伊達政宗㉒

最上と伊達は攻守の役割を持たされていて、最上が守、伊達が攻である。
ところがずるいことに、政宗は諸大名が最上領から引き上げたのを見ると、奪った白石城の返還を条件に、上杉と講和してしまった。
白石城を返すと言っても、政宗は返還の手続きはしない。
つまり、「実力で最上領を奪ってみろ」ということなのである。上杉が最上に勝って、中央の形成が東軍に不利ならば、政宗は上杉と手を結んで西軍に寝返る。
一方、中央で東軍が勝った時のために、政宗は留守政景を最上に派遣し、最上に加勢している。しかしこれ以上の加勢がある訳ではなく、いわば政景は捨て石である。
(実に殿らしい)
と、小十郎はほくそ笑んだ。

最上勢は7000だが、各地の守りのために兵力を分散しており、山形城には4000人しかいなかった。
12日に、上杉軍は畑谷城を包囲する。
畑谷城には、江口満清以下500の兵しかいない。
義光は江口に撤退するように命令していたが、江口は命令を無視して抵抗した。
激しい戦いの後、畑谷城は落城したが、上杉勢は1000の死傷者を出した。
17日、上杉の別動隊が上山城に攻めかけた。
上山城の兵も500。
しかし城主の里見民部は城門を開けて打って出て、しかも上杉軍の背後に伏兵を置いて、兵力が少ないながら上杉軍を挟撃した。
上杉勢は400もの首を討ち取られ、上山城攻めの別動隊は足止めを食らってしまった。
しかし庄内方面からの上杉軍は快進撃を続け、18日までに寒河江城、白岩城、谷地城、長崎城、山野辺城が落城した。
直江兼続の本隊も、八沼城、鳥屋ヶ森城を落とした。

一方、南部藩領内の二子城で、和賀忠親が一揆を起こすために人員を集めていた。
忠親は和賀郡を治める独立した大名だったが、小田原攻め、自ら参陣せず名代を派遣したことで改易され、所領は南部藩のものになった。
忠親は政宗を頼って伊達領の胆沢郡に住していたが、今回の天下分け目の大いくさが旧領回復の機会だと政宗に説かれ、忠親は旧臣を集めて蜂起することにした。
花巻城主は北信愛だが、養子の信景は別方面の一揆を鎮圧に向かっている最中だった。
しかし、花巻城襲撃計画は情報が漏れた。
北信愛は城が手薄であることを憂慮し、城下に箝口令を敷き、町民の妻子を人質として城に入れて備えた。
9月20日夜、一揆勢は花巻城を襲撃した。
花巻城は三の丸、二の丸を攻め落とされたが、本丸がどうしても落ちなかった。
信愛は兵力の少なさをごまかすため、鉄砲に玉を込めずに空砲を撃たせ、間断なく射撃音を響かせることで和賀勢の士気を挫いた。
南部勢の抵抗に和賀勢は攻めあぐね、夜明けと共に北信景の軍やその他の援軍が到着したので、和賀軍は撤退した。
南部勢は後を追い、和賀勢は獅子ヶ鼻城に180名の人数で立て籠るが南部勢の攻撃を支えきれずに二子城目指して再び退却する。
しかし二子城も老朽化しており、守りきれないと判断した和賀忠親は、飯豊に向かった。
南部勢はそれ以上深追いはせず、二子城を破却して花巻に戻った。

(いかにも殿らしい)
と、小十郎は思った。老獪で横着で機略縦横、昨日までの味方を裏切るのに、いささかもためらわない。
(しかしこれはいくさが長引くと判断してのことではないのか?中央の大いくさが短期に終わるなら、それに見合った動きをすればよいものを)

9月15日、
最上から援軍の要請が来た。
「ーー我らの役目はは上杉を抑え、上杉領を切り取ることでござる。最上への加勢は無用のことかと思いまする」
「と、小十郎は言った。
「それについては儂も考えた」
政宗は言った。「しかし儂にとっては、御母堂が気がかりじゃ」
「はーー」
小十郎は解せない。
政宗の生母の義姫は、文禄4年(1593年)に伊達家を出奔し、実家の最上家に帰っている。
弟の小次郎を殺した政宗の元にいるのが気詰まりだったのだろう。
(御母堂様の御身をご案じなさるのはわからぬでもない。しかし伊達家が所領を増やすにはいくさが長引かねばならぬ。その機会をふいにしてしまわれるのか)
小十郎には、政宗がわからない。
(精神的に落ち着かれ、波乱を求めぬようになられたのか?それならそれで良いことではあるがーー)
結局、留守政景を派遣して最上に加勢することになった。

