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日記「スナックの鳳凰/スナックのパパ」

どこかのスナックのママが50歳だそうで、
胡蝶蘭を自転車で運んでいるお兄さんがいた。
それが後ろの荷台に花部分が後ろを向くように載せてあり、立派な吹き流しが、鳳凰の尻尾のようになっていた。
しかも、運んでいるお兄さんがお札の肖像画級に無表情で、横から見るとそれが本当にめでたい生き物みたいになっていた。鳳凰像と同じ目つき、同じシルエット。
信号が変わってすぐに彼は狭い道へと消えていった。立派な尾をたなびかせて。当たり前ですが自転車は滑らかにスーッと移動し、それもまた瑞獣の動きという感じですごかった。

スナックのママの平均年齢はいくつだろうか。胡蝶蘭の行き先にいるママは間違いなく40代からやっていたのだろうからな。


そういえば、スナックのパパはいるのだろうか。
スナックのパパ。その店の最古参的な、自分がいつも座る席にもう誰かが座ってると途端に不機嫌になって帰りそうな、非公式で厄介そうなニュアンスがすごい。

名著「スナックバス江」でもスナックはおじさんの保育園だと言われていた。
保母さんという言葉は死滅したが、スナックのママは最後の砦として性別性を帯びつづけるんじゃないかと思う。(「キャバ嬢」とかは別の言い方を発明しうる気がする。たとえばクルーみたいな。)

そういう場所で古典的な性的バイアスが再生産されていくような気もするが。でも、ママの部分には、スナックの保護者とか、スナックのオーナーとか、スナックの監督とか、別の言葉はどれも代入不能なように思う。
スナックにしかママはおらず、ママという概念がなければスナックではないという必要十分条件。
ママが消える時、それはスナックが消える時を意味するだろう。

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