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悪い夢をみた

かわいい恒星
雨の降る新宿駅の西口でぼうっとそれを見つめていたら、とつぜん振り向いた。華奢な人だった。かわいい、かわいいかわいいかわいい。一瞬目があった?人の往来が絶えないその場所で、だるそうにスマホを見ているだけのその人は、自発的に光が漏れ出ていて、夜のライトに集まる虫のように自然と目が惹かれてしまう。各界の花形をスターとはよく言ったものだな、と、虫の身分でふとそんなことを思う。光る人は自ら光っていることを自覚しているのだろうか。連絡がきたのか、スマホを抱えて彼女は去っていった。ひとりの私は、自分の湿った足元に目を落とす。せめて、私は、誰かの光を受けて輝く惑星のような存在になりたい。

スマートフォン
壊れた。え、と思うくらい一瞬だった。Netflixの再生ボタンが押せずに、滑ってしまった。とっさに受け止めようと思ったら親指が当たって、好みじゃない映画にいいね!してしまった。落ちた。画面にヒビが入って、電源がつかなくなった。またかよ、なんでカバーつけないんだよ、と弟があきれた。連絡ができなくなった。ちょっと寂しくなった。でも、あんまり困らなかった。

3月24日
かなしくってひとり泣きじゃくった街、夜、新宿、腕のあざ、霧雨、25時、タバコの吸い殻、工事現場、路上で寝る人、酔った酒、なんかのガヤ、下水の匂い、充電の切れたスマホ、絶対忘れない。

心の衣食住
衣食住に関係する仕事なら絶対に困らないから就職できるようにしなさいね、と物心ついた時から言われてきたが、実態は水っぽいアコギな職についてしまった。でも、どれだけ衣食住が整ったとしても心を満たすものは必要だ。どんな時代においても歌は人々を励まし、物語は夢を与えた。人が生きているなら、エンターテイメントは心の衣食住の役割を果たしてゆく。私はそう思ってる。お母さんごめんね、私頑張ります。

言葉と呪い
言葉は呪いだ。呪いなんて前時代的な言葉のようだが魑魅魍魎の類がワッと湧いてくるわけではない。呪いとは現象であり、原因と結果の総称であり、ただこれによってそれが起きた、を示すことである(…と、京極夏彦氏の小説を読んで私は理解した)。言葉によって誰かの気持ちが上下して、結果何かしらの行動に反映されてしまうこと、それが呪い。片思いの人に「おはよう」と言われたら飛び上がるくらい嬉しいし、アンチに「死ね」と言われたらじいんと傷つく。簡単なことなんだ。インスタントなくせに、言葉には人だけがもつ大きな力がある。私が文章を書くのは、あなたに呪いをかけたいからだ。今日も明日も生きてみても大丈夫、と少しでも思わせるような呪いを。

パラレルワールドの人々
あのとき告白を断っていたら、あのときお母さんと喧嘩しなかったら、あのとき必死に勉強していたら、あのとき流行りの映画を観に行っていたら、あのときショートじゃなくてボブにしていたら、あのとき少し離れたコンビニに行っていたら、あのときパスタを選んでいたら、あのときネイルを赤にしていたら、あのとき告白していたら…
私はあの子になれたのかもしれない

ごめんなさい
怒りの感情を人に向けることができない。おこがましいかもしれないが、人を攻撃したくなるような不快なことがあったときに、「自分がその状況を引き起こしてしまったのかもしれない」と考えてしまう。ごめんなさい、というと心が楽になる。人が悲しんで傷つくところは見たくない。心が窮屈になる。ごめんなさいを吐くと、どこか楽になって、許された気持ちになる。なんでだろう、よくわからないや、ごめんなさい。

心ない人
親友に心ない言葉を吐かれたとき、4t トラックで轢き殺された、と思った。目の前が真っ白になった。少し経つと悲しみが波のように上ってきた。でも、同時に良かった、と思った。私は「親友と絶交する」と言う感情の引き出しを手に入れた、と。私は一つ経験し得なかった感情を手にし、それを文章に書くこともできるしお芝居にも出せるようになった。私は、一つ経験し、お客様に本物の感情を届けることができるようになった。一つ成長した、一つ大きくなった。だから今日はお赤飯を食べなくちゃ。扇風機を“強”にして自分勝手な涙を飛ばす。未だに彼女と連絡は取っていない。

言葉について1
ひらがなは楽勝だった。なんならカタカナなんてもっと楽だった。そのあとは地獄だった。直線と曲線を何度も書いて練習して、死に物狂いで漢字を覚えた。組み合わせたら意味を伝えられることを学んだ。本を読んで、いろんな組み合わせを知って、組み合わせによっては人に雷が落ちるような衝撃をもたらすことができると体感した。ただルールに沿って組み合わせて並べるだけで、他人であった君と距離が近くなった。と、思ったらまったく疎遠になってしまった。ルールに沿って並べるだけなのに、何かが足りない気がする、抜け落ちている気がする。私は今、目の前で泣いている君に、なんて言葉をかけたらいいかを知らない。

