一領具足⑫

こうして元親は、両者の意見を聞いた。

(意見を聞くことが重要であった)

大事に望むほど、意見を聞いて不満を散じ、結束を強めなければならない。

そして土佐の一領具足の危機感は強く、当面秀吉が四国に手を出す機会はないながらも、機先を制して三好を叩くべきという点で元親と一致していた。

「この度、15歳から60歳まで、人の次男、三男、無足人(知行、財産がない者)によらず、心がけ次第にまかり立つべし。その身の恩賞望み次第たるべし」

と布告した。

元親は、土佐一の宮の土佐神社に参詣した。

土佐神社は『土佐国風土記逸文』にも記載がある神社で、祭神は一言主神、または味耜高彦根神と言われている。

伝説では、雄略天皇が葛城山で一言主神と出会い、天皇と猟を競ったために土佐に流されたという。土佐は古くから政治犯の流刑地として知られているが、神も流される国である。

そんな国を代表するような神様だが、今、その土佐が、元親により歴史の光を浴びている。

緋縅の鎧一領と黄金の太刀一振を奉納し、戦勝を祈願した。

天正10年8月、長宗我部軍は動いた。

その作戦は壮大なものだった。

元親は23000という大軍を率いて岡豊城から出陣し、阿波の諸城を落としながら、十河存保の阿波側の拠点である勝瑞城を目指す。

一方、元親の次男の香川親和が10000の兵を率いて、白地城から讃岐に入り、十河存保の讃岐側の拠点である十河城を攻め、阿波と讃岐が連携できないようにする。

この時親和15歳、初陣である。養父の香川信景が実質上の総大将だった。

元親は岡豊城を出発した。

土佐から阿波に入る場合、海岸沿いの険路を伝っていく。

元親は、阿波の東の端にある牛岐城に入った。

牛岐城で受けた報告は、十河存保は一宮城、夷山城を放棄して、本拠の勝瑞城に兵力を集中したとのことだった。

8月26日、元親は牛岐城を出て、一宮城、夷山城を接収し、北上して中冨川の南岸に達した。

対岸には勝興寺城があり、三好勢5000が守っている。その奥に、存保の勝瑞城があった。

8月28日、元親は長宗我部勢を二手に分け、中冨川を渡り、勝興寺城を東南と西南から攻撃した。

それに対し、三好勢は勝瑞城から新手を繰り出し、長宗我部勢を横から攻撃してくる。

長宗我部勢は一時、中冨川まで押し戻される局面もあったが、多勢であることにより三好勢を押し返し、遂に勝興寺城を落とした。


元親は勝瑞城を囲んだ。

元親の用意のいいところは、紀州から雑賀衆を呼び寄せていたことである。

これから秀吉が台頭し、中央政権を作ると見越して、かつての反信長包囲網を形成した面々が、秀吉を牽制するために手を組み始めている。越後の上杉、雑賀衆、そして長宗我部元親。しかし毛利はこの同盟に入っていない。

また元親は、清洲会議で秀吉と対立した柴田勝家にも、手を組むように呼びかけていた。

(秀吉の台頭は、可能な限り遅らせる。できるなら台頭する前に秀吉を潰す)

しかし目下は、阿波の平定である。そのためには勝瑞城を落とすこと。

元親は、既に大軍の将である。ただ勝瑞城を囲んでいれば良かった。

ところが、9月5日。

季節は夏から秋に入り、秋雨前線が形成されていた。そこに台風が上陸してきた。

雨が激しく降りそそぎ、蓑を着ていても体がぐっしょり濡れた。昼でも遠くの景色が見えぬほどで、目を開けていられないほどの激しい雨だった。

この雨で、中冨川はみるみる増水していった。川の上流ではより雨が激しいらしく、濁流が轟々と、すさまじい勢いで流れていく。

(まずい!川が氾濫する!)

付近の民家を徴発して雨を凌いでいた元親は、

「土嚢を詰め!」

と命じた。

兵士達は土嚢を積んだ。

「父上!兵を引かれ、山際に陣を張られませ!」

と、近くの民家にいた信親が上がり込んで進言した。

「何を言う!城は間もなく落ちる。それまで陣は引けぬ」

「この雨では、包囲を解いても城は囲まれているも同然にござりまする。兵が流されてはいくさになりませぬ」

と信親が言った時、

「ごうっ!」

という音がして、民家に水が流れ込み、元親はたちまち胸まで水に浸かった。

中富川と、その本流の吉野川の堤防が決壊したのである。

(しまった!)

