伊達政宗⑭

天正18年(1590年)9月、愛姫は京に向かうことになった。
秀吉傘下の大名は、皆その家族を秀吉の膝元に住まわせることになる。いわば人質であった。
「京は華やかなところじゃ、京に行けばそなたの女ぶりも一段と上がろうぞ」
と政宗は愛姫を慰めた。
「関白殿下により天下が統一されて、もういくさはないものと安心しております。されど一寸先は闇と申します。殿におかれましては、もしいくさが起こっても、今まで同様に自ら手を砕かれることのござりませぬよう」
と、愛姫は別れの挨拶で政宗に言った。
(ははあ、めごはもういくさが嫌なのじゃな)
政宗は思った。
当然だろう。今回の小田原征伐で、愛姫の実家の田村家が改易されたのだから。
愛姫は政宗が家督を相続してから、政宗の生母義姫のために奥で孤立気味で、そのことでしばしば政宗に不満を言って、夫婦仲が良かったとは言えなかった。
しかしそれも、愛姫は田村の勢力を背景にしてのことで、去年の田村騒動で愛姫の実母が三春城を追放されてからは愛姫は実家を頼むことができなくなり、また政宗との夫婦仲も田村騒動に影響していたのだと反省するところもあって、今は政宗を盛り立てようと健気に尽くすようになっていた。
その上この度、田村家が改易され、益々実家に頼ることができなくなった愛姫は、政宗だけを頼りにするようになっていた。
(それで今回めごは上方に行く。哀れであるが、今はその方が良いやも知れぬ)
義姫は小次郎が死んでからは、奥での影響力はかつてほどではなくなった。しかし小次郎が殺されて沈黙している義姫は不気味である。愛姫は義姫から離した方が良かった。
「早ければ、儂も来年の春には京に行く」
政宗はそう言って愛姫を送り出した。
(めごは自分からいくさをするなと言うがな)
政宗は、表向きは家臣達が新たに入部した蒲生や木村の噂をすることを禁じてある。
しかし裏では、新たに木村領となった旧大崎、葛西領に密かに一揆の扇動を行っていた。
秀吉が上方に戻った後も、浅野長政が奥州に残って奥州仕置の通りの処置が行われるように監視していたが、10月になり長政が仕置を終えて上方に戻った。
すると岩手沢城で氏家吉継の元家臣達が領民と共に蜂起し、城を占拠した。
この岩手沢城の占拠を皮切りに、一揆は領内全体に広がった。大崎葛西一揆の始まりである。
領主木村吉清の嫡子清久は父のいる寺池城に赴いて対策を協議したが、清久は居城の名生城に戻る途中佐沼城に立ち寄ると、そこで一揆勢に取り囲まれてしまった。
吉清は清久の救援に赴き、佐沼城に入って清久と合流したのは良かったが、その間に寺池城と名生城は一揆勢に奪われてしまった。
木村父子は、一揆勢に囲まれて佐沼城を出られなくなり籠城を余儀なくされた。
政宗の狙いは、これまでトントン拍子に天下統一を進めてきた秀吉に、
「奥州の統治は難しい」
と思わせることにあった。
今回新たに入部した木村吉清と蒲生氏郷、そのうちの木村はこの機会に徹底的に叩き、そしてできれば氏郷も翻弄して、
「あの二人に奥州は任せられぬ」
と秀吉に思われるまで追い詰め、ついには改易となり、同じことが何度か続けば、
「奥州は生え抜きの大名に任せるしかない」
と秀吉は思うようになる。
だからといって秀吉が政宗に召し上げた所領を返してくれるというほどにはうまくいかないだろうが、思惑通りにいけば政宗はこの奥州で息がしやすくなる。
(しかしかつては奥州の古い体制を相手に戦っておった儂が、今はその古い体制と手を組むことになるとはな)
と政宗は、自分がおかしかった。
上方に向かっていた浅野長政は、一揆の報を白河城で受けた。
長政は二本松城まで戻り、氏郷と政宗に一揆の鎮圧を命じた。
(来たか。儂も戦うふりはせねばなるまいな)
蒲生軍は大崎、葛西の地まで、伊達領を通っていくことになる。
政宗は氏郷から、領内通過の際は兵糧等の充分な支給をしてくれるように要請されていたが、政宗は表向き快諾しながらも、裏では蒲生軍に充分に兵糧等が行き渡らないように糸を引いていた。
(これで、暖国育ちの飛騨守(氏郷)も少しはまいるであろう)
と政宗が思った。そろそろ奥州では雪が降る頃だった。
しかし氏郷は具足下も着けずに、素肌に黒糸縅の鎧を着て勇ましく出陣したとのこと。
政宗は感心した。
(飛騨守が猛将とは聞いておったが、これは儂も出陣せねばならぬな)
政宗は陣振れをした。
蒲生軍は3000しか兵がいないが、政宗は10000の動員を行った。
伊達領の領民は伊達勢には宿を貸し、薪も渡すが、蒲生軍には宿も薪も貸さない。
政宗も途中病気だと言ってわざと行軍を遅らせようとしたりするが、氏郷はそれに乗らず、「それは難儀なことでござる。後から参られよ」
と、怒るでもなく丁重に返答をしてくる。
やがて政宗も仮病で寝ている訳にもいかなくなり、蒲生軍に合流するべく軍を発した。
10月26日、政宗と氏郷は、黒川郡下草城で会談した。
(ーーなかなかこちらの思うようにならぬのう)
と政宗が思っていると、小十郎がやってきた。
小十郎の顔つきが険しい。
政宗は心中狼狽したが、顔に出さずにいた。
政宗が一揆勢を扇動していることは、家臣達に計っていることではなく、政宗の独断なのである。
「ーー殿は小田原への参陣までの間、室町幕府の体制を相手にしてござった」小十郎は言った。
(ふむ?)
