後白河法皇㉖

梶原景季は最初、「いけづき」を欲しがっていた。
景季は頼朝に「いけづき」を所望したが、頼朝は許さなかった。その代わり景季に「するすみ」を与えた。
代わりのものを与えられて面目が立ったと思った景季だが、「いけづき」佐々木高綱に与えてしまった。頼朝にすれば、新参の景季よりも、蛭ヶ小島の流人であった頃からの郎党である高綱に褒美を与えたかったのかもしれない。
「なんだあいつ」
景季は、自分がもらえなかったものが高綱に与えられたのに納得がいかない。
高綱の後をつけて、小高い丘の上で高綱をつかまえた。
「おい、お前うまくやったな」
と、景季は高綱に難癖をつけた。
「儂の方があいつより役に立つ」
と思っている景季は、頼朝に奉公した期間の長さで、自分が低く評価されるのが許せなかった。
しかし我が強い景季に対し、高綱は世慣れていて機転が利いていた。
「なんの、これは鎌倉殿に賜ったのではない、盗んだのよ」
景季は強情だが、執念深くはない。高綱の言葉に、
「ならば儂も盗めば良かったのう」
と笑った。それから2人は仲良くなった。
そして今、宇治川で2人は、馬を並べて水の中を進んでいる。
(いけづきは賜らなかったが、儂の馬も鎌倉殿から賜った名馬じゃ。「いけづき」に乗る四郎(高綱)に負けてなるものか!)
と、一層激しく「するすみ」に鞭を入れた。
主人の気迫が移って、「するすみ」は「いけづき」より少し前に出た。ところが、
「源太(景季)殿、馬の腹帯が緩んでおる。絞め給え」
と景季に声をかけた。
(なに?)
景季は腹帯を見た。緩んでいない。
景季は慎重だった。腹帯が緩むと、鞍がずれて落馬する恐れがある。
景季は腹帯を引っ張った。やはり緩んではいなかった。そこで景季は気づいた。
「おのれ四郎!たばかったな!」
景季は怒鳴ったが、高綱は既に景季に大きな差をつけている。
景季は必死で後を追ったが追いつけず、高綱は岸辺に上がった。
高綱は群がる義仲の軍勢を蹴散らし、後に続いた景季が戦い、さらにその後から、義経軍が次から次へと岸辺に上がってきた。
志田義広、根井行親、楯親忠は必死になって、義経軍を押し戻そうとした。
義経軍の畠山重忠は、郎党500騎を義仲軍が射る矢に当たらないように、義経の前に立って、馬を密集させて川の中を進んでいた。
根井行親は重忠を見て、重忠に向かって矢を射た。
矢は重忠の馬に当たり、馬は倒れて重忠は徒歩になった。
そこに、重忠が烏帽子親になった大串重親が現れた。
重親は馬を川の流れに流されていた。危うく溺れそうになったがなんとか徒歩で立ち、流されまいと重忠にしがみついた。
重忠は、烏帽子子のふがいなさに腹が立った。重親を掴み、
「行ってこい!」と、重親を放り投げた。
重親は飛んで、見事に対岸についた。
重親は、どうすれば面目を保てるのか必死に考えた。そして、
「我こそは徒歩の先陣なり!」
と大音声で叫んだ。これには敵味方共に笑ってしまった。
義仲軍が粘ったのはここまでで、後は多勢に無勢で、義仲軍はとうとう突破された。
根井行親は討死、志田義広と楯親忠は敗走した。
高綱に騙された時は腹を立てた景季だったが、義仲軍が敗走する頃には、騙されたことも忘れてしまっていた。
高綱の「いけづき」は死んだ時に、高綱の屋敷のあった、現在の横浜市港北区鳥山町にある馬頭観音堂に、今も祀られている。
こうして、義経が初陣を飾った宇治川の戦いは終わった。後世「軍事の天才」として名を残す義経は、この時は大軍の力で勝っただけだった。

