檀林皇后①

橘嘉智子が当時神野親王と呼ばれた、後の嵯峨天皇に入内したのが大同4年(809年)というが、そうではないだろう。嘉智子も神野親王も延暦5年(786年)の生まれなので、普通の結婚時期の15、6歳、早ければ12、3歳ということもあり得る。つまり15、6歳なら延暦20年か延暦21年(801−802年)、12、3歳なら延暦18年から延暦19年(798−799)年ということになる。神野親王が延暦19年に元服しているので、この時に入内したのかもしれない。


嘉智子の橘氏は、曾祖父の橘諸兄の時に橘姓を賜った賜姓皇族である。

嘉智子は橘清友の娘である。嘉智子の祖父は橘奈良麻呂といい、奈良時代に謀反を起こし、時の孝謙天皇を廃しようとした人物として知られる。

孝謙天皇は女帝であるため配偶者を持たず、当然子もいない。

そこで奈良麻呂は、最初に聖武天皇の皇子の安積親王、次に長屋王の子の黄文王を天皇にしようと画策した。

しかし、孝謙天皇の後は、孝謙の父の聖武上皇が道祖王に決めており、後継者の心配というのはなかった。奈良麻呂が後継者を危惧したというのは当たらない。恐らく聖武天皇から孝謙天皇に至る政策への不満があったのだろう。

聖武天皇、孝謙天皇の政治とは、律令国家の樹立という道筋である。

孝謙天皇は、初め藤原仲麻呂を重用した。恵美押勝(見るたびに微笑ましいという意味)という名を与えられ、紫微中台という、光明皇太后の家政機関の長官になった。

やがて孝謙天皇によって道祖王が廃太子となり、大炊王が皇太子となった。

仲麻呂は死んだ息子の真従の妻の粟田諸姉を目合わせて、皇太子を自家薬籠中のものとした。

皇太子はやがて天皇になった。

淳仁天皇という名は、明治になって贈られた諡号である。孝謙上皇によって皇位を廃され、淡路に流されて、長らく淡路廃帝とのみ呼ばれていた。

奈良麻呂は、孝謙と仲麻呂の政治の政治の流れを変えようとしたようである。

奈良麻呂の標的は仲麻呂だった。しかし事が露見した。奈良麻呂は多くの同志と共に拷問にかけられ、獄死したようである。

「ようである」というのは、『続日本紀』に奈良麻呂の消息が記されていないからで、嘉智子が皇后になった時に記録から消されたようである。

奈良時代というのは、平城京に都があった和銅3年(710年)から延暦13年(794年)までの84年という短い期間を指す。

しかしこの間、事件が多い。

天然痘の大流行により国民の3分の1が死んだりした。

そんな大変な中で、時の聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺を建てたり、平城京から恭仁京、紫香楽京、難波宮に遷都したり、果ては世界最大の金銅仏を作ったりした。民にとって大変な負担だっただろう。

また乱も多かった。奈良麻呂の乱の外に、藤原広嗣の乱があり、また後に藤原仲麻呂も乱を起こした。長岡京時代には、氷上川継の乱もある。乱の頻発は、律令政治の無理が祟っていたかのようであった。


要するに、嘉智子は橘氏という身分の高い貴族の出身であっても、皇后になれるとは限らない環境にあった。

嘉智子が皇后になれたのは、皇統が天武系から天智系に移ったことが大きい。

天武系から天智系への皇統の移行は、天武系の律令政治の行き過ぎを緩めようという動きが後押ししたようである。

父の橘清友は、祖父の奈良麻呂が死んだ直後に生まれた。

身長が6尺2寸(186cm)ある雄大な偉丈夫で、眉目秀麗で立ち居振る舞いは立派であったようである。

官位が従五位下で留まったのは、清友が32歳の若さで死んだからである。嘉智子が4歳の時であった。

嘉智子は孤児になった。

父親の記憶は、恐らくなかっただろう。嘉智子は人から聞いて、自分の中の父親像を作り上げたに違いない。

恐らく嘉智子は、不安な思春期を送っただろう。自分が謀反人の孫で、物心ついた時には父親がいなかったのだから。

しかし真相としては、天智系の白壁王が光仁天皇として即位して、律令制度の行き過ぎに反発した貴族達は実質大赦されたようなものだった。

夫となった神野親王を、嘉智子はどう見ていただろうか?

