『太平記』相論③
弥仁王という人物がいた。
光厳上皇の皇子で、三宮と呼ばれており、親王宣下もないように、将来は門跡として妙法院に入れられる予定だった。
室町幕府が取った手段は、この弥仁王を天皇にすることだった。
しかし、三種の神器がない践祚でも、「治天の君」である上皇がいなければ践祚できない。
そこで、幕府は弥仁王の祖母である広義門院に対し、上皇の代理となることを願い出た。
広義門院は西園寺寧子という。名前の通り皇族ではない。
上皇の代理とは、「治天の君」になって院政をすることである。女性で、しかも皇族でない者が院政を行うのは始めてのことである。
こうして弥仁王が天皇に践祚し、後光厳天皇となった。
「わっはっは!」
高徳は愉快でならなかった。「北朝のあのざまを見よ!まだしも木や金で帝をこしらえた方がましではないか!まさに三種の神器のある方が誠の帝であるな!しかし見苦しくも、幕府のなかなか潰れぬことよ」
高徳は、内心理想を述べて、思い通りにいかない北畠親房を嘲笑したのである。
「これで幕府に徳があるか。これでまた幕府が盛り返せば、帝に徳がなかったことになるのか」
もはや高師直も足利直義もいない。
足利尊氏が、一人で政治を治めることになった。だから幕府にも分裂はない。観応の擾乱は終わった。
幕府が分裂しない以上、南朝としても付け入る隙がないのである。
(よしひとつ、書いてやろうかの)
高徳は筆を取った。楠正成が、九州から攻め上ってくる足利尊氏に和議を求めるよう、後醍醐天皇に進言した時のことである。
「新田義貞の首を差し出してしまえ」と、楠正成に言わせた。
さらに後醍醐天皇が正成の提言を容れず、正成に出陣を命じると、
「討死せよと勅命を下して頂きたい」
と、高徳は正成に言わせた。
すると、幕府贔屓からの受けが良かった。要するに、
「もっと南朝を引き下げてほしい」
ということである。
これには高徳もかちんときた。
(新田義貞は足利尊氏と同じ源氏ではないか?しかも筋目を言えば、新田の方が宗家ではないか?)
新田氏の祖新田義重は、足利氏の祖足利義康の兄である。しかし北条氏が足利氏を優遇したために、足利氏の方が宗家と見られるようになった。
(ならこれならどうだ)
高徳を、高師直の「好色」について書き始めた。
二条関白の娘を強奪して子を産ませたり、塩谷判官高貞の妻に懸想して恋文を送ったが封も切らずに返され、塩谷判官の妻の侍女を脅して、その風呂場を覗いたりして、挙げ句高貞に謀反の志ありと讒言して、討手を放って塩谷判官を殺す話を書いたりした。
この話が江戸時代になって『忠臣蔵』の話に仮託され、浅野内匠頭は塩谷判官、吉良上野介は高師直になった。ちなみに師直の好色の話は、同時代の資料にはない。
すると、夢窓疎石から手紙が来た。
この頃になると、高徳にも直接手紙が届くようになっていた。玄慧が正平5年(1350年、北朝では観応元年)に亡くなったことが大きい。またこの頃も、高徳の文章力が上がっていたことも大きかった。
夢窓疎石は後醍醐天皇に国師号を授けられてから、歴代天皇に国師号を授けられ、「七朝国師」と呼ばれていた。また尊氏、直義兄弟の崇敬が篤く、疎石の勧めにより、尊氏は後醍醐天皇を弔う天竜寺や、全国に安国寺を建立した。また疎石が建立した西芳寺の庭園は世界遺産になっている。
「大納言殿(尊氏)には3つの徳がある。ひとつは心が強く、いくさの際も常に笑みを絶やさず、死を恐れるということが全くない。ふたつ目は慈悲深く、他人を恨むとをことを知らず、仇敵をも許し、しかも彼らに我が子のように接する。みっつ目に心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀でさえ土くれのように見て、物を与える時もそれを確認もせずに手に取るままに人に与えてしまう」
要するに、高師直を庇いはしないが、足利尊氏は立てろということである。
高徳は、大きなため息をついた。長考した挙句、
「源氏でなければ将軍になれない」
と、草稿に書いた。
源氏のみが将軍になれる伝説の始まりである。
しかし、これほど史実を反映しない伝説はない。
現実には実朝暗殺以来、鎌倉幕府では藤原将軍二代、親王将軍四代が続いている、建武の新政からも、大塔宮護良親王が征夷大将軍に就任している。
(なぜ儂が源氏将軍の肩を持たねばならぬのだ)
すると、さらに夢窓疎石から手紙が来た。
「東寺合戦の時も、危ない時が何度かあったが、大納言殿は『いくさに負ければそれでおしまいなのだから、腹を切る時だけ教えてくれればよい』と答え、少しも動揺することがなかった」
とあった。
高徳も武士である。尊氏が勇敢なことは知っていた。
(しかし、どうも引っかかるのう)
高徳は思った。そして書いた。
「尊氏公は石清水八幡宮の願文に『この世は夢の如くに候、尊氏に道心賜せ給候て、後生助けさせをはしまし候へく候、猶猶遁世したく候、道心賜せ給候へく候、今生の果報にかへて、後生たすけさせ給候へく候、今生の果報をは直義にはせ給候て、直義安穏にまもらせ給候へく候」
(これだ!)
