後白河法皇⑰

かつて、鳥羽法皇は息子の後白河法皇を「即位の器にあらず」と言っていたが、後白河法皇も以仁王に対し同じように思っていた。
後白河法皇が以仁王を評価しなかったのは、その思い込みの強さにある。
今回の挙兵でもわかるように、自分が王の身分にすぎないのに、「最勝親王」と名乗り、諸国の源氏の挙兵するように令旨を発した。
令旨とは、皇太子が発するものである。
親王ですらない王ならば、「令旨」ではなく「御教書」として発行しなければならない。
そのなのに、以仁王は皇太子気取りで令旨を発行した。
以仁王は皇位継承への望みが強く、そのためならあらゆる手を尽くす。だから平滋子による以仁王への親王宣下の妨害がなくても、後白河法皇は扱いにくい以仁王を親王にする気はなかった。
しかし今回、
(以仁王は使える)
と後白河法皇は思い八条院を通じて以仁王を動かした。
後白河法皇は慎重だった。
今回の以仁王の蜂起に後白河法皇が関与していることが発覚すれば、今度こそ清盛は後白河法皇をただでは済まさないだろう。だから延暦寺、興福寺、園城寺の3寺が高倉上皇、後白河法皇の身柄を奪取する計画もあえて平家に流し、清盛の後白河法皇に対する態度を軟化させてから八条院に通じ、自らの関与を少しも匂わせないようにしながら八条院を動かした。
八条院との連絡役にも慎重を期した。
八条院との連絡役を務めたのは、丹後局である。
丹後局は本名を髙階栄子といい、後白河法皇の近臣の平業房の妻である。
業房は治承3年の政変で伊豆国に配流となった。
業房は護送の途中で逃亡したが、清水寺に匿われていたところを捕縛され、拷問を受けた挙げ句殺された。
そのため丹後局は平家を恨んでおり、後白河法皇の計画にも協力的だった。
この後丹後局は、後白河法皇の寵姫となる。
宮廷に隠然たる勢力を持つ八条院とはいえ、今まで政治の表舞台に出たことのない八条院だから、清盛も八条院については不問に付した。
後白河法皇も、以仁王の蜂起で平家の屋台骨が揺らぐとは思っていない。ただ多少は同様すると思っていただけである。

しかしこの後、治承・寿永の乱と言われる動乱へと、日本の歴史は突入していくのである。
本来親王でさえない以仁王の「令旨」を大義名分にして、諸国の源氏が決起し、時流を動かすという現象は、院政により王朝の秩序が弛んだとしか言いようがない。
それでも後白河法皇の院政が行われていた間は、まだ秩序を維持できていたのである。しかし平家の軍事クーデターによりいかにその後の手続きが律令に乗っ取ったものであっても、正規の手続きとは見なされていなかった。
むしろ非正規なものとして受け入れられ、敵対する源氏も平家にならって非正規な手続きを好み、以仁王の令旨に院宣以上の大義名分を感じて決起していく。

清盛は、事態を憂慮した。
今は平家に対抗できるような勢力はないが、そのような勢力が成長した場合、京は守りに不向きである。
治承4年(1180年)6月2日。
そこで、清盛は都を京から福原に移すことを決心した。
今回も、貴族に対する根回しなどはななかった。
それどころか、清盛の独断を高倉上皇の院宣により正当化する手続きも取られていない。
後白河法皇も、福原に強行的に同行させられ、福原の平教盛邸に入った。
福原への遷都は、貴族だけでなく、平家一門や高倉上皇からも反対の声が挙がった。
この時点では、防衛上の理由だけなら、福原遷都はまだ時間をかけてもいい問題だった。
しかし清盛には、福原に遷都させなければならない理由があった。その理由は、重盛に代わって平家の棟梁となった宗盛の采配に対する不信感である。
以仁王と源頼政の追討の大将に知盛と重衡の二人とし、二人のどちらを上位にするかを決めていない、また大将に任命された二人が、以仁王と頼政を放置して南都に向かおうとするなど、清盛から見て実に危なっかしい。
(我が平家の公達は、久しくいくさをしておらぬ)
一門の者の多くがいくさをわかっていないのは、清盛にとっての悩みだった。
しかし、だからといって宗盛を叱責する訳にはいかない。宗盛は既に平家の棟梁であり、この非常時に宗盛への不信感が広がるようなことをすれば一門の動揺が激しくなる。
だから清盛は、福原遷都にかこつけて自分の手に命令系統を一本化しようとしていた。