その頃関東から東海にかけては、徳川家康を天下人にする上昇気流が大きく渦を巻いていた。家康率いる上杉討伐軍は、下野国小山で会津征伐の中止、西進して石田三成を討つことを決定したが、豊臣家の縁戚である福島正則が先鋒を引き受けることを申し出、西軍に寝返る大名はほとんどなかった。
また遠州掛川城主山内一豊は、掛川城を徳川軍に預けることを申し出なかった東海の五将が一豊に倣って家康に城地を献上するという事態になった。
そして西進し関ヶ原に至るが、家康の西軍に対する内部工作が、家康が天下人になるのが上昇気流が日本全体に及んでいたことを示している。
9月15日、関ヶ原。
南宮山には毛利秀元がいた。
毛利家は、名目上とはいえ西軍の盟主である。毛利輝元が西軍の総大将として、大坂城にいる。毛利秀元の軍はその分隊だった。
しかし、家康の調略の手は毛利家にも及んでいた。
毛利の吉川広家が内応し、南宮山の毛利は動かないことを家康に約束していた。そのため南宮山の麓にいた長束正家や長宗我部盛親安国寺恵瓊も動かなかった。
さらに家康は、秀吉の甥の小早川秀秋も内応させていた。
秀秋は松尾山の陣から山を下って、大谷吉継の軍に攻めかかったが、大谷吉継は小勢ながらそれを支え、逆に押し返した。
そこでさらに家康は、脇坂、朽木、赤座、小川を寝返らせ、大谷勢を壊滅させた。
結局、西軍で戦ったのは石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継だけで、他は島津を除いて全て東軍に寝返ることで決着がついた。
その後東軍は三成の居城佐和山城を落とし、大坂城に迫った。
大坂城に向けて進みながら、家康は毛利に大坂退去の交渉をしていた。毛利側の交渉相手は吉川広家である。
徳川方は本領安堵を条件に、毛利の大坂退去を約束させた。
ところが輝元が大坂城を退去し、9月27日、家康が大坂城に入ると、家康は毛利に改易処分を言い渡した。しかも吉川広家に周防、長門36万石を与えるという処分も同時に下した。
「毛利の両川」と言われる吉川家との離間の策を計られては、毛利氏も戦えない。
吉川広家も、毛利のために良かれと思ってしたことで、主家を潰して自分が独立の大名になることが本意だったのではない。
広家は「自分にも輝元と同様の罰を与えてください」と家康に起請文を差し出し、10月10日、家康は広家に与えるはずだった防長二州を輝元に安堵した。
北陸では、前田利長が奮戦していた。
利長は前田利家の嫡子だが、関ヶ原では東軍に味方し、関ヶ原に向かう途中、山口宗永の大聖寺城を落とした。
しかし小松城城主の丹羽長重(丹羽長秀の子)の動きを警戒し、金沢城に撤退した。
丹羽長重は浅井畷で前田軍を急襲した。前田軍は道が細い浅井畷で大軍の利を活かせなかったが、なんとか丹羽軍を撃退して金沢城に入城した。
その後利長は再度出陣したが、利長の弟の利政は動かなかった。利政が動かなかったのは、妻子が人質に取られていたためとも、密かに石田三成に気脈を通じていたためとも言われている。利長は利政が西軍に通じたと家康に訴えた。
家康は利政を改易し、利政の七尾城22万石と大聖寺領、小松領を合わせて、再検地の上120万石を領する日本最大の大名になった。家康は前田をして北陸の鎮撫としこうして家康は中国と北陸を抑えた。
四国は長宗我部盛親が、当初は替地を与えられる予定で、そのために盛親は上洛までしていた。
しかし国替えに不満だった土佐の一両具足が浦戸一揆を起こしたため、替地を反古にされ改易となった。こうして家康は四国を抑えた。
九州では黒田長政の父の如水が豊前、豊後を転戦し、如水は久留米にまで足を伸ばした。
また肥後では、肥後半国の領主加藤清正が同じ肥後の領主小西行長が関ヶ原に参陣している留守中に、行長の居城宇土城を攻めていた。
家康は長政に筑前福岡52万石、清正に肥後一国56万石を与えた。
佐賀では、鍋島直茂は最初西軍につき、子の勝茂を参陣させていたが、銀子500貫で米を買い付け、徳川秀忠の買い占めた米の目録を差し出した。そして関ヶ原の本戦には勝茂を参加させず、このため鍋島は本領を安堵された。
しかし家康も、島津だけは手が出せなかった。
島津は関ヶ原の本戦に参加したが、石田三成と仲違いし、本戦で軍を動かさなかった。
関ヶ原で西軍が壊滅した後、島津義弘は東軍を中央突破して戦場を離脱するという快挙をなした。
そして退却戦で、「すてがまり」という苛烈な戦法を用いた。これは殿(しんがり)の小部隊がその場に留まって全滅するまで戦い、小部隊が全滅するとまた殿の小部隊がその場に留まって戦うというものである。
この「すてがまり」により、徳川軍では井伊直政と家康の四男の松平忠吉が負傷している。
攻めようにも、九州の南の端は遠く、しかも島津勢は激しく抵抗することが予想された。
ともあれ家康は、島津の薩摩、大隅、日向の三国を除く九州を抑えた。
家康に帰服しない大名は、上杉、佐竹、島津だけだった。他に「城を枕に討ち死に」する覚悟で抵抗する大名はいなかった。

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