高徳は思った。(大納言殿はまことに欲のないお人であるが、浮世を厭い、遁世の願望をお持ちである。そして左兵衛督殿(直義)に政務を任され、そのために擾乱を起こされた。少年のように御心が清らかでありながら、天下を執権するには頼りないと言わざるを得ない)
もちろん、このように書いておいて、尊氏が結局直義を殺したことを当てこすったのである。
すると、細川和氏から反論がきた。
「8月1日の贈答(当時は8月1日に物を送り合う習慣があった)で大納言殿の元には山のようにものが届いたが、届いたそばから人に与えてしまって、夕方には何も残らなくなった。大納言殿はそういう気前の良いお方で、いくさ場では功ある者には即座に恩賞の下文を書き、また佩用する刀二振やお持ちの軍扇をその場で与えることもあった。そのようなお方であるから、皆命を忘れて死を争い、勇み戦ったのである」
尊氏の石清水八幡宮の願文、削除。
代わりに、尊氏が九州に落ち延びる時には、先を憂いて「切腹する」と言わせたり、後醍醐天皇に背いたことを悔やんで「出家する」と言わせたりした。
するとまたあちこちから、尊氏を持ち上げるように圧力がかかってくる。
さすがに高徳も、しばらく無視していた。
すると今度は、後醍醐天皇を悪く言ってくる手紙が届くようになった。
北畠親房が、「吉野院は武家を重んじすぎた」
と、手紙を送ってきた。
(ならば幕府をそのまま認めておけば良いのではないか?そもそも准大臣殿(北畠親房)は幕府をおいそれとは否定できないとか武士を重んじるなとか、矛盾ばかりではないか。結局准大臣殿は鎌倉幕府の頃のままで良かったのではないか?准大臣殿の不満はないものねだりじゃ)
他にも、綸旨を乱発したことなど、かつての後醍醐天皇の新政への不満の手紙が多く寄せられた。
(儂とて武士じゃ、吉野院がそれまでの土地の権利を白紙に戻そうとしたのは行き過ぎじゃと思うておる。しかしなぜこうも大納言殿が人気があって、吉野院は人気がないのじゃ。このままでは楠公がお気の毒すぎる)
そこで高徳は、『太平記』の序文を思い起こした。
「もしその徳欠くる則は、位有りといへども、持(たも)たず。いはゆる夏の桀は南巣(なんそう)に走り、殷の紂王は牧野に敗す。その道違ふ則は、威有りといへども、保たず」
(その通りじゃ。吉野院は徳が無く、道を違えたから、吉野で寂しく世を終えられたのじゃ。だから何をしても、幕府を打倒できぬのじゃ。しかしそれなら楠公はどうなのじゃ?楠公は忠を全うして死んだではないか。人が楠公を見倣ってこそ太平に辿りつけるのではないか?そうではなく大納言殿のように生きねば太平に辿りつけぬのか?)
南朝が占領した京は、すぐに奪還された。
(しかし楠公のような生き方ができるものか。儂にしたとて幕府に加勢して、恩賞を得てこんな小地頭から抜け出したかったのじゃ!)
高徳の中で、何かが音を立てて切れた。
高徳は書いた。大塔宮護良親王が足利尊氏の命を狙い、「大塔宮が謀反を企んだ」と讒言されて、後醍醐天皇は大塔宮の身柄を尊氏に引き渡した時、
「尊氏より帝が恨めしい」
と言ったと、高徳は書いた。
(帝は都合が悪いと、すぐに誰でもお見捨てになるお方である。吉野院のようなお人を不徳の君というのよ!)