元親は濁流に流され、民家の壁に体を打ち付けられながら思った。

水の流れが緩やかになると、元親は外に出た。しかし既に夕暮れとなり、全軍の様子がわからない。

元親は屋根に登った。

(もっと早くに全軍を引いていれば…)

元親の後悔は激しいものだった。この洪水で、長宗我部軍は全滅したかもしれない。

「父上、身動きが取れぬのは三好も同じにございます」

信親が元親を励ました。

(そうじゃ、今はできるだけ兵を集めることじゃ)

元親は民家の屋根に登った。信親もそれに続いた。

「誰かある!」

元親は叫んだ。「弥三郎(信親)も叫べ!人を呼べ!」

「はっ!誰かある!」

信親も叫んだ。

「殿!」

と、やがて元親の民家の周りに人が集まってきた。

「本陣を光勝院に移す。弥七郎(香宗我部親泰)と親吉に人を集めるように伝えよ」

人はさらに集まってきて、雨の中、ただひたすら立ち尽くしていた。

食糧もない。火も炊けない。

「皆の者、耐えよ。雨が止み星が出たら移動する」

この雨では、方角がわからなくなる恐れがある。星を見て方角を確かめる必要があった。

「牛岐城に使いを送れ。城内の銭、金銀、鉄砲、硝石を全て出すようにと。兵糧も出せるだけ出せ。出した分は後で必ず補う」

やがて雨は小振りになり、夜半には晴れ星と、細い下弦の月が出た。

元親は天を見た。天には北斗七星があり、その位置が分かれば北極星がわかる。

「西はこの方角じゃ」

元親は西を指さして言った。「民家の梁を壊して松明を作れ。5、6束で良い。一束だけ火を点けよ」

元親は馬に乗り、軍は西に進んだ。

兵は半日、食事も取らずに雨の中を立ち尽くしている。疲労と空腹で、今にも倒れそうだった。

「体力の残っている者は、疲れた者に肩を貸してやれ」

歩くうちに水が減り、やがて軍は水没地域を脱した。

「頑張れ、もうすぐ光勝院じゃ」

元親は兵を励ました。

元親は光勝院に辿り着いた。

「岡豊に使いを送れ」

元親は言った。

「岡豊より、ありったけの銭、金銀、兵糧を遅れ。銭と金銀は早めに本陣に届くように」

と、元親は使者に伝えた。

「この寺で煮炊きして貰って、それを食って、強飯を貰ってから行くが良い」

と、元親は付け加えた。

この状況では、食糧は多く水没している。

食糧を手に入れるには、何より銭であった。兵糧は水が引かねば送れない。

(これは良い機会かもしれぬ)

元親は思った。阿波平定の良い機会だということである。

この水害で、十河存保は領民の救済に動かなければならないが、領民を救済しながらいくさなどできない。

かといってこのままいくさを継続しても、今年の収穫も見込めない土地でいくさなどできるものではない。

翌日、9月6日。

元親は朝から人を方々に走らせて、食糧の調達に努めた。

「相場の倍までは良いぞ」

元親は言った。相手がそれ以上値を釣り上げようとしたら、脅して徴発せよということである。

なるべく略奪に走らせないようにするための措置だった。脅してでも、相場より高く買えば恨みは少ない。

それでも手に入る食糧はわずかで、兵は兎や猪、または鼠まで獲って飢えを凌いだ。

食糧だけでなく、薬がなかった。

多くの兵が負傷して、泥水に傷をさらし続けて歩いたため、傷口に細菌が入り込み、破傷風にかかった。

「舟を調達し、まだ水の中に残っている兵がいないか探して来よ」

元親の命令で、兵達は付近の川で漁をする民家から、小舟を2艘調達してきた。

(たった2艘か…)

元親の表情が暗くなった。

小舟に乗って兵士を探しに出た兵達は、昼過ぎに数人の兵を舟に乗せて戻ってきた。

「おお!よくぞ戻った!」

元親は兵の肩を抱かんばかりに喜んだ。

「何人かの兵は、木に登っておりました」

小舟を漕いだ兵が報告した。「しかし三好は、城から小舟を出して、『鳥刺し』と称して、木に登った兵を槍で突いておりました」

元親は顔色を変えた。

「おのれ三好め!我が軍の兵を痛ぶり殺した報いは必ず受けさせる!」

「そうじゃ!」

一領具足が口々に叫んだ。

翌7日になると、大分水が引いてきた。

水が引くと、兵は民家の濡れた米を運んできた。それでも得られる食糧はわずかだった。

米を炊くと、砂が入っていた。兵も将も、その砂ごと飯を食った。

8日になると、水はさらに引き、あちこちに水死体があった。水死体に蠅がたかり、凄まじい腐臭を発していた。

難民達が戻ってきて、長宗我部の兵達と衝突するようになった。

徴発はもはや略奪にエスカレートした。こうなっては、元親も略奪を放置するしかなかった。

濡れた米に虫が卵を産み付けて、虫が孵化していた。長宗我部勢は上下とも、虫ごと飯を食った。

食糧が減り、病気への抵抗力をなくした者から!疫病にかかっていった。

(後1日でぬかるみが固まるか)

元親は思った。

「将達に、動ける者の数を確認させよ」

と、元親は命じた。

調べでみると、全軍は半数近くが動けないとわかった。1万弱が動ける兵だった。

(かなり手荒いが、いける)

元親は、阿波の各地の情報を集めた。

水害は、中富川流域に限らず、阿波の平野部の大部分で起こっていた。

「これより勝瑞城を攻める」

元親の号令で、長宗我部勢は動き出した。

長宗我部勢の士気は高かった。

一領具足共は、食糧を手に入れるのに必死だったのである。

「やれやれ、ひどい目に遭った」

と、外から来た雑賀衆だけが零していた。


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