檀林皇后⑦

承和5年(838年)、紫宸殿において、恒貞親王の元服の儀が執り行われた。

恒貞親王は姿形が美しく、性格はゆったりとして優雅だったという。

親王が天皇に拝謁する様子は礼に適っており、紫宸殿を降りて拝舞する姿も実に優雅だった。

しかし、恒貞親王は若いながらも、自らの立ち位置を良く理解していた。そして父の淳和上皇に似て欲はなかった。

親王は父の淳和上皇ともども、度々皇太子の辞意を申し出たが、その度に嵯峨上皇や仁明天皇から慰留された。

こういうところも、奈良時代とは随分変わってしまっている。

薬子の変、いや嵯峨天皇の譲位までは、天皇は譲位をしても権力を手放そうとはしなかったし、譲位により即位した天皇や皇太子も、自らその地位を手放そうとはしなかった。まるで淳和系の皇族達だけが、別の世界にいるようだった。

そんな中で、承和7年(840年)淳和上皇が崩御する。

「遺骨は山より散骨せよ」

と、上皇は遺言した。

吉野は反対した。天皇の遺骨を散骨するなど例がなかったからである。しかし上皇は意志を変えず、上皇が崩御すると、やむなく吉野は上皇の遺言を実行した。

そのため、淳和天皇には陵墓がない。

まるで、空海の描いた極彩色の風景が、淳和上皇の遺骨の散骨により、たちまち嵯峨野の秋の枯れた景色に変じたようであった。

吉野は恒貞親王に近侍するため1年間出仕せず、再三に渡って辞職を上表するが、その度に仁明天皇に慰留された。


既に、末法思想の萌芽がある。

末法思想は、最澄や『日本霊異記』の著者景戒が既に認識しているが、この平安初期の一般風潮ではない。平安初期の風潮を代表するのは、空海の極彩色の世界だった。この末法思想が世の主流になり、浄土教が興るにはなお100年の後、恵心僧都源信や空也上人の登場を待たねばならない。しかし末法思想は、最澄や景戒の次に淳和系の皇族達が感じ取り、淳和天皇は自らの遺骨の散骨によりそれを表現した。

思うに、既に天皇は実権を持たない存在となって、律令制の崩壊には歯止めがかからなくなっていたのだろう。藤原吉野にしても、律令制を守るために忠であるのでなく、淳和上皇と恒貞親王の身の安全のために忠であるに過ぎなかった。

そして嘉智子は枯れた景色の中で、ひたすら空海の世界のような極彩色を描こうとしていた。


ここで登場するのが、伴健岑と橘逸勢である。

伴健岑は春宮坊帯刀舎人で、いわば皇太子としての恒貞親王に近侍する者だった。

橘逸勢は、健岑の盟友である。

三筆の一人として有名な橘逸勢だが、嵯峨天皇が崩御して、今や後ろ盾が全くない恒貞親王を助けようとしたということは、意外と義侠心に富む人物だったのかもしれない。義侠心についてはわからないが、「性格は放胆で、細かいことにはこだわらなかった」という。また逸勢は、嘉智子の従兄弟だった。

健岑と逸勢は、皇太子の身を東国に移そうと画策した。そして、その件を阿保親王に相談した。

阿保親王は平城天皇の皇子で、在原業平の父として有名である。

既に皇統から外れた平城系の阿保親王なら、淳和系の恒貞親王に同情してくれるのではないかと思ったらしい。

ところが、阿保親王は嘉智子に、健岑と逸勢の画策した密書にて上告した。つまり、「恒貞親王が難を避けて東国に身を移す」という話が、「恒貞親王が東国に行って謀反を起こす」に捻じ曲げられたのである。