さらに後醍醐天皇の崩御にも筆を加えた。忠雲僧正が「今は偏(ひとへ)に十善の天位を棄て、三明の覚路(悟りの境地)に趣き玉ふべき御事を思し召し定めさせ御座候へ」と述べた時の天皇の言葉。
「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、これ如来の金言なれば、平生朕が心に甘なう事なり(妻子も珍宝も王位すらも、臨終に際して身につけることができないとは、これは如来の金言であって、朕が常日頃心によしとしていることである)」
と、高徳は書いた。
(そうでしたのう、吉野院は生あるうちは大内裏を再建なさろうとしたが、あの世に持っていくためではなかったであろうのう)
後醍醐天皇は大内裏を再建しようとしたが、単に大内裏を作るというより、都を新しく作ろうとしたと言っていい。
(吉野院よ、院は実に妻子の多い方でいらしたのう。王位への執着も、徳のあるまつりごとをするためであり、決して我欲ではござりませなんだのう)
そして巻二十五で、護良親王が足利直義の奥方の腹を借りて生まれ変わろうとする。
(大塔宮よ、御身も吉野院の親王として生まれるより、左兵衛督殿の御曹司として生まれた方がよろしかろう。それもこれも吉野院に徳がないからじゃ。それにしても近頃の武士には花が無い。近頃は一騎打ちの話もとんと聞かれない。皆人の目を盗んでいくさ働きをすること強盗のようじゃ。一騎打ちを挑んで我が子くらいの齢の平敦盛を泣く泣く討った熊谷次郎直実のような分別ある者はもうおらんのか。どうすれば世は太平になるのかーー)
その後も、高徳と世の識者の手紙のやり取りは続いた.
南朝はもう、北朝に対し優位に立つことはなかった。
正平13年(1358年、北朝では延文3年。足利尊氏薨去。
尊氏の嫡子の義詮が二代将軍となった。
その義詮も正平23歳(1368年、北朝では貞治6年)に薨去した。
その頃、今川了俊(貞世)が高徳に意見を言ってきた。
「足利家は先祖の八幡太郎義家公が、『七代目の孫に天下を取らせ給え』置文を残して卒去された。しかし七代目の孫の足利家時公は天下を取ることができず、「三代後の孫に天下を取らせ給え」と祈願して自害された」
と言ってきた。
足利家時の三代目の孫は足利義詮である。
その足利義詮も、もういない。
(そういうことか)
高徳は深いため息をついた。
南北朝の争いは、南朝方の大きな勢力は、九州の懐良親王の勢力しかなかった。
高徳の住む備前国でも、高徳のような小地頭は、『太平記』を書いているということでは、形式的に南朝、実質的に中立の立場を保てなくなった。
高徳はすっかり老人になっていた。
既に隠居し、息子には形だけでも南朝方であるのはもはや難しいと、常々零されていた。
その懐良親王の勢力も、大きな危機に直面していた。
しかし目下のところところは、南朝の問題は別にあった。
幕府側の今川了俊が、九州探題として、九州に派遣されようとしていた。
ここで九州の武士達の心を掴まなければ、懐良親王が今川了俊に負けてしまう。それを見越して、了俊は高徳に横車を押してきたのだ。
高徳は書いた。
天照大神が日本国土を創生した際、海底に大日如来の印文があるのを天照大神は見た。
そこで天照大神は鉾で海底を探り、その鉾から滴が滴り落ちた。
それを見た第六天魔王が、「この滴りが国となって、仏法流布し、人倫生死をいづべき相がある」として、この国を滅ぼそうとした。
天照大神は第六天魔王に、「我は三宝の名を言わないし、自らにも近づけないから帰りたまえ」と言って、第六天魔王を追い返した。
第六天魔王は、その証として天照大神に神璽を渡した(八尺瓊勾玉は、当時印であると信じられていた)。
このため伊勢神宮では僧を近づけず、仏教用語は隠語にしているが、内心では三宝を篤く敬っているという。
『太平記』に限らず、中世日本紀によくある話だが、この話のため、一時期天照大神は「虚言ヲ仰ラル神」として、関東では起請文の誓いの対象から外されることがあったという。
そして足利義満が幼くして将軍となり、細川頼之が管領となることで、「天下太平なり」として、『太平記』を締めくくった。
そして息子を呼んで、
「儂はもう『太平記』は書かぬ。お主は北朝に仕え、手を砕いて働くがよい」
と告げた。
(疲れたーー)
高徳は剃髪し、志純義晴大徳位と号した。
『桐院公定日記』の応安7年(1374年、応安は北朝の元号。南朝は文中3年) の5月3日条に、
「伝え聞く 去んぬる二十八九日の間 小島法師円寂すと 云々 是近日天下に翫(もてあそ)ぶ太平記作者なり 凡(およ)そ卑賤の器なりと雖も名匠の聞こえ有り 無念と謂ふべし」
とある。
『太平記』は、文学的には『平家物語』に劣ると言われながらも、戦後間もない頃まで国民に愛された。
『太平記』は主に講釈師によって語られ、寄席の入りが少ない時に、「本日正成登場」と宣伝すると、寄席はたちまち満席になったという。