後白河法皇⑯

平家は、初めての武士の政権であるため、経験不足な面があった。
後白河法皇の幽閉などは、鎌倉幕府以降の政権では、承久の乱くらいの事件がなければ上皇、法皇の身に触れることはしなかった。
平家は日本の半分を知行国としたが、大体日本の半分以上を直接支配した政権というのは、その後衰退に向かう。元寇の後の北条執権政治も、政情不安を浮けて、北条一門が40ヶ国の守護となった。しかしその後、後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府は滅びた。
ただ半分以上を支配した場合というよりも、統治の正統性が低下したのを実効支配地域を拡げることで補おうとした場合に、政権は衰退するらしい。
この後、平家の政権は急速に崩壊に向かうのである。

後白河法皇を幽閉した後、清盛は高倉天皇を譲位させ、高倉上皇の院政により後白河法皇が院政をできなくしてしまおうとしていた。
11月21日、清盛は院庁年預の中原宗家に院領目録を提出させ、12月には後院庁を設置した。高倉院政のための下準備である。
そして治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇は譲位し、言仁親王が践祚した。安徳天皇である。
清盛は、天皇の外祖父になった。
その頃、後白河法皇は、正月下旬から病気になっていた。
平宗盛の許可を得て、典薬頭の和気定成が診療に赴いた。
後白河法皇は憔悴し、気弱になっていた。
「もう一度、熊野詣に行きたい」と、後白河法皇は定成にこぼした。

3月、清盛は、高倉上皇の厳島行幸を計画していた。平家の氏神を祀る厳島神社に高倉上皇が行幸すれば、平家の権威がいやが上にも増すことになる。
ところが、慣例では上皇になってからの最初の参詣は、石清水八幡宮、加茂社、春日社、日吉大社のいずれかで行うことになっていた。
延暦寺、興福寺、園城寺といった宗教勢力は、高倉上皇の厳島行幸に猛然と反発した。
この三寺の僧兵達が高倉上皇と後白河法皇を奪取する計画が進行していた。このことは、後白河法皇にも伝えられた。
ところが、後白河法皇は僧兵達の動きを平宗盛に伝えた。
宗盛は鳥羽殿と高倉上皇の御所の警備を厳しくしたが、報告を聞いた清盛は、後白河法皇に対する警戒心を軟化させて、京極局と丹波局が鳥羽殿に入ることを許した。

また後白河法皇は、清盛の強硬な態度に屈したのか?
実は、これには裏がある。

源頼政は、平治の乱で最初は藤原信頼に味方したが、途中で平家に味方したことにより、中央政界で生き残ることかできた。
長らく正四位であったがそれを嘆いた頼政は、
「のぼるべき たよりなき身は 木の下に
椎をひろひて 世をわたるかな」
と歌を詠んだ。椎は「四位」にかけてある。
この歌が清盛の耳に入り、清盛は頼政を憐れんだ。
清盛は、頼政を従三位に昇進させた。
この時、治承2年(1178年)。頼政75歳。
従三位は、公卿の身分である。
平家以外で公卿となるのは異例のことであった。
以後、頼政は源三位頼政と呼ばれるようになる。
この頼政が挙兵した動機については、『平家物語』によれば以下のようになる。
頼政には、仲綱という嫡男がいた。
仲綱には、木の下という愛馬があったが、平宗盛が木の下に目をつけ、木の下を譲るように仲綱に頼んだ。
仲綱は断った。
それでも宗盛は、しつこく木の下を譲るように要求した。
頼政は、仲綱を諭して木の下を譲らせた。
こうして宗盛は木の下を手に入れたが、仲綱が何度も強情に拒否したのを根に持っていたらしい。
木の下を改めて仲綱と名付け、「仲綱、仲綱」と呼んで引き回したり鞭打ったりしたという。
この屈辱により、仲綱の父頼政は謀反を決意したという。
頼政は、以仁王に謀反の話を持ちかけた。
以仁王は、後白河法皇の第三子である。
本来なら親王になるはずだが、親王宣下を受けていない。
以仁王の母方の叔父の藤原公光が失脚したことで、親王宣下を受けられなかったという。平滋子が自分の子の高倉天皇を即位させるための妨害工作をしたらしい。
以後、後白河法皇も以仁王は放置していた。
しかし、以仁王の背景はなかなか大きいものがある。
以仁王は、八条院の猶子になっていた。
八条院とは、後白河法皇の異母姉である。
八条院は政治にこそ関与しないが、父の鳥羽法皇や母の美福門院から膨大な数の荘園を譲り受けており、また二条天皇の准母でもあった。
以仁王は皇位継承への望みを持ち続けていたが、安徳天皇の践祚により、その望みも断たれた。
頼政の誘いを受けた以仁王はその気になり、「最勝親王」と名乗り、諸国の源氏の平家追討の令旨を発した。
しかし、以仁王の謀反の計画は漏れた。
5月15日、清盛は高倉上皇を通じて、以仁王を「源以光」として臣籍降下させ、土佐に配流する院宣を発した。
検非違使別当の平時忠は、300騎を率いて以仁王の三条高倉邸に向かった。
なお、この時点では、平家は頼政の関与の事実を掴んでいない。
なぜなら、検非違使の中には頼政の養子の兼綱がいたからである。
兼綱は以仁王に密かに伝え、自分は何食わぬ顔で追捕の一行に同行した。
三条高倉邸はもぬけの殻で、以仁王は園城寺に向けて逃亡していた。
以仁王は園城寺に入った。
平家は以仁王の引き渡しを要求したが、園城寺は拒否した。
以仁王は、延暦寺と興福寺にも協力を呼びかけた。
平家も有力寺社には容易に手が出せず、数日が過ぎた。
21日、平家は園城寺攻撃の編成を決めたがその大将は頼政だった。
ここで頼政は自邸を焼き、仲綱や兼綱と共に50騎を率いて園城寺に入った。
しかしここまで頼政の謀反が漏れなかったとは考えにくい。それもあろうことか、平家が謀反の張本人である頼政を大将にしているのである。
『平家物語』のこの筋書きは信用できない。
頼政は最初から謀反には関与していなかったのであり、平家にとって以外なことだった。
それではなぜ、頼政はこの時点で謀反に加担したのだろう。
なお、頼政は謀反に加担していなかったが、以仁王の挙兵は知っていた可能性が高い。
なぜなら以仁王の令旨を各地に伝えたのは源行家である。行家を通じて頼政に伝えられた可能性は充分にある。
それを考慮に入れても、「諸国の源氏」とは平治の乱で衰退した河内源氏が大半であり、摂津源氏の頼政とは系統が違う。「源氏のよしみ」で頼政が挙兵したとも考えにくいのである。
ここで考慮すべきことがある。
天台座主の明雲が捕らえられて伊豆に配流となって、延暦寺の僧兵に奪還されたことは前に書いたが、その時明雲を護送していたのが頼政である。
頼政はこの失態で後白河法皇に譴責されたが、頼政は宗教勢力に常に味方する性質の人物だったのではないか?
この後諸国の源氏が立ち上がったため、「同じ源氏」として最初に立ち上がった頼政を挙兵の首謀者とした方が筋書きとしては面白いから、『平家物語』ではそのようにしたのだろう。

