要な世界の決まり事や神秘を知っていて、それのために行動しているようです。そういった雰囲気は例えば「暁のお祈り」(1966)、「アクロポリス」(1960)、「行列」(1963)、「煌々と」(1962)などに顕著です。
美しいものを美しく画面に留めた絵画は、平行世界にある楽園であるかのようです。楽園は時にはこちらの現実と多重露光されてわたしたちの前に現れます。
作家のこんな言葉があります。
美しさというものが私にとってかけがえのない光を画面に与えてくれるということだけは確かだ。
夜の中に光の女たちが稲妻のように燦めいている、そんな絵が描きたかった
(ポール・デルヴォー 現代美術の巨匠より)
そうしてまた、こんな言葉も。
眼に見えない通行人たちの影のうつる静まり返った通りの雰囲気。
あの一種の空虚、あの秘密の中から、何か引き出すべきものがありました。
(ポール・デルヴォー 増補新版 シュルレアリスムと画家草書 骰子の7の目3より)
わたしの美的感覚と、デルヴォーの感覚はとても近しいようです。
それとも、大勢の人に支持されているのですから、これが普遍的な美の要素の一つということなのでしょうか。
ともかくあまりにもわたし好みの作品群です。
(わたしの大好きな)古代ギリシャのエッセンスについては同じく「シュルレアリスムと画家草書」にてこう言及されていました。
ギリシャ・ラテンの古典学習をやったので古代に愛着が出来ました。だから、私は絵の中に、ときどき、ギリシャ風の破風や凱旋門を入れてみたのです。(中略)それらの要素を現代の要素に加えて珍らしさを出すためです。
わたしはあまり物事を体系的に捉えることが得意ではなくて、同じ系統に括られる作家でも自分の美意識にそぐわなければ興味を持てません。だからそういうのは学者や研究者に任せて、あくまで感覚的に語ります。ただデルヴォーがキリコに多大な影響を受けたということは覚えておきましょう。(だってキリコも好きだから)
それからデルヴォーの絵画の良い所は、裸体だけれど嫌らしくないところ。
(男性の)解説者たちはこぞって、「その冷たい画面の下から扇情的なエロスが滲み出ている」みたいなことをいっていますが。
生々しいものが苦手なわたしとしては、その見方はちょっと頂けない。あくまで肉体的なこととは隔たった場所に存在する女性たちであってほしい願望です。(実際がどうであったとしても、他人に押し付けない限り捉え方は自由なのですから)
画集を捲っていて一番目を引かれたのは1942年の「人魚の村」でした。昼の人魚の絵です。
各扉の前に座る連続した着衣の女性たち。遠くに、海の向こうを見つめる人魚の群。
道沿いの女たちから洗礼を受けながら浜へ辿り着くと、自分も人魚になっているかもしれない。そんな感じの。
わたしが見た中では人魚の絵はあと2枚あって、
「大きな人魚たち」(1947)は夜の人魚。女たちは服を脱ぎ、華やかに頭を飾っています。青い画面の奥で、人魚たちが荒れる海を賛美しているのか沸き立っています。タイトルも相まって、じっと見ていると女たちがとてつもなく大きく見えてきます。わたしは裸婦の躍りの相手をするけれど、今度は決して仲間になれない。
それから「海辺の女たち」(1943)。手を繋いで歩く二人の女と、海に何かを乞う人魚たち、背景には海と、工場か埠頭のようなものがあります。何とはなしに寂しげで、現代に来て、もう元の場所には二度と帰れない人魚たちかしら?などと想像します。
今回参考にした書籍は以下の通り。
・ポール・デルヴォー 増補新版 シュルレアリスムと画家草書 骰子の7の目3
アントワーヌ・テラス 著 輿謝野文子 訳 河出書房新社 出版
図版は多いですが半分くらいがモノクロです。解説には作者の思いが溢れ出ていて、書き方がわたしにはあまり合いませんでした。
・ポール・デルヴォー 現代美術の巨匠
マルク・ロンボー 著 高橋啓 訳 美術出版社 出版
図版が年代順で、解説も一般的な時代を追って進む形なので読みやすいです。でも「人魚のむら」も「大きな人魚たち」もこれには載っていません。
・澁澤龍彦西欧芸術論集成 上
澁澤龍彦 著 河出書房新社 出版
図版はありませんが、読み物としては手軽に読めますし澁澤龍彦氏ならではの切り口もありなかなか面白いです。
この「西欧芸術論集成」を読んでいて驚いたことがあったので引用しておきます。
絵画を変革するという大胆な意図は他人に任せておいて、彼はひたすら、自己の内心のヴィジョンを具象化し得る。唯一の造形的言語を造り出さんと志したのだる。夢想家であるとしても、彼はロートレアモン伯の非論理や狂熱とは無縁な人間であり、むしろヴァレリーの方法意識に近いものを持った、冷めた夢想家である。
まさに今「ロートレアモン全集」を読んでいるところで、興味のあるものは皆どこかで繋がっているなあと再確認したわけでした。
以前映画紹介を見てまあ観なくても良いかななんて思っていた「去年マリエンバードで」が、デルヴォーの絵画を映像化したようだという評があるようなので、いつか観たい映画リストへ加えておこうと思います。
まずは人魚繋がりで「高橋留美子劇場 人魚の森」を観る。
ではまた。
(ヘッダーの画像はパブリックドメインの絵画から拝借しました。ポール・デルヴォーではありません)
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