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緊急事態な日々②ー序章としての2月

このマガジンでは、まとまりきれてない考えごとの断片を置いていきます。
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歴史に大きく記述されることになるだろう緊急事態。
のちに振り返ってあのとき自分はどんなことを考えていたのかってことを思い出すための備忘録として、また「この世界の片隅に」生きる一人の個人の記録として、「いま」を書き残しておきたい2本目です。


国内での新型コロナウイルス感染のきっかけになったといって差し支えないであろう、ダイヤモンドプリンセス号が横浜港に着いたのが2月3日。

2月16日に書いたnoteでコロナのコの字も出て来ない自分の感度の鈍さを1本目で白状しました。
局所的に抑え込まれるだろうと、厚めの正常性バイアスがかかっていたことを懺悔しなければならないと思います。

そのころ考えていたことといえば、退職が迫った学習塾での、最後の授業をどんな内容にしようかということばかりで。


もともと1年の予定で緊急避難的に始めた仕事であったけれども、やっぱり始めると必死になってしまうもので、中学3年生たちの受験対策が本格化し始めた秋口以降は、毎週日曜にクラス10人分の過去問添削、つまり10校分の過去問を自らも解いて解説をつけるというルーティンに突入し、他の3つの仕事も並行しながら、完全に休日というものが消滅していったのでした。

しかし担当科目が国語だったのはたぶん幸いで。

入試過去問に採用されるような文章、とくに評論文は、出題陣が中学生に読ませたい、これは読む価値ありと認めたものが並ぶわけで、河合隼雄や吉本隆明といった「常連」に限らず、課題文それ自体が軒並み一定以上の読み応え。

ときに「もう設問はどうでもいいからもっと中身の話をしよう」なんて授業もしたほどで、休日返上の苦しさの中にも読書としての楽しさもあったのでした。

受験の結果はおおむね良好。
日程をほぼ終えて、建前では「高校準備講座」などと掲げてはいるけれど子どもたちからすると消化試合的な最終授業。


教材に選んだのは、あの上野千鶴子スピーチでした。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html


noteにも書いたことがあったけれども東京医科大の不正入試から話が始まるあのスピーチを、受験を終えたばかりの子どもたちがどう受け止めるのか、きいてみたかったのです。

いま隣に座っている男子と女子、同じ土俵でともに闘った仲間、のつもりだったのに、実はまったく同じ土俵ではなかったという事態を想像してみてほしい。
そしてそんな舞台を用意して正当化しようとする大人や、それを支持さえする大人たちがいるということを知ってほしい。
哀しいけれどこれが日本の現在地。
大人の責任として言わなければならないと思うから言うけれど、君たちがこれから出ていこうとしている社会は、こういうクソみたいな場所だ。

と、鼻息荒く伝えたのでした。

申し訳なく思うし、これもまた大人の責任として、よくなっていくように僕なりに努力する。

とも。

書いてもらった、子どもたちの反応。

女の子に生まれてきて、やりたいことができなかったり、差別されたりすることが現代の社会にあるのは残念だと思いました。でも、これからもっと社会は変わると思うし、変わる社会に自分たちは生きるし、変えていくのは自分たちでもあるからもっと考えたいと思いました。(女子)
時代の変化が求めて新しく勃興していく学問に目を向け、あくなき好奇心と、社会の不公正さに対する怒りを持って行動するのはムズい。(男子)
女性が社会のために今までの努力や思い出、大げさに言ってしまえば人生観さえも隠し、自分を殺して合わせようとするのはとても理不尽なことであり、そのような社会が常識になっている現代を変えるべきだと思う。(男子)
ずっと、なんで女の人ばかり大事にしろと言われているのかと疑問に思っていた。それこそ男性女性を分けていると考えていた。(「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」という)ことばは、私の考えにしっくりきた。
でも私は弱者でいたくないし、東大生だったら東大生だと胸を張って言う。(女子)

中学時代の塾の、週1だけ会ってた教師の最後の授業なんて、それぞれのその後にとってどれほど小さな時間かは想像するにも及ばないけれど、撒いた種が、それは投げつけるように雑なしかたではあったけれども、いつか1つでも水を得て芽が出るようなことがあれば、教育従事者の端くれ冥利に尽きるというもので。


瑞々しいという形容詞を実感をもって理解したような心持ちになったこちらのクラスとは裏腹に、小学4年生クラスのあの男の子には、最後まで居場所をつくってあげられず、その闘いは紛うことなき惨敗で。

彼と合わせた目線に「信頼」の色が宿ることはありませんでした。

きっと僕も彼のことを忘れていってしまうでしょう。
だからこそここに書き残すのだけれども。

僕の人生においては「敗戦」という引出しに収まる1つのエピソードに過ぎなくなってしまうあの日々が、彼の人生においてはのちにどのように振り返られることになるのか、どうか、当時の他人は許せずともせめて自分を責めることのないように、もはや願うばかりの、大人の無責任です。


最終授業が終わった数日後の2月27日、ダイヤモンドプリンセス号での「封じ込め」に失敗し、各地でちらほらと感染者が確認されていたころ、何の前触れもなく首相が全国一斉に小中学校・高校・特別支援学校に休校の要請を発表しました。


彼ら彼女らの卒業式や入学式は奪われて、感染の拡大が長期化する中、今や安心して学ぶ権利すらも侵されようとしています。

「あのときずっと学校なくてやばかったよね」と笑えるたくましさが人にはあると信じつつ、だからといって、子どもの学びや育ちをおろそかにしない社会であってほしいと、思うのです。

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