年若くして結婚した嘉智子としては、神野親王だけが頼るべき存在であり、また一夫多妻は仕方ないとしても、少女なりにロマンスを夢見たかもしれない。

また神野親王の妃の中で、自分の地位が高いことを確認して、始めて安堵を覚えたかもしれない。自分が謀反人の孫としては扱われていないと。

もっとも、嘉智子はすんなり皇后になれたのではなかった。

嘉智子の上位にある妃が、神野にはいた。

高津内親王という、桓武天皇の第12皇女である。


物心ついた時には、嘉智子は長岡京にいただろう。

「青丹よし 奈良の都は咲く花の 匂ふが如く

今盛りなり」

の「青丹」とは、青ではなく黄土色のことである。つまり壁や屋根瓦が黄土色ということで、中国の古い建築物を想像すればよい。

つまり、当時都を作るということは、古代日本に突然、中国的風景を現出させたことを意味する。

平城京もまだ建設して70年ほどしか経っておらず、新都の長岡京も、平城京とさほど変わり映えのしない風景だっただろう。

当然、嘉智子の思春期の終わりに築かれる平安京も、「青丹よし」の中国的風景であり、後の古都としての古寂びた趣きなどはない。黄土色の景色が、嘉智子の生涯の風景だった。


言うまでもなく、平安京を造ったのは桓武天皇である。

後に嘉智子は絶世の美人として、光明皇后に擬せられるが、桓武天皇は聖武天皇と比較するとわかりやすいかもしれない。

聖武天皇は常に誰かの傀儡だったかのように思われがちだが、全国に国分寺、そして大仏を建立した聖武天皇が傀儡のはずがない。

聖武天皇は古代にしばしば現れる専制君主だった。しかし専制君主であることは、その性格が剛毅であることを意味しない。聖武は青年が迷うように迷い、奈良の都を出て「彷徨五年」と言われるように、若者が自分探しをするように都をあちこちに移した。青年の迷いがそのまま国家事業になったのである。

桓武天皇は、聖武天皇ほどの迷いはない。

桓武は、自分が新王朝の創始者という意識を強く持っていた。桓武は交野(大坂府枚方市)で、郊祀という、天地と皇祖を祀る儀式を2度行った。皇祖とは天智天皇のことである。

王朝交代もまた、血をもって行われた。

桓武の父光仁天皇は、聖武天皇の皇女井上内親王を妃にしていたことで天皇に即位できた。

しかし井上内親王は、光仁を呪詛したという罪で皇后を廃され、皇子の他戸親王と共に庶人に貶され、幽閉の地で他戸親王と同日に死んだ。そして山部親王と呼ばれた桓武は皇太子となった。

桓武は親王時代から、官僚として自分を培ってきたので、理務に明るく、遷都という国家事業を行うに相応しい能力を持っていた。

もっとも、桓武もまた、聖武ほどではないにしても迷った。そして桓武は、聖武以上にひ弱な面を持っていた。

というより、桓武において、日本人がそれまで見せたことがない面が表に表れ、それが約300年続く、平安時代の人間の基本的な性格となったのである。


長岡京建設は、うまくいかなかった。

長岡京に遷都した翌年の延暦4年(785年)9月に、造長岡宮使の藤原種継が暗殺された。

犯人を追求するうちに、皇太弟の早良親王が事件に関与していたということになり、早良親王は廃太子となり、淡路国に流された。早良親王は食を絶って憤死した。桓武が皇子の安殿親王に皇位を譲るために画策したのだろう。

すると旱魃や疫病が流行し、桓武の生母の高野新笠や桓武の妃の藤原旅子、藤原乙牟漏、坂上又子が相次いで病死した。さらに伊勢神宮の正殿が放火され、元々病弱で、新たに皇太子となった安殿親王が発病した。

桓武がその原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊による祟りと出た。

桓武は早良親王の霊を鎮める儀式を行ったが、祟りは収まらず、長岡京を流れる宇治川が2度の大雨により氾濫した。

桓武は延暦13年(794年)、都の長岡京からの移転を決定した。

そして延暦19年(800年)、早良親王は崇道天皇の諡を追贈された。早良親王の無実を実質認めたのである。

日本の怨霊信仰の歴史は古く、梅原猛氏が指摘したように、聖徳太子は怨霊であり、また神話の大国主神も怨霊である。

しかし政治の敗者を怨霊と認めることはなかった。それは時の政権に非があったことを認めることになるからである。朝廷がこの時怨霊の実在を認めたのは、日本で初めてのことである。

平安時代も、奈良時代同様、政争は盛んであった。

しかし平安時代になって、政争の体質が明らかに変化する。

奈良時代の政争が切るか切られるかに等しい、血で血を洗うものだったのに対し、平安時代のそれは、桓武の次々代の薬子の変を最後に、以後保元の乱までの346年間、死刑が行われない時代が続くのである。

この精神体質の変化は、律令制度が解体されていく中でより強化されていった。

つまり政争で人を殺すことが、律令制度を守るという正義に繋がっていたのに対し、平安時代の人々が律令制度に背を向けると、正義そのものが雲散霧消してしまい、人々は良心の呵責に耐えられなくなり、政争で追い落としても、菅原道真のように、最後には天神として祀ったり、左大臣だった源高明を追放した後都に戻したりした。左大臣が謀反の陰謀をしたなら普通は主犯のはずだが、源高明が追放された安和の変は高明が主犯でなく、高明より下位の者が主犯となり、また事件の概要が曖昧なまま処分が行われている。

そういう時代の最初の空気を受けて、嘉智子は生きた。そして嘉智子は、その政争の中心となっていく。

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