伊達政宗④

政宗が見ている前で、輝宗が連れ去られていく。

(まずい…)

時は天正13年10月8日だが、西暦では1585年11月29日、既に初冬である。

政宗は寒風吹き荒ぶ冬の風を受けながら、冷や汗が止まらない。

このまま輝宗が拉致されてしまえば、南奥州の土豪をまとめる手段は、政宗の棍棒外交しかなくなってしまう。

輝宗を生きて奪還できればそれに越したことはないが、輝宗を囲む畠山勢はその隙を見せない。

鷹狩りに従っていた政宗の近習と、留守政景、伊達成実の手勢が遠巻きに畠山勢を追う。しかし手は出せない。

そのまま手をこまねいていると、阿武隈河畔の高田原に差し掛かった。川を渡れば畠山領である。

「殿!」

伊達成実を叫んだ。「このまま二本松城に逃してはなりませぬ!」

輝宗を見殺しにして、畠山勢を討てということである。

(ーーやむを得ん!)

「撃て!」

と、政宗は士卒を号令した。兵士がなおためらっていると、

「何をしておる!撃たんか!」

と、政宗は再三に渡って叫んだ。

兵士は動転しながらも、狙いを定めて鉄砲を放った。

「撃て!撃て!」

鉄砲は次々と放たれ、畠山勢は一人々々撃たれていった。

残った畠山の手勢が輝宗を刺した。すぐに輝宗を刺した者も撃たれ、やがて動く者はいなくなった。

政宗は、断崖絶壁に一人立ちすくむような寂しさに襲われた。

「殿、申し訳ござらぬ」

という、政景と成実の謝罪の言葉も、政宗はろくに聞いていなかった。

「ーー処置はこれで良い」

と、政宗はようやく口にしただけだった。まだ若干19歳の政宗にとっては、父を殺す決断は重かった。

輝宗の遺体は寿徳寺(現福島市慈徳寺)で荼毘に付され、虎哉和尚が住職を務める資福寺に埋葬された。

初七日を終え、政宗は二本松城を包囲したが、城は落ちない。

雪も降った。大雪となり、伊達勢は自然、攻撃の手を緩めざるをえなかった。

(このままでは佐竹が動く)

焦燥に駆られた政宗は、近隣の勢力に対し次々と手を打っていくが、その行動ひとつひとつが、身を切られるように苦しかった。

「最上は動かぬな」

と、政宗は家臣に念を押した。政宗の生母義姫の兄、最上義光のことである。

「大方様(義姫)もいらっしゃれば」

と、小十郎は答えた。

義光は昨年、寒河江氏と天童氏を滅ぼし、今年は庄内申し上げ大宝寺氏を攻めて、隙をつかれて横手の小野寺氏に攻め込まれたりしている。伊達家を相手にいくさをする余裕はないと見えた。

「大崎と葛西は」

「大崎と葛西は長年互いに争っておりますれば」

小十郎が答えた。

北には当面の心配はない。問題はやはり南だった。

「佐竹は動くか」

「まず間違いなく」

と小十郎。

佐竹氏の当主佐竹義重は、この時39歳。

「鬼義重」と呼ばれ、常陸の大半を制圧して佐竹氏を戦国大名として飛躍させた名将である。

「なに、佐竹が来たら迎え討つまでじゃ!伊達の底力を見せてくれようぞ!」

と、伊達成実が言った。

「うむ」政宗が寂しそうに笑った。

「殿、いかがなされましたか?」小十郎が政宗に聞いた。

「ーー母上が色々うるさくてな」

義姫は、輝宗を失ったことによる動揺と、小次郎の蘆名への養子入りが暗礁に乗り上げたことで、政宗を批判していた。特に輝宗の殺害については、政宗が輝宗の干渉を煙たがって、これ幸いと見殺しにしたと語っているという。

「大方様はあのような御仁でござりますれば」

小十郎が言った。

「そればかりでのうて、めごがな」

政宗が言った。

「奥方様が」

「めごまで母上に責められて、肩身が狭いと零しておる」

聞いて、小十郎は悲しくなった。今回のいくさは、愛姫の実家の田村を助けるためではないか。しかも蘆名への小次郎の養子入りを犠牲にしてまで。

「殿と奥方様はまだ若うござる!共に苦労を知って真の夫婦になるのでござる」

と言って大笑いしたのは、鬼庭左月、喜多の実父である。もう家督を嫡子の綱元に譲って隠居していたが、今回のいくさにも従軍していた。左月の隣には、綱元もいる。

「喜多は元気か?」

と、政宗は言おうとしてやめた。左月は側室に綱元が生まれると、側室を正室にし、男子を生まなかった喜多の母を離縁したのだった。

「そうであってほしいものよ」

とだけ、政宗は言った。

「こたびのいくさ、この左月身命に代えても殿のために尽くす所存にござりまする」

と言って、左月は頭を下げた。

ふと、政宗は思った。成実は上杉氏に養子に行く予定だった伊達実元の子である。

左月は、若い頃天文の乱では晴宗に味方して稙宗と戦っていた。

皆、天文の乱で失ったものについて、何事かを感じている。

今回のいくさは、天文の乱に似ていなくもない。小次郎の蘆名への養子入りは、南奥州の土豪の不統一により失敗に終わる可能性が高く、佐竹という強大な勢力を敵にして、伊達の南奥州支配は頓挫しそうである。

