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習作 「金曜日」

 ああ、もはや社会の許す限りの感情しか人は持ち得ることができなくなったのか。私はスマホで流れるニュースに目を落としながら、そう思った。毎日ように、社会の枠を外れた感情に身を任せた人々が、悪として糾弾されている。殺したいほどの愛情も、繊細ゆえの暴力衝動も、もう持つことさえ許されない。発狂した奴が絶対悪でその発狂に追いやった全てはこの社会を闊歩している。この管理社会に生きる我々はもう多種多様な感情に巡り合うことすらないのだろうか。
 電車で自分の向かいの席に座る自分よりも一回りは年上であろう、年寄りの爺さんが虚ろにこちらを見つめている。自分を見ているようで、見ていない、その自分の肉体を透過してどこまでも突き抜けていきそうな視線を向けていた。その視線に気づかないふりををして、私はまたその小さな板に流れる情報に目をやってしまう。もう今更そんなもの見なくたって、嫌っていうほど生きていれば目にすることをまた私は目にする。パチ屋の駐車場に子供を置き去りにする親、飛び降り、化学工場での火事―こんなものは手元の文明の利器に頼らなくたって、いつだってお目にかかれるというのが我々の生きているこの素晴らしい世界だというのに。
 うだるような労働の疲労が体にのしかかって、世界に嫌気がさしてところ、定刻通りに自宅の最寄り駅に乗っている電車が止まって益々憂鬱な気分になった。いや定刻通りに着くことは有難いことに他ならないのだが、今となってはその予定調和に進む電車のサイクルでさえ憎らしい。毎日、毎日、この輪廻はいつ終わるというのだろうか…
 
 電車を降りる際、向かいの爺さんがまだ同じ一点を見つめ続けていることに底知れぬ戦慄を私は覚えた。その拭えない嫌な感じは改札を出た、今となってもまだ続いている。意識するまいとすればするほど、その感覚はより強くはっきりと輪郭を帯びて私に迫ってくる。
 突如としてあの爺さんは、私の将来の暗示なのではないかという突拍子のない思いが私の心の中に湧き出した。世界に嫌気がさした挙句、多くを拒絶し、虚ろな視線を、そう何も捉えることのない透過し続けるだけの視線を投げかけるあの老人。あれこそ私の暗示ではなかろうか。鏡が己の姿を映すように、電車の席で向かい合って老人は私を映していたのではないだろうか。
 だがもう件の老人とは二度と会うことはないだろう。このような考えは病的だと自分に言い聞かせた。言い聞かせるしかなかった。暗示が現実となり、同じ視線を撒き散らす存在に自分もなり得る可能性は十分にあるということなどと向き合うのはこの金曜日の夜には御免だった。金曜の夜ぐらい人は自分に都合の良い世界を描き、そこで遊び平穏に暮らす自由がある。
 そうだ。こんな病的な想いに駆られるぐらいなら、金曜の夜らしく一杯やろうではないか。ネオンとまでは光り輝いてはいないが、それなりに光り輝いてる我が最寄り駅で、一杯ビールでも飲もう。兎に角私は疲れているのだ。どちらかといえば精神のほうが疲労している。精神がくたびれるととにかく余計なことを考えるのが人間というものだ。私のような普通人の人生において、宇宙も天命も、まして概念上の自由など一向に必要ない。無用の長物である。バッティングセンターとサウナ、そして一杯のビール。これ以外のことは考えないほうが良い。どうしていつもこれが出来ないのだろうか。
 
 近くの適当な居酒屋に入って、ビールを飲み干し、少しばかり泡の残るグラスを眺めながら、煙草に火を点けて、煙を吐き出すと、振り払ったはずの憂鬱がまた締め上げるようにこみ上げてきた。一体俺は毎日、毎週何をさせられているのだろうか。早起きした挙句に、やることと言えば全く意義を見出せない、やる意味もない会議のための資料作り、コピー、コピー…こんなことが地球46億年の歴史の果てにやる営みであろうか?
 自分の座っているカウンター席からチラッと見える、向かいの座敷席では、身なりや顔つきからして大学生とおぼしき若者が五人ほどで馬鹿騒ぎとまではいかないまでも、金曜日の宵を余すことなく謳歌せんと愉快に大声で喋っていた。あの子らのすることは、地球46億年の歴史の果てにふさわしいだろうか…なんてことを考えてみる。生命力のままに騒ぎ立てることは自分みたいなやつが陰鬱な考えを募らせるよりはまだふさわしいと言えるような気もするが…いやまあどうでもいいことか。ああ確かに何もかもどうでもいいことかもしれない。
 大学生らが口々に女の話を始める。やれあの子は誰それと二股をかけている、俺はこの前ついに部屋に連れ込んでどうのこうのと顔を茹蛸のように赤くしてまくし立てる。酒、女、金曜の夜。大いに結構なことだと二本目の煙草の火を点けながら自分にもあったはずのその生命力の輝きのままに生きていた時分の頃に思いを馳せる。間違いなく自分にも兎に角その日が楽しければそれでいいと思えたそんな日があったはずなのだ。そんなことに思いを馳せていると、頼んでいた砂肝の焼き串が武骨な店主の手によって、視界に運び込まれてきた。
 一切れ、口に運び、酒を飲む。砂肝の歯ごたえと、ビールの冷たさが口に広がる。これらを繰り返しているうちに、先ほど電車内で取りつかれていた寂寥感のようで、しかしつかみどころのない苛立ちでもあったような気がする思いは影を潜め、金曜日の夜を楽しむ心の用意が整った。後は自宅で飲むことにしようと席を立つ用意をして、勘定をその店主に告げた。財布を開きながら、視界に入った店主の太い指が軽快な手つきでレジを打っているのがやけに記憶にこびりついた。
 店を出て、酒に浸された脳をもたげながら師走の寒さの中、高架下を歩いていると、ガードレールの隅で黒猫が目を光らせながら丸まっていたの気付いた。古来より不吉な象徴だと言われている黒猫も流石に今宵はそうした不吉な印象を与えるのに疲れ果ててしまったのだろうか、こちらに気付いても目もくれず丸まって眠り込んでしまった。しかし、こんな暗闇で出会う黒猫よりも、通勤帰りの電車で出くわした老人の方が私の心を騒がせたというのは不思議なものである。
 その日は家に着くと、また一缶ほどハイボールを飲み干すと直ぐに私も眠ってしまった。あの黒猫と、私は同じ月に照らされて喧噪の中でただ静かに眠っていたのだと思いたい。

 

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