嘉智子は、当時中納言であった藤原良房に相談し、良房は仁明天皇に上告した。

承和9年(842年)7月15日、嵯峨上皇が崩御する。

嵯峨天皇は生まれた50人の子女のうち、32人に源姓を与えて臣籍降下させた。嵯峨天皇個人は、最後まで極彩色の世界に住んでいた。

また嵯峨天皇は、冬枯れしそうな景色の中に、なんとか極彩色を描こうとし続けた一生を送った。

17日、仁明天皇は健岑と逸勢、その他一味と見なされる者達を逮捕した。承和の変の始まりである。

健岑と逸勢は左大弁の正躬王と右大臣の和気真綱に笞で打たれたが、両者とも罪を認めなかった。

恒貞親王は仁明天皇に辞表を奉ったが、仁明天皇は親王に責任がないからと言って慰留した。

しかし、両統迭立の意志があったのは嵯峨天皇だけだったのである。嵯峨天皇がいなくなっては、もはや恒貞親王を救うことはできないのであった。

23日には、良房の弟で、左近衛少将だった藤原良相が衛門府の兵を率いて皇太子の座所を包囲した。

この時期には、仁明天皇も恒貞親王を廃して、嵯峨系で皇統を占めようという意志が固まっていたのだろう。

大納言で恒貞親王の舅である藤原愛発、中納言藤原吉野、参議で春宮大夫であった文屋秋津が捕らえられた。

仁明天皇は健岑と逸勢を謀反人と断じ、恒貞親王は事件とは無関係としながら、責任はあるとして廃太子となった。

伴健岑は隠岐、橘逸勢は橘姓を剥奪され、非人姓とした上で伊豆に流罪となった。逸勢は配流の道中、遠江で没。健岑は貞観7年に出雲国に遷配され、没年は不明。

藤原愛発は京外へ追放、藤原吉野は太宰員外帥に、文屋秋津は出雲員外守に左遷された。

処罰された者は、藤原氏、橘氏に特に多かった。橘氏では逸勢以外にも、橘永名、橘真直、橘田舎麻呂、橘末茂、橘清蔭、橘忠宗が処罰を受けた。

廃太子となった恒貞親王の代わりに、道康親王が皇太子となった。

恒貞親王の生母の正子内親王は、孫に対する嘉智子のこの仕打ちについて深く恨んだという。

良房は、この変で大納言に昇進した。


恒貞親王は嘉祥2年(849年)に三品に叙せられるが、まもなく出家して恒寂入道親王と名乗る。

その時は真如入道親王、つまりかつて皇太子を廃された高岳親王から灌頂を受けた。

貞観18年(870年)、正子内親王は父の離宮であった嵯峨院を寺に改めた。これが大覚寺の始まりである。恒寂入道親王が開山となった。

後に陽成天皇が事実上廃位された時に、即位を要請されているが拒絶している。


仁明天皇は、嘉祥3年(850年)3月19日に道康親王に譲位して、道康親王は文徳天皇となる。仁明天皇は太上天皇に就くことなく、2日後の21日に崩御する。

良房は、源潔姫との間に藤原明子が生まれて、良房は明子を文徳天皇に入内させていた。

承和10年(843年)に左大臣藤原緒嗣が、承和14年(847年)に嘉智子の兄で、右大臣の橘氏公が薨去し、承和15年(848年)に良房が右大臣になると、太政官は良房の独裁体制となった。


文徳天皇は紀静子との間に惟喬親王をもうけ、皇太子にしたいと思っていたが、明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生むと、良房の圧力で、惟仁親王を皇太子にせざるをえなかった。惟仁親王は異例の生後8ヶ月で皇太子となった。

しかしその後も良房と文徳天皇は暗闘は続いた。

良房は天皇の譲位を求めるが、天皇は春宮雅院や冷然院に住んで良房との面会を躱し、また病弱でもあったため朝廷の会議や節会にも参加することが少なく、とうとう一度も内裏正殿に居住したことがなかった。

天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王に譲位を図ろうとしたが、左大臣の源信が、惟喬親王の身を危険が及ぶと諫言したため、やむなく天皇の惟喬親王の立太子を断念した。

天安2年(858年)、文徳天皇は突然の病で崩御し、僅か9歳の惟仁親王が清和天皇として即位する。天皇家に幼帝が誕生したのである。そして清和天皇は、即位後も内裏に遷らず、春宮に住み続けた。

文徳と清和二人の天皇が内裏にいなかったことにより、天皇不在でも政治を機能させるために、藤原摂関政治が発展した。


以上、承和の変からは少し未来のことになり、嘉智子はその全てを見ることなく死ぬのだが、嘉智子は恒貞親王を廃太子にした後、未来の皇室について憂いたようである。

ということなく察せられるのは、承和の変の前後から、嘉智子は禅に傾倒し始めるのである。

栄西や道元による本格的な禅宗の布教の300年前である。

禅宗は大乗仏教の一派だが、修行により悟りを目指すという点で、やり方に違いはあれども、本来のブッダの教えである上座部仏教に先祖返りしたような宗派である。

嘉智子は禅のことをどうやって知ったのか。

禅は最澄が唐から経典を持ち込んでいるが、実践の伴わない知識のみのものであり、最澄自身も唐から持ち込んだ経典を理解しきることなく死んだので、最澄自身もよくわからなかっただろう。

しかし嘉智子から禅への傾倒については、もう少し後に語るとしよう。

嘉智子というより、当時の日本の遠景を描く上で、まだ語らねばならないことがある。

承和10年、文屋宮田麻呂が謀反の罪で告発され、伊豆に流された。

この事件を承和の変の余波と見る向きもあり、文屋宮田麻呂が文屋秋津の係累と思えばそのように見えなくもないが、秋津と宮田麻呂の関係が今ひとつわからない。また宮田麻呂は従五位下で、筑前守だったが、承和8年(841年)に官位を解かれ、承和10年には散位(位階のみあって官職がないこと)であった。この程度の者が要人を担ぐことなく謀反を起こすとは考えにくい。

私は、文屋宮田麻呂の謀反は、遣唐使廃止に至る流れの先駆けと見る。なお、菅原道真による遣唐使廃止にはまだ50年の歳月がある。

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