コミュ障25年。

昔からコミュ障で、人と話すのが苦手な人間だった。

子どもの頃は、友達と遊ぶより、どちらかというと一人で遊んでいる時間の方が長く、テレビゲームも、「遊戯王」などのカードゲームも、トランプや人生ゲームだって、一人で遊んでいた。
親に友達がいないか、心配されたこともあったが…友達はいたのだ。
ただ緊張して、遊ぼう!と声をかけることができなかったのだ。

中学生になると、同じ町の別の学校出身の子が多く来るため、ゼロから関係性を築かねばならなくなった。ここが第一の変わるチャンスだった。
しかし、小学生の頃ですら、緊張していた子が、そう簡単に変わることは出来なかった。つまり「中学デビュー」に失敗したのだ。
クラスの中では、当然、イケてないグループで、かつ、そのグループの中でも末端に位置していた。

クラス内の友達」は国語の「国語便覧」と社会「(歴史の)資料集」、「(小説以外の)本」しかいなかったのだ。人間の友達は皆無だった。

ただし、放課後になると、楽しみな卓球が待っていた。昼間の学校では、誰とも会話できないのに、放課後の部活では、先輩や同級生と会話できたのだ。
朝は本を読み、休み時間はずっと国語便覧か社会の資料集を眺め、昼間は授業以外では、ほぼ無言。
クラスメートが流行りの芸能人や音楽の話をしている時も、会話に参加することはできず、彼らの声を教室の隅で(ラジオのように)聴いていたのだ。
みんなと、ドラマの話だって、AKBの話だってしたかった。

でも、「中学デビュー」に失敗して、きっかけを失った私には、そんな勇気はなかった。いじめられないように、クラスの中で、みんなの邪魔をしないような丁度いい位置にいることに努めたのだ。

中学の卒業のアルバムで行われた学年全体の投票ランキングで、「もっと話してみたかった人」「普段、何を考えているかわからない人」「怒ったら怖そうな人」の3つにおいて、堂々の1位を獲得したのだ。そして、卒業式の1日だけ、不思議とクラスのみんなと話すことができたのだ。

高校デビューしろよ!
卒業アルバムの寄せ書きに一番書かれていた言葉である。

地域の高校とはいえ、地元近隣の4町から生徒が集まっており、ゼロからの関係構築は必須となったのだが、当然、「高校デビュー」にも失敗したのだ。第二の変わるチャンスを逃した。

高校時代は、中学以上にコミュ障街道まっしぐらで、休み時間は読書、昼休みも読書、放課後も部活までは読書、研修旅行や修学旅行にも本を持っていくレベルだった。教室の中がうるさくても、不思議と周囲の声が聞こえなくなるくらい本に集中し、「話しかけないで」オーラを醸し出していたと思う。

将来の夢について考え始めたのも、この時期だったが、何かなりたいものがあるわけではなかった。ただ歴史が好きだったので、好きな歴史に携わりたいと思い、「学芸員」を目指し大学進学を決めた。

推薦で大学は決まっていたのだが、センター試験を記念に受験した時、事件が起きた。当日、筆箱を忘れてしまい、試験は一切、解答していない。別の教室で受けている友達や、試験官に「鉛筆と消しゴムを貸してください」と言えなかったのである。言おうとすると、こみ上げてくるものがあり、トイレへ急行したのだ。

この一言すら言えないのか、とトイレで泣いてしまった

中学同様に、クラスや学年のみんなと会話ができたのは、やはり卒業式の1日だった。自分では面白いと思ったことは一度もないのに、「こんなに面白いキャラなら、もっと早くから話していれば」と多く言われたのが、嬉しかった。

18年住んだ故郷を離れ、ほぼ知っている人がいない札幌へ。
第三のチャンス、「大学デビュー」を果たし、学業とサークル活動とバイトに明け暮れ、人生で初めての彼女もつくって……コミュ障とはおさらばだ!!と考えていたのだが、現実は甘くない。完全に失敗した。
結論から言うと、同期と話せるようになったのは、卒業までの1ヵ月だった(笑)

4年間、図書館に通い続け、(本の借り方を知らないので)ひたすらに紙に書き写す日々だった。知らず知らずのうちに、図書館で働いてみたいと思い、在学中に「司書」の資格も取った。

卒業して、選んだのは図書館だった。
勤めてみると、司書は、立派な「接客業」だった。
コミュ障の私にとっては非常に壁が大きく、かなり苦労した。
学校と違い、定められた年数を通ったら卒業という決まりが無いので、今までのように、卒業時期に話せるチャンスは来ない。

大きな転機となったのは、就職して4年目。
その2年前から中間管理職(チーフ)となっていた私は、その頃、ストレスがピークに達し、メンタルに異常をきたしていた。
毎日、職場の貸与PCを家に持ち帰り、夜中まで仕事をし、ほぼ寝られず仕事に向かい、職場では上司と現場スタッフたちの間で板挟みになり……好きだった本は一切読めず、推していたアイドルの乃木坂46すら見ることもできなくなっていた。
職場の同僚全員のことが大嫌いで、死ぬことすら考える状態だった。

ストレスがMAXになると、髪を抜くこともしばしばあった。

もう限界だ、と思い、降格を願い出た。
就職してから初めて、勇気を出して伝えたことだと思う。

役職は1つ下げられ、サブチーフになった。

コミュ障だったゆえに招いてしまった結果だと思い、
それまでの自分を殺したのだ。

卒業がないなら、自分で卒業を作ってしまおうと考えて
私は今年で辞める(=卒業する)」と自己暗示をかけたのだ。

不思議なことに、1年も経たずに効果は表れて、コミュ障だった自分は、どこへ行ってしまったのか…という位、様々な世界に飛び込むことができたのだ。ここに来て初めてデビューした!(「社会人デビュー」である)

乃木坂46のライブでXのフォロワーさんに会ったり、
ラジオにメールを投稿したり、
ある直木賞作家さんの(非公認)ファンクラブに入ったり、
職場で(勝手に)オススメ本コーナーを作ってみたり、
シェア型書店の棚主になったり……。

大人になっても、ずっとコミュ障のままで、友達は本だけという変な人間になってしまうと思っていたから、好きな子とお酒を飲みに行ける日が来るとは想像していなかったよ。

#想像していなかった未来

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