協力を求められた延暦寺は、園城寺と対立していたため呼応しなかった。
また園城寺内でも親平家派が多く、園城寺では戦えないと判断した以仁王と頼政は、興福寺に頼ることにした。
平家も追討軍を派遣した。平家方の大将は清盛の五男の平重衡と重盛の嫡男の平惟盛。
「南都に防御の間を与えず直進しよう」と重衡、維盛は言ったという。
これに対し、「若い人は軍陣の仔細を知らず」と藤原忠清が言って諌めたという。
藤原忠清は、保元の乱で源為朝を戦った豪の者である。
この後、平家軍は以仁王に追いつくのだが、どういうことだろう?
この兵乱は以仁王と頼政を討てば一応の目処がつくのだが、文脈から考えて、重衡と維盛は以仁王らを無視して興福寺を攻めようとしていたらしい。
二人とも、このいくさが初陣である。
総大将が二人というのもおかしい。この任命は宗盛の人選で、清盛は関与していないのではないかという気がする。
こうして見ると、長い間いくさから離れていた平家の公達に、人材が払底しているのが垣間見える。
26日、平等院で休憩をとっているところに、平家の軍勢が押し寄せてきた。
頼政は宇治橋の橋板を落として防戦した。
双方、矢を放ってのいくさになった。
頼政方では、五智院但馬、浄妙明秀、一来法師という、三人の僧兵の奮戦が目覚ましかった。特に五智院但馬は飛んでくる矢を刀でいくつも切り落とし、「矢切但馬」と呼ばれた。
藤原忠清は河内に迂回して南都に入ることを進言したが、足利俊綱、忠綱父子(藤原姓足利氏、源氏の足利氏ではない)が「馬筏により渡河は可能」と言って、忠綱は宇治川の急流に馬を乗り入れた。
坂東武者300騎が忠綱に続き、宇治川の水流が緩やかになり、歩兵が川を渡った。
平家方に強硬突破され、頼政は以仁王を逃すために平等院に戻った。
平等院で防戦したが、仲綱は重傷を負い自害、兼綱も八幡太郎義家の如く奮戦したが、やがて討たれた。
もはやこれまでと、頼政は念仏を唱え、郎党の渡辺唱(となう)の介錯で自害した。
享年77。辞世の句は
「埋木の 花咲くことも なかりしに
身のなる果は あはれなりける」
である。
以仁王は30騎に守られて平等院を脱出したが、山城国相楽郡光明山鳥居の前で、藤原景高の軍勢に追いつかれ、矢に当たって落馬したところを首を取られた。

しかし、誰も以仁王の顔を知らず、その後もしばらく生存説が囁かれた。
また以仁王の猶母の、八条院の関与も噂された。
しかし、八条院を影で操って、以仁王を挙兵させたのは後白河法皇である。

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