ひとりとラジオ
たとえば残業時の疲れ切った身体にそっと同僚が煎れてくれるコーヒーのようなもので、たとえば「ただいま」と言ったら「おかえり」と返してくれる同居人のようで、たとえば寝るときにしがみつくシミばっかりのぬいぐるみのようで、スイッチを押せば、日本のどこかで今この瞬間に私以外の人が生活していることを教えてくれる。形はないけれどずっと、私を安心してひとりにしてくれる。おかげで、ひとりで部屋で過ごすことができます。おかげで、ひとりで仕事に行くことができます。おかげで、ひとりで眠ることができます。いつか、お礼の手紙を書きたいです。


服は武装だった。いつでもきらきらしていることが大切だった。10代のころ、無理して買ったハイブランドのバッグが街中の大きなガラスに反射してきらっと映るたび、私は都会への通行手形を手に入れた気分で安心できた。でも一瞬だった、都会のかわいいは目まぐるしくうつり変わり、かわいいは一瞬で滅んだ。ようやく、どれだけ着飾っても大丈夫じゃないとわかった私に華やかなきらびやかさはない。地味なトップスとパンツで下水と香水の匂いが混ざり合う街を歩く。こんな街にはこのくらいで大丈夫。丸くなった?そうかもしれないね、

言葉について2
ずいぶん前のBRUTUSにて、詩人の最果タヒさんが「あなたと私が、わかりあえないまま、それでも共に生きるために、言葉はあると思います。」と綴った言葉を私は忘れません。この言葉は絶対正しいと思うのです。言葉は私たちの便利な意思疎通の道具なのに、種類とルールの自由度の高さから扱うことが本当に難しい。その理由はきっと、絶対にわかりあえないのに私があなたのことをわかりたいというわがままで、無理なのに私のことをわかって欲しいというわがままだと思うのです。精一杯この生まれたての生臭いぐちゃぐちゃの感情をあなたに届けたいからなんです。

飲み会にて
ええー、私の番ですか。好きな人…うーん。わ、なんか恥ずかしいですね。あのー、私の好きな人は、自分の主張を正確に伝えたいがために形容詞がついてついて、金魚の尾鰭みたいに一文がくっそ長くなって、…結局何が言いたいのかしどろもどろになっちゃう人…。あ、あとLINEで私より大きな吹き出しで返信くれる人です。ええ、これ大事ですよ(笑)、大丈夫だなって思えるじゃないですか。目が細くて切れ長で疲れると二重になる人です。なんでですか、かわいいじゃないですか!あ、あと、すぐ面白いことやろうよ、って軽々しく誘わない人です。あ、これ全部理想なんで、別にいるとかいないとかじゃないです、はいはい、わかってますよ、ええ分かってます

恋人(距離感のケース1)
君にしか見せられないもの、いっぱいある。失敗してほとんどゲロみたいになった卵焼き、怠惰が引き起こしたたるんだお尻、昔エンタの神様でやってた全く似てない一発ギャグの真似。いつかカラオケで私がいっつも聴いてる曲歌ったら、つまんなそうな顔してスマホ開いて、終わった瞬間何食わぬ顔で自分の好きな曲歌い出したとき、私、一生一緒にいられるかもしんない、って思った。私がおばさんになったら君も立派なおじさんだね、その時までずっといられたらよかったね。

家族(距離感のケース2)
連絡がくると心臓がピッとする。胸を張れるようなことなんて何一つないけれど、電話では笑ってしまう。イライラしている時はそのままぶつけてしまう。ときどき帰ると、まるで逸れた羊を見つけて喜ぶイエス様みたいにご馳走を用意してくれる。まったく返してないのに、手紙を毎月寄越してくれる。私が自信ない姿を見せると、お母さんはときどき小さい頃に一人立ちさせたからだね、と少し悲しそうな顔をする。違うんです、ごめんね、私、頑張るので、元気だよ、ごめんね、ちゃんといい人にも出会えてさ、大丈夫だからさ、ありがとう、ごめんね、もうすぐちゃんと双方向で会話しようね。

友達(距離感のケース3)
周りの子に一瞥もせずに自分のことだけを話すあなたを、その気高さに羨ましい、と思ったと同時にちょっと嫌だなとも思った。当時の私は今よりも根無草のようにふらふらしていたから、嫌いなんて強い感情すら持てなくて、あなたの眩しさからただ離れたかった。なのにさ、きっかけなんてもう忘れてしまったけれど、私はあなたと語り合うことができて、あなたの眩しさの後ろにある孤独に寄り添えて、本当に良かった。うれしかった。趣味は一つも合わないね、考え方も合わないね、でも楽しいね。結婚式は呼んでね、旦那さんとご飯も食べよう。あなたが死んだらお葬式に行きます、私が死んだらよかったら来てね。

嫌いなもの
嫌いなものができた私は、大人に近づいたのだと思います。大人の定義がなんなのかと問われると困ってしまうのですが、とにかく、嫌いなものがわかった私は好きなものもわかりつつあります。好きを積み重ねた結果、ようやく自分がこういう人間なのかもな、と輪郭が見えたような気がするのです。もしかすると、嫌い・好きをなんのもなく言えていた小さい頃は一番大人だったのかもしれません。この調子で好き嫌いの事業仕分けをしていたら、おばさんになる頃にはようやく私という輪郭が見えそうなペースです。


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