後白河法皇⑳

当時、北陸では白山比咩神社を中心とする反平家の闘争が起こっていた。
北陸には、白山神社が多い。
白山比咩神社を中心とする、白山神社の僧兵と、在地の北陸を武士が手を組んで、平家に反逆して自立しているというのが北陸の実態で、木曽義仲は横田河原の戦いで城氏に勝ったと言っても、この僧兵と在地武士達の上に緩やかに乗っているのであって、強い統制力は持っていなかった。

平家軍は、4月26日に越前国に入り、27日に火打城を取り囲んだ。
しかし火打城は、川をせき止めて作った人口の湖に囲まれており、平家軍は城を攻めることができなかった。
平家側は数日間攻めあぐねていたが、平泉寺白山神社の斎明が平家方に内通し、「柵を切り落とせば水は落ちる」と知らせた。
平家方は言われたように柵を落とし、決壊して陸地になった湖を進んで城を攻め落とした。

5月9日、越中国砺波郡般若野で般若野の戦いがあったと、『源平盛衰記』にはある。
しかし『平家物語』などの他の軍記物には、般『源平盛衰記』によれば、若野の戦いについて言及されていない。
平維盛は、越中と越後の境にある寒原の険で、義仲が越中に出てくるのを防ごうという戦略を立てていたとのことである。
寒原の険というのは、現在の親不知である。
最近の若い人は知らないかもしれないが、親不知というのは東尋坊のような所である。
東尋坊も知らない人が多いかもしれないが、古い映画では荒波の打ち寄せる東尋坊の風景がよく写されていたものである。
要するに、急な崖が迫った交通の難所である。
維盛は、越後前司(前の国司)平盛俊に兵5000を与え、越中に進撃させた。
この時、義仲は越後の国府にいた。
義仲は今井兼平に兵6000を与えて越中に進ませた。
兼平は御服山(現在の呉羽山)に布陣した。
盛俊は兼平の軍が御服山に布陣したのを知り、般若野に留まった。
兼平は敵が般若野から動かないのを知り、平家軍の夜襲を敢行、盛俊は善戦したが、午後2時に戦況不利により撤退したという。
維盛が寒原の険を抑えようとしたということは、義仲は越後にいたということになる。
しかし義仲が、大軍で北陸中を蹂躙しながら進んでくる平家軍に焦土戦術を仕掛けたとすれば、戦略的に相当面白いが、それなら義仲は越後から動かないはずである。また焦土戦術が狙いでなければ、信濃に拠点を持つ義仲が、平家が進軍する時期に越後にいたとは考えにくい。
やはり義仲は、平家が越後まで進撃して城資職と連携するのを防ぐために早期に越中に出ていたと考えるべきだろう。つまり般若野の戦いはなかったし、なかったから『平家物語』などには書かれなかったと見るべきである。

義仲は越中国に入ると六動寺(現在の射水市庄西町)に着陣し、射水川を挟んで越中国府に着到報告をした。越中国府の在庁官人は後白河人脈に属し、反平家的な立場から義仲に協力的だったが、だからこそ義仲は国府まで進軍できず、射水川の向こうに着陣して敵意のないことを示した。しかしそれだけに、義仲は国府に強圧的に大規模動員を要求できなかった。そのため義仲軍に参加した越中勢は、わずかに500騎しかなかった。
義仲の軍勢は、信濃勢だけで10000騎。
一方平家軍は、能登国の志雄山(現宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の30000余騎、加賀、越中国境の砺波山に維盛、平行盛、平忠度の70000騎が陣を敷き、越中に進攻する体制を整えた。
義仲は「池原の般若野(現砺波市栴檀野地区池原)」で軍議を開いた。
平家軍が砺波平野に進出すると、数で劣る源氏が不利である。
そこで、倶利伽羅峠の隘路で奇襲を仕掛けようということになった。
5月11日、義仲は志雄山に行家、楯親忠の兵を向けて牽制し、義仲は砺波山に向かった。
この一帯には、倶利伽羅峠の戦いに望む義仲の様々なエピソードがある地が多い。
義仲が弓で地を穿つと清水が湧き出て、将士の喉を潤したという弓の清水古戦場。
義仲軍が昼飯を取ったとされる午飯岡碑。
義仲が戦勝祈願をしたという川田八幡宮。
砺波山に着いて、義仲は埴生八幡宮に願文を奉納した。

