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接点がないと知らないものたち

 ふと、自動車のディーラーは私に縁がないなぁと思った。
 街の中心部や、大きな交差点の近くに必ずあって、整備工場なんかも併設している。
 日産とかトヨタとか三菱とか。
 でも入った記憶はほとんどなくて、何か知り合いのついでの用事でたまたまついていったことがあるのだけど、私は何をしたらいいんだろう、買う側じゃないし、と挙動不審になりながらジュースを飲んで帰ってきた記憶がある。
 うちの家に車がないわけではない。でも私は免許を持っていなくて、車は親が買ってくるので、下見とか契約とかそういうところに子供がついていく家庭ではなかった。それに新車で買うより中古で買う家だったので正規ディーラーじゃなく、個人が経営している中古車販売店みたいなものを利用していた。
 ディーラーについて知っていることといえば、休みの日は家族連れでいっぱいになって、車のミニ模型がたくさんあって、車グッズをもらえたり、オプションどれつけます?で楽しく悩んだり、お父さんが営業の人と楽しく話が弾んで契約しそうになって嫁ブロックをくらったりする。らしい。
 あと納車式?とかいう謎の儀式もあるらしい。楽しいのかな。
 そうだ、試乗とかもするんだよね。
 どうです、お客さんこの車走りやすいでしょ、とか言っちゃうのかな。
 なんか完全に知らない世界すぎるので変な妄想を垂れ流してる変な文章になってしまった。

 知らない世界と言えば、役所に届ける書類。私は障害者認定を受けているので自立支援とか手帳とか、そこらへんの手続きは見慣れているんだけど、春先に祖母が亡くなったとき、生まれて初めて死亡届というものをみて、まじまじと見てしまった。独身だし子供もいないから婚姻届も出生届も見たことがないし、引っ越しの転出届は何回も見たけれど、なんかこれが死亡届なんやと言葉にしがたい変な気持ちになった。不謹慎だけど言ってみれば新鮮だった。
 紙きれひとつで存在や関係が変わってしまうなんて、という気持ちもあり、そこに反骨心を覚えたというわけではないんだけど、こういうのがあることで明瞭になるシステムや区切りがあって世の中動いているのだなぁと。
 でもこういうのもデジタル化でなくなっていくのでしょうね。

 人生で何もかも知っているよ、という人は存在しなくて、どんな人だって一部分しか知らないのだろうなぁと思います。それが専門的じゃなくたって。
 知っていることが想像力の妨げになることはこわいことで、私がこうだったからあなたもこうだよね、常識じゃない? と決めつけにならないように、無知はいつだって新しい知識や体験、視点を得るスタートラインに立っているのだと思って生きていきたいなと思います。

#エッセイ #散文 #雑文

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