【大学入試】2022年度広島大学(国語)第一問(現代文)について考える~ことばが伝えるものは何か~

1.はじめに

こんにちは。

突然重い入りですが・・・
「職場において人間関係に問題がないほうが珍しい。」みたいな世の中ですよね。
日々生活する中で、僕はよくこんなことを思うんです。

「あ~あの言い方はよくなかっただろうな」
「なんでそんなトゲのある言い方をするんだろう」
「そんなこと言ったら、本音が言いづらくなると思うけどな」

人の言葉や振る舞いの端々から、いろんなことを感じるので、いわゆるHSPと呼ばれる人なのかもしれません。僕の言葉のイメージはこんな感じです。

こんな感じで、「伝えたい内容」で伝わっていない部分もあるし、受け手も余計な情報を足して内容を受けとっている気がします。ちなみに、自分自身はこんな感じですね。

求められていることはなんとなく伝わるが、それをしようとすると自分の精神的な限界を超えるから気づいていないふりをする、という感じですね。

さて、前置きが長くなりましたが、2022年度広大国語第1問は「言葉」に関する評論です。記述問題を中心に、少しだけ考えてみました。

2.各設問について(一部)

問二

傍線部①に「言葉とそれが意味するもののあいだに空く隙間」とある。ここでの「隙間」について、筆者の体験にもとづいて具体的に説明せよ。

【私見】 
「言葉とそれが意味するもののあいだに空く隙間」筆者の体験に照らし合わせると、
「言葉」=(九官鳥の発した)「おはよう」
「意味するもの」=恐怖
となる。本来「おはよう」は挨拶の言葉なのに、九官鳥は恐怖を感じたときに「おはよう」と発している。このことから考えると、ここでいう「隙間」とは、「発せられた言葉が本来持つ意味とそれが意味するものの間に違いがある」ことを指していると考えられる。ここに、今回の具体的な発言と感情を明記すれば、この問題の解答になると思う。

【模範解答】
「おはよう」の持つ本来の意味と、九官鳥が恐怖を表出するために発した「おはよう」では意味が異なること。

問五

傍線部④に「ふるまいそのものが変換される」とある。このことを、本文中の具体例を挙げながら説明せよ。

【私見】
傍線部前後の文がどのような関係にあるか、確認しておきたい。

〈本文より〉
わたしたちもまた言葉を憶えることによって、以後、「痛い」「熱い」「あっちっち」と言うが、「ぐーっ」と唸ったり、「ぎゃーっ」と叫んだりしえなくなる。
自然的発声を失って、言語で唸り、叫ぶほかなくなるのだ。
ふるまいそのものが変換される。
(傍線部④)

この三文は同じこと、つまり「自然的発生をしていたが、言葉を憶えることで、そのふるまいが言語(言葉)に変換される」ことを指している。(ちなみにこの後の「感情の表出をもまた言語という網の目をとおしてしか表出できなくなったのである」も同じ意味である。)

【模範解答】
痛みに対する「ぐーっ」という唸りや「ぎゃーっ」という叫びが、言葉を憶えることによって、「痛い」「熱い」「あっちっち」という言語になるということ。

問六

傍線部⑤に「顔は人の内面にある特定の感情を表現しているのではない」とある。人は他者の「顔(表情)」と「感情」の関係をどのように理解すると筆者は考えているか。「規則」という語を用いて六十字以内で説明せよ。

【私見】
傍線部⑤「顔は人の内面にある特定の感情を表現しているのではない」とある。(「~ではない」となっていることから、)では、顔は何を「表現」しているというのか。それに関する考えはこの後に提示されている。

〈本文より〉
目の前にある顔もしくは表情がいってみれば感情として現前している、つまりひとは感情そのものとして他者の顔に向きあうのだ。
ただ、それに向きあうにも特定の規則がある。どういう感情がどういうものとして受けとられるか、読み取られるかは、それぞれの文化が内蔵しているそれぞれの「生活形式」としてあるということである。

この記述から言えることは三点
A・顔は特定の感情を表現しているわけではない
B・他者の顔それ自体が感情である
C・他者の顔をどう受けとるかはそれぞれの文化が内蔵している「生活形式」による(→それぞれの文化に特定の規則がある、と言い換えられる)

この三点(優先順位はC→B→Aの順)を使って、解答する。

【模範解答】
表情に感情が表れているとは考えずに、それぞれの文化がもつ特定の規則に従い、他者の顔を感情そのものとして理解する。(56字)


問八

傍線部⑦に「わたしたちの日々の語らいにはこうしたずれ、あるいは行き違いが頻繁に見いだされる」とある。わたしたちの日々の語らいにおいて「ずれ」や「行き違い」が生じるのはなぜだと考えられるか。「テクスト」と「テクスチュア」という二つの語を用いて百字以内で説明せよ。

【私見】
傍線部⑦の「こうしたずれ、あるいは行き違い」が指しているのは、同じ段落の内容である。

〈本文より〉
テクストとしての他者の言葉をしかと受けとめても、テクスチュアとしての他者の言葉を聴きそびれることがしばしばある。そのとき、他者はじぶんの言葉は字面は理解されても、言葉じたいは逸らされたと感じるだろう。

※ここでいう「テクスチュア」とは、前の段落や問七を踏まえると、「言語の意味以上のもの」「ある人の言葉を言葉として受けとる側の感触」と考えられる。

このとき他者が「言葉じたいは逸らされた」と感じるのはなぜか。それは、受け手が「テクスチュアとしての他者の言葉を聴きそびれ」ているからであり、問八はこの答えを要求しているのである。つまり、問八に対する答えはざっくり「テクスチュアを無視しているから」(A)と言える。
 もちろん文字数が全然足りないので、説明を加える。まず、今回の主張では、受け手側の話だけでなく、「ヘイト・スピーチ」という話し手になったときの例も挙げられているので、「言葉を話すときも聴くときも」(B)という条件が必要だろう。
 また、「テクスチュア」という言葉の説明が必要になるし、そうならば、言葉のもう一面にある「テクスト」が何かも説明が必要になるだろう(そもそも設問でも「テクスト」と「テクスチュア」の二語を用いるように指示されているので、説明は必要である)。
「テクスチュア」=「言葉を受けとる側の感触」(C)
「テクスト」=「字面の意味」(D)

【模範解答】
言葉には、字面の意味としてのテクストの面と受けとる側の感触としてのテクスチュアの面があるのに、人が言葉を発するときも聴くときも、テクストばかりに意識を向け、テクスチュアを無視してしまっているから。(98字)

3.最後に

 表情の話題ではあったが、「どういう感情がどういうものとして受けとられるか、読み取られるかは、それぞれの文化が内蔵しているそれぞれの「生活形式」としてあるということである」という考えが、最初に示した「言葉」に関するあの感覚を説明してくれるかもしれない。「言葉」についてもまた、「どういう意味で受けとられるか、聴き取られるかは、それぞれの人間が内蔵しているそれぞれの『生活形式』(各自がもつ特定の規則)による」と言えるのだろう。
 このように考えると、筆者の言う「テクスチュア」を完全に理解し、発言しようとするのは難しいのかもしれない。(なんともすっきりしない結論に至ってしまいました・・・)

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