義仲は、軍事だけなら簡単に死ぬ武将ではない。戦えば強く、不利な状況でも生き残りを模索するのが義仲だった。
義仲はなんとか、源氏の嫡流である頼朝に勝る勢力を築きたかった。そのため上洛するまでは、時に頼朝に対し下手で出、京を制した時、義仲は頼朝に勝てると思った。
しかし宮廷は、義仲が田舎で培った政治力を遥かに越えた世界だった。
義仲は宮廷政治がまるでできず、義仲が占拠した京に、砂糖に蟻が集まるように群がった軍兵を、義仲は統御できなかった。
義仲は京を捨てるべきだった。京を捨てて北陸や木曾に戻れば、そこは義仲の得意なフィールドだった。
しかし京を捨てれば、義仲は頼朝に勝てない。それに義仲が京で植えつけられた劣等感は、一度京を捨てれば、二度と京には戻れない、戻る勇気を持てないだろうと感じていた。
逃げるべきだと、義仲の直感は告げていた。しかし後白河法皇の策略があったにしろ、京を捨てたくないという想いに、義仲は勝てなかった。
宇治川の敗報を聞いた義仲は、
「最期の暇(いとま)申さん」
と、六条の後白河法皇の仮御所に向かった。
仮御所には後白河法皇をはじめ、公卿や殿上人がひしめいていた。
彼らは義経の軍勢が京に入り、義仲から解放してくれるのを期待していたが、義仲がやってきたと聞いて驚き慌てた。
(義仲が世を拐いに来たか)
と後白河法皇は思ったが、義仲にそんな気はない。
義仲は御所の門前まで来たが、そこで義仲はときの声を聞いた。
義経軍のときの声である。
(ここで法皇に拝謁して、何か申し上げることはあるか?)
義仲は考えた。
ない、とわかると、義仲は引き返した。
すぐ近くの六条高倉に、上洛して間もない頃に見初めた女房がいた。
義仲は、その女房の屋敷に入って出てこなくなった。
女房も応対したが、義仲との別れを惜しんだというよりは、恐怖で逃げられなかったのだろう。
そこに越後中大家光という郎党がおり、「なぜお出ましになられぬ。敵は既に六条河原まで来ているというのに、我らを犬死させるおつもりか」
と叫んだが、義仲は出てこない。
「ならば我まず先立ちして、死出の山にてお待ち致す」
と、家光は腹を切った。
さすがに義仲も、もの憂い顔で出てきた。
義仲は義経軍に向かった。目の前に六条河原がある。
義仲は戦ったが、わずかな手勢で敵うはずもない。
たちまち義仲軍は押され、討たれて潰走した。
(逃げよう)
夢の中を彷徨うような義仲の意識を、恐怖が支配した。
義仲は逃げた。上洛した義経の軍は、御所を掌握するのを優先し、逃げる義仲にさほど注意しなかった。
そのため、奇妙なことになった。
義仲は少々北寄りに東へと進み、東海道を通って近江に出た。
この道は、範頼軍の進路である。
義仲は、もっと北に逃げるべきだった。
義仲は、近江国粟津(大津市晴嵐2丁目付近)で範頼軍に遭遇した。
範頼軍の先頭は、一条忠頼だった。
一条といっても五摂家ではない。武田信義の嫡男の、れっきとした甲斐源氏である。
一条忠頼とは、義仲は信濃国の領有を巡って争っていた。
義仲には戦える兵力などない。
忠頼の手勢に散々蹴散らされ、逃げおおせた時には、今井兼平、巴御前、手塚光盛、手塚別当、そして義仲のわずか5騎になっていた。
義仲は、追い詰められた者が時折持つ、身を犠牲にする心情になっていた。
「逃げよ」
義仲は、手塚別当に声をかけたが、別当は躊躇した。別当は躊躇している間に討たれた。
(ああ、討たれていく。1人でも多く助けたいのに)
やがて光盛も討たれた。
「巴、そちはおなごじゃ、落ち延びて生きながらえよ」
義仲の言葉に、巴は少し考えて、
「では、最後のご奉公を」
と巴は来た道を駆け戻り、敵将恩田八郎に組みつき、そのまま八郎の首をねじきった。そして一条勢が何が起こったか把握できない間に、巴は馬で駆けて戦線を離脱した。
義仲に従うのは、もはや今井兼平1人になった。義仲は、自分の乳母子の1人で、義仲四天王の1人である兼平だけは、自分の冥土への伴とするつもりだった。
「ここでよかろう」
義仲は付近の松林を見て、ここを自害する場所と決めた。
ところが、そこに田んぼがあり、それも人が腰まで浸かる深田だった。
義仲の馬は、深田に脚を取られた。
義仲は馬の上で、体勢を立て直そうとしたが、そこに範頼軍がやってきた。
範頼軍の兵の1人が、矢を射た。
矢は義仲の顔面を貫き、義仲は田んぼの中に落ちた。
こうして義仲は死んだ。享年31。
義仲の死を見た兼平は、「今は誰を庇うためにいくさをするか。見よ、東国のとのばらよ、これが日本一の豪の者の自害の仕方よ」
と、刀の先を口に咥え、馬から飛び降りた。
刀の柄が地面に着き、兼平の刀は喉から後頭部までを刺し貫いた。
「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼(平治の乱の首謀者藤原信頼)の前蹤と比するに、猶その遅きを思ふ」
と、義仲の最期を聞いた九条兼実は『玉葉』に記した。
兼実は、信頼や義仲のような非合法な政権の寿命が長くなっているのに、不気味さを感じていたのだろう。
しかし兼実の身勝手なところは、治承3年の政変以降の平氏政権を、非合法だと思わなかったところにある。
この兼実の判断が、やがて頼朝の鎌倉幕府の成立を許し、いや許すどころか、むしろ兼実が幕府の成立に積極的に加担する要因にもなるのである。

さて、後白河法皇である。
義仲が御所の前まで来た時は、義仲は自分を連れ去る気かと肝を冷やした。しかし御所の門を通らず、馴染みの女房のところに行った時は、
(なんだ?あやつ)
と、それだけが少し不愉快だった。
他には、義仲に感傷はない。「貴人に情なし」という。
後白河法皇は、早速義仲派の松殿師家を解任した。
(さて、鎌倉から範頼と義経という者が来たな。どんな者達じゃ?)

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