しかし、それでも事態は予断を許さないものになっていった。
この年の8月、伊豆で源頼朝が、甲斐で武田信義が挙兵する。
頼朝は伊豆の目代山木兼隆を討ったが、石橋山の戦いで大庭景親に敗れて安房国へと逃れ、三浦氏、千葉氏、上総氏が頼朝の下に参じた。
また9月には木曽義仲が挙兵した。
10月6日には、頼朝は鎌倉に入った。
平家も、頼朝の伸長を看過していたのではなく、平維盛を総大将とした軍勢を派遣した。
頼朝も軍勢を率いて西に向かい、駿河国の富士川で平家の軍勢と向かいあった。
ところが、当時西国では飢饉が発生しており、平家方は食糧が不足してまともに戦える状態ではなかった。
鴨長明は『方丈記』で、「二年間、日照りや台風、洪水などの天災が続き、作物はことごとく実らなかった。その翌年も、立ち直るどころか伝染病が流行し、餓死するもの数知れず」と、頼朝ら源氏が挙兵した頃の京の様子を語っている。
こんなエピソードがある。仁和寺の隆暁という僧が、あまりに死人が多いのを悲しんで、死者の額に梵字の阿の字を書いていったところ、4月から5月にかけての2ヶ月間で、左京だけで42300にのぼった。
諸国では、もっと餓死者が出ていただろう。
そんな状態だから、平家が大軍を編成できる訳がなかった。
『平家物語』では、平家方の軍勢は70000だったと書かれているが、そんなにはいないだろう。
『吾妻鏡』では源氏は40000騎いたのに対し、平家はわずか4000騎であり、それも兵士の逃亡により2000騎に減っていたとある。『吾妻鏡』の方が妥当だろう。
一方東国では、西国の不作に対して豊作だった。
400000というのは誇張だが、源氏の方が兵数が多かったのは確かだろう。
『平家物語』などの軍記物では、平家方は水鳥の羽音を敵襲と誤解して逃げたという。
しかしそうではないだろう。兵糧も乏しい中でなんとか軍勢をかき集めて派遣したが、守り難いと判断して撤退したのだろう。

わずか半年ほどで、天下の様子は様変わりしてしまった。
緊急の場合には、政権は人情より合理性を追求することがある。
この場合福原遷都がそうだが、福原遷都には反対意見が多かった。
その一番の理由は、福原は北から山が迫って平地が少なく、条里制による区画ができないことにある。
そこで摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)や播磨国印南野(兵庫県加古川市)に京を造営する話が持ち上がったが、どちらの話も立ち消えになった。
実は、昆陽野や印南野より都に適した地があるのだが、その地は名も挙がらなかった。
言うまでもなく、大坂の地である。
しかし大坂は、嵯峨源氏の渡辺党の土地だった。
後に渡辺党は、豊臣秀吉が大坂城を作った時に追い出すのだが、平家はそこまでせず、福原で自足した。
世界的な法則として、遷都は敵地を奪取してなされる。例えばロシアがスウェーデンの領土を奪ってサンクトペテルブルクを作ったように。平家はここで、大坂の地を奪わなかったつけを払うことになる。
福原遷都は平家政権完成の最後の策で、宋人が京に入り、天子や公家と交流することで、宋銭による貨幣経済の秩序を完成させ、平家の地位を揺るぎないものにするのが目的だった。
そのためには周到な根回しが必要だが、軍事的な必要による遷都だったため、貴族の賛意は得られなかった。
高倉上皇は平安京は放棄せず、「福原には離宮を建て、内裏や八省院は必要ない」と言った。
合理性を追求して成果が得られないと、次は人情に引きずられることになる。
清盛は皇居に似せた私邸を天皇に提供し、11月17日から20日までの間、その私邸で新嘗祭が行われた。
そして新嘗祭が終わってすぐの23日、京都へ還都した。

富士川の戦い以降、頼朝は関東を固めるために東に戻り、この点は安心だった。しかしこの間、近江源氏や伊予の河野氏、美濃源氏、鎮西(九州)などでも反乱の火の手が挙がっていた。
京へ還幸した平家としては、富士川の敗戦のマイナスを取り戻すだけの戦果を挙げる必要があった。
近場では近江源氏の山木義経、柏木義兼の兄弟が園城寺と連携し、また大和で興福寺が反平氏の気勢を挙げていた。
既に近江源氏と園城寺は連携しており、この上興福寺と連携が取られては厄介なことになる。
清盛は高倉上皇に謀反人追討の院宣を出させ、12月1日に平家家人の平田家継が近江源氏に攻撃を開始し、翌2日には平知盛が追討に向かった。
戦闘は6日に行われ、平家方は近江源氏を打ち破った。
平家方は園城寺も攻撃し、園城寺の一部が焼けた。
この機を逃さず、清盛は南都に五男の平重衡を総大将とした大軍を派遣した。
12月28日、平家方は興福寺や東大寺を焼き払い、東大寺大仏殿は全焼した。


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