(皆、天文の乱の帳尻合わせをしたがっている)

「左月、そなたの働きを期待しておるぞ」

政宗は言った。


「佐竹動く」

の報が来た。

(今のうちに、できるだけのことをしなければ)

政宗は上杉に援軍を要請したが、上杉は新発田重家の乱のため、身動きが取れなかった。

敵は佐竹義重、義宣親子を中心とし、蘆名亀王丸、二階堂阿南、石川昭光、岩城常隆、白川義親の30000の兵。

伊達勢は13000の兵。

生涯を通じて伊達家の宿敵だったような相馬義胤だが、この時は二本松攻めに参加していて、そのまま政宗と共に佐竹及び南奥州勢を迎え打った。また政宗の舅の田村清顕も、政宗の下に参陣していた。

軍議が開かれた。

「敵は瀬戸川を渡ろうとするでありましょう」

と、鬼庭綱元が言った。瀬戸川は阿武隈川の支流である。「ですので、瀬戸川で敵を防ぐことが肝要かと」

「うむ」政宗は頷いた。

「瀬戸川に橋がござります。橋は壊さねばなりませぬ」

「いや、壊してはこの寒さで川に飛び込まねばならぬ。橋はそのままにしておこう」

「しかし」

綱元は食い下がったが、他の重臣も橋があった方がいいと主張して、橋は残すことになった。

政宗は二本松城の包囲のために6000の兵を残して、大雪の中、7000の兵を率いて南下した。

兵力差は4倍である。

11月17日、政宗は本宮城に入り、さらに本宮城を出て阿武隈川を渡り観音堂山に布陣した。

南奥州勢は前日に前田沢に布陣し、そのまま北進し瀬戸川にかかる人取橋で伊達勢と衝突した。世にいう人取橋の戦いである。

両軍合わせて37000の軍勢が集まれるほど、橋は広くない。

伊達勢も佐竹、南奥州連合軍も、肩が触れ合うほどにひしめき合って橋上で揉み合った。

それでも橋を渡りきれない軍勢は、雪中、川に飛び込んでせめぎ合った。

が、数の上から伊達勢に勝ち目はない。川に飛び込んで渡ってくる敵勢がどんどんと増えていった。

伊達勢は終始押され、政宗のいる本陣にも鉄砲の弾が飛んできた。

「うっ!」

政宗の肩に、矢が突き刺さった。

「殿!ここはお引きを!」鬼庭綱元が叫んだ。

また鉄砲の弾が飛んできて、今度は政宗の足に当たった。

「引け!ここは引け!」政宗が叫んだ。

「殿、それがしが殿(しんがり)を務めまする」

と、鬼庭左月が政宗の前に膝をついて言った。

「よくぞ申した、頼むぞ!」そう言った政宗は目を釣り上げ、頬を引きつらせていた。

「殿、それがしに軍配をお預けくだされ」左月が言った。全軍の指揮を任せよというのである。

(左月は死ぬ気だ)

政宗は左月の目を見た。左月と目が合い、二人はしばらく互いの顔を見合った。

政宗は手に握った軍配を見た。金色の軍配である。

政宗は何も言わず、左月に軍配を預けた。左月は両手でうやうやしく軍配を受け取り、

「ーー御免!」

と言って、本陣を飛び出して言った。

「儂は殿より軍配を預かった!今より儂が全軍の指揮を執る!」

馬上、左月は軍配を掲げて叫んだ。

鬼庭左月、この時74歳。

高齢のため甲冑が付けられず、頭には兜の代わりに、黄色い頭巾を被っていた。

「鬼庭勢、我に続け!」

と言って、左月は敵陣の最も分厚い層に突っ込んで言った。

その間、政宗は本宮城に向かって逃げた。

時々後ろを振り向いた。何度目かに振り返ると、左月の率いる鬼庭隊が見えなくなっていた。

「ーー引き返す!馬を止めよ!」

政宗は叫んだ。

「殿!なりませぬ!」

近習が止めたが、政宗は聞かない。

「殿!何をなされておる!」追いついてきた成実が、政宗に向かって言った。

「左月は儂より先に死んだぞ!」政宗が動転して叫んだ。

「左月殿の働きを無駄になさるか!それがしが防ぎまする。このままお引きあれ!」

成実に言われて政宗は、

「行くぞ!引け!」

と言って、再び本宮城向かって駆けた。

成実はその場に踏みとどまって力戦し、政宗が逃げる時間を稼いだ。

こうして政宗は、本宮城に辿り着いた。

体を調べてみると、矢傷ひとつに鉄砲傷が4つあった。

政宗は近習に手当てをさせると、傷が熱を持ってきた。

政宗は倒れそうなほど意識が朦朧としたが、虎哉の「人前で仰臥するな」という教えを守って、横にならなかった。

やがて、本宮城に伊達家の敗兵が三々五々で戻ってきた。

戻ってきた中に、伊達成実もいた。

「おお!よくぞ戻った」

政宗は言った。

「ーー左月殿のことをお伝え致しまする」

成実が言った。「それがし、鬼庭勢の残った者から伝え聞き申した。鬼庭隊は200余の首級を取りましたが、左月殿は岩城家中の窪田十郎に討ち取られたとのことにござりまする」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?