義仲は配下の樋口兼光を平家軍の背後に回り込ませ、義仲自身は敵を油断させるため、昼は合戦もせずに過ごした。
夜になり、平家方が寝静まった頃を見計らって、義仲軍は大きな物音を立てて夜襲を仕掛けた。
驚いて浮き足立った平家勢は退却しようとするが退路は樋口兼光が塞いでいる。
平家勢は唯一敵がいない方向へと向けて走った。
そこは倶利伽羅峠の断崖だった。
平家勢は次々と断崖から落ち、70000もの軍勢が一夜にして壊滅した。
維盛らはなんとか落ち延びて加賀国に撤退し、篠原に布陣した。
平家軍はまだ40000騎いた。
倶利伽羅峠の戦いから、篠原の戦いまで20日ほどある。
義仲は、平家軍の様子を見ていたのだろう。
義仲は慎重さと剛胆さを兼ね備えている。
倶利伽羅峠の戦いで義仲が勝っても、義仲の軍は増えていない。
義仲は、わずか5000騎で進軍した。5000騎でも勝てると踏んだのだろう。そのまま合戦に及んだ。
平家勢は既に、義仲に呑まれている。
平家方には平家第一の勇士、平盛俊、藤原景家、藤原忠清の子の藤原忠経がいたが、この三人が維盛と内輪揉めをしていた間に敗戦に及んだという。
合戦が終わって、平家勢で甲冑をつけていた者はわずかに4、5騎だったという。
その他の過半は死傷。
残った者は物具を捨てて山林へと逃げたが、ことごとく討ち取られた。
平盛俊、藤原景家、忠経は供も連れずに逃げ去った。
平家方には、斎藤実盛がいた。
斎藤実盛は元は義仲の父の義賢に仕えていた。
義賢が源義朝の長子の悪源太義平に討たれると義朝に仕えたが、義賢の遺児の義仲を密かに信濃の中原兼遠に送り届けて幼い義仲を救った。
平治の乱で義朝が討たれると、今度は平氏に仕えた。
そして源氏が次々と挙兵しても平家方に留まり、此度の北陸追討軍に参加した。
実盛は老齢ながら、討死の覚悟で殿(しんがり)を引き受けた。
実盛は一歩も引かずに奮戦し、ついに義仲の部将の手塚光盛に討ち取られた。
実盛は「最期こそ若々しく戦いたい」と望み、白髪を黒く染めていた。
首実検で実盛の首が並べられたが、黒髪の実盛の首は、誰のものかわからなかった。
しかし樋口兼光が、実盛が白髪を黒く染めていたことを知っていた。
兼光からそのことを聞いて、義仲は実盛の髪を付近の池で洗わせてみた。
すると実盛の髪はみるみる白髪に変わり、それを見た義仲は人目も憚らずに涙を流した。
「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」
と、『平家物語』巻第七「実盛最期」にある。

義仲は、この後源義経が歴史の舞台に登場しなければ、治承・寿永の乱最強の武将として歴史にその名を留めただろう。

6月6日に、平家軍はほうほうの体で帰京した。
義仲の進軍は速い。
義仲は10日に越前、13日に近江に入った。
その頃ちょうど、鎮西を鎮圧した平貞能が帰京した。
貞能の帰京は、ちょっとした喜劇になった。
敗戦続きで落胆する平家一門にとって、心強い援軍が到着したと思ったら、貞能はわずか1000騎しか軍勢を連れていなかった。
平家の者達が大いに落胆したのは言うまでもない。
しかしここで、義仲の慎重な面が顔を出した。
義仲は、比叡山と交渉を始めたのである。
延暦寺は、治承3年の政変で後白河法皇が天台座主の職を解いた明雲を平家が天台座主に復帰させた時から平家寄りで、以仁王の挙兵時には一応平家と対立していたが、以仁王への肩入れにも園城寺や興福寺と比べて温度差があった。
延暦寺を放置して義仲が入京すれば、平氏が反転攻勢に出たところで延暦寺によって挟み撃ちにされかねない。
義仲は祐筆の覚明に、
「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆(延暦寺の僧兵)と合戦することになる。もし合戦になれば瞬く間に延暦寺は滅亡するだろう」
と、ずいぶんと高圧的な通告文書を書かせて送った。
延暦寺は、義仲の要求を容れて源氏に味方することにし、義仲に東塔惣持院を開け渡した。
義仲は、惣持院を城塞化した。

義仲が延暦寺の東塔惣持院に入ったという情報は7月22日に京に入った。
(義仲が比叡山まで来たか)
と、後白河法皇は思った。
既に、
「遷都有るべき気出来」
という噂が京に流れている。
安徳天皇と後白河法皇を連れて、平家が都落ちをするということである。
「帝が御幸なさることできるか」
と、後白河法皇は近臣の高階泰経に小声で尋ねた。安徳天皇が平家の都落ちから逃げ出して、後白河法皇の元に来るかということである。
「ーーとてもとても」
と、暑いのか、泰経は額から出る汗を吹きながら言った。清涼殿内は後白河派の公卿で固めても、その周囲は厳重に平家の郎党が厳重に固めている。幼児の安徳天皇を連れ出すなど、とてもできることではない。
「ええい!頼りにならぬわ!」
と、後白河法皇は小声で叱ったが、後白河法皇にもどうにもならない。
(ーーまずは確かめねば)
平家が都落ちする気なのかどうかをである。
「若し火急に及ばば何様に存じ御しまさしむべきか、期に望んで定めて周章せしめんか。其の仔細を申さるべし」
と、御書をしたためて宗盛に送った。大意は、「何をそんなに慌てさせるのか、その仔細を申せ」ということである。
(帝をお見捨てにはできぬ。わずかにでも都落ちせずに済むならばーー)
都落ちをしない方向を模索するのが、後白河法皇が安徳天皇にできる唯一のことだった。しかし、
「ーー左右なく参入、御所に候ふべし」
これが、宗盛の返書だった。供を連れずに御所に参入してください」という、後白河法皇を連れ去る意図である。
(ーーもはやこれまで、逃げねば)
後白河法皇は思った。

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