政宗はなぜ小十郎が過去の戦国の世を語るのかと思ったが、
「ーーそうじゃな」
と、敢えて穏やかな表情で言った。小十郎が政宗に説教をしにきたのは明らかであった。
「室町の頃は関東公方あり関東管領があり、奥州には奥州探題があり、京の公方は関東や奥州には直接に介入することはござらなんだ」
「公方は京におられたからな、関白殿下も京におられる」
政宗は言った。秀吉は直接には奥州に出向いて処断することはないという意味である。
「関白殿下は今年、19ヶ国を検地なされ申した」
小十郎の言葉に、政宗は絶句した。
後に太閤検地と言われるものである。大宝律令以来定められた1反360坪(歩)を1反300坪に改め、更に1反で1石の収穫とされていたのを下田で1石1斗、中田で1石3斗、上田で1石5斗とし、平均しても1. 5倍の増税になる。しかも枡を京枡で統一し、6尺3分を1間、1間4方を1歩、30歩を1畝、10畝を1反、10反を1町と度量衡を全国的に統一した上である。この太閤検地により、貫高制は廃止されて石高制となった。
秀吉が行った、中世から近世にかけての日本史の最大の改革のひとつである。楽市楽座と関所の廃止という、秀吉の他のふたつの改革による物価の大幅な下落が、このような大改革を可能にしていた。
要するに、このような大改革を行う秀吉が奥州の一揆を政宗が裏で扇動しているのに、詳しく調べもせずに処断を蒲生氏郷に一任して、政宗の勢力を温存してしまうということはあり得ないと、小十郎は言っているのである。
政宗は、背中にびっしょりと汗をかいた。
(大丈夫じゃ、証拠を捕まれぬ限りはな)
政宗は再び虫気だと言って、行軍はできない旨を氏郷に伝えたが、氏郷は、
「それはお気の毒でござる。左京大夫殿は養生なさって後から参られよ」
と返事を寄越してきた。
(猛将とは聞いていたが、これほどか)
政宗は呆れた。
蒲生氏郷について、こんな話がある。
秀吉が武将達を相手に夜話をして、
「飛騨殿が10000、故総見院様(信長)が5000の軍勢でいくさをしたとしよう。どちらに味方する?」
と尋ねた。武将達が答えかねていると、
「儂は総見院様に味方をする。飛騨殿は猛将じゃが、兜首が5つ取られればその中のひとつには飛騨殿の首がある。しかし総見院様は4900人まで討たれても、残り100人の中に必ずいる。そして勝つ」
と言ったという。
人物評価が好きな秀吉が言った実話なのか、江戸時代になって尾ひれがついた話なのかはわからないが、要するに秀吉は、氏郷を猛将としては評価しているのである。
(しかしだからといって、領国を離れて友軍が動かぬというのにそれでも進めるものか)
鎌倉、室町にかけて、友軍が何らかの思惑で戦わねばこちらも戦わないというのは慣例であった。
しかし秀吉は、天下統一の過程でもまた天下統一後も優れた武将を求めたが、取り立てた武将は必ず困難な状況に置いて育て、自分に忠実で有能な家臣に教育してきた。
氏郷は片意地な武将で、秀吉を陰では猿と呼び敬せず、また後に天下を取る家康も、
「あのような凛食で天下と取れる訳がない」
と言ってやはり敬意を持たなかったが、そのような氏郷も秀吉の薫陶を受けて官僚的な武将に成長していた。
政宗はまだ、そのような背景に疎い。
(ならば見ろ!)
と、氏郷を先に行かせることにした。
政宗の策は、氏郷が少数の手勢で苦戦している間に、一揆勢が蒲生軍を取り囲んでしまうだろうということにあった。政宗はそれを黙って見ていれば良い。
そう思ったが、しかし氏郷は名生城を遮二無二寄せて攻めて、とうとう城を落としてしまったのである。その際氏郷は、城内の者を一人残らず撫で斬りにして、680余の首を討ち取ったという。
(しまった!拠点を築かれた!)
拠点を築けば、孤軍でも易々とはやられない。しかも兵糧も薪も宿も手に入る。

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