後白河法皇㉔
閏10月20日、木曽義仲の帰洛により、「院中の男女、上下周章極み無し。恰も戦場に交わるが如し」と、九条兼実が日記『玉葉』に記すほどの動揺を呈した。
義仲は、源頼朝追討の宣旨と、志田義広の平家追討使への起用を要求した。
(そうはいかぬな)
と、後白河法皇は胴震いしながら思った。
義仲の政治能力は高くない。政治能力なら、平宗盛の方が高かった。
しかし百戦錬磨といっていいこの男を相手に、平家から逃げた時のように逃げきれるとは、後白河法皇は思っていなかった。
しかし義仲の陣営は、必ずしも一枚岩ではない。
前日の19日には、義仲は源氏の武将を集めて、後白河法皇を奉じて関東へと出征する意見を述べている。
ところが、土岐光長がこの案に猛烈に反対した。土岐光長は、この400年後に斎藤道三に滅ぼされる土岐氏の先祖である。
この後法住寺合戦という、義仲が後白河法皇の御所を襲う事件が起こるが、光長はその時後白河法皇方について討ち取られている。この時点で既に後白河法皇、いや頼朝に味方しようと策していたのだろう。
この時期、源義経が京へ向けて西上しているが、後白河法皇は義経がどこまで来ているか知らない。
(義経が間に合わねば、少ない兵力で義仲を退けることができるのか?)
後白河法皇は悩んだが、
(ーーやってみよう)
と、後白河法皇は決意した。後白河法皇も乱世の時代の君主である。ここ一番という時には、兵力的に不利でも、敵の要求をはねのける度胸が、後白河法皇の中にも生まれつつあった。
後白河法皇は、義仲の要求を拒絶した。
26日に、義仲は興福寺に頼朝の討伐を要請したが、興福寺の衆徒はそれを断った。
義仲と行家の仲違いももはや公然のもので、義仲につき従うのは、信濃の郎党と志田義広、近江源氏くらいだった。
(ーー勝てるやもしれぬ)
後白河法皇はわずかに希望を持ち、自らを励ました。
その頃、義経は伊勢にいた。
伊勢といっても上洛のためではない。
寿永二年十月宣旨の内容を、各地に伝えるためである。そのことにより、頼朝がもはや朝敵ではないこと、そして頼朝に味方することによる利益を、各地の武士に伝え、後々の勢力拡大の布石にしていた。
そして11月4日、義経軍は不破の関に着いた。
7日には、義経軍は近江国に入った。しかし義経軍は500~600騎の小勢であり、目的も義仲との合戦ではなく、後白河法皇に献上する品を運ぶ使者であるとした。
義仲は、この義経の言葉をある程度信じた。崩壊寸前の義仲軍の統率に頭を悩ませている義仲としては、義経軍が小勢であること、義仲との合戦が目的でないことでは多少心が安らいだ。
「義経の軍が小勢であれば、入京を許す」
と、義仲は妥協案を示した。義経が京に入れば、後続の援軍と分離してしまおうという策である。
義経は、義仲の策に乗らなかった。
義仲にとっては、それでもよかった。義経の援軍が来るまで動かないことがわかったからである。
(頼朝の弟が来ておる)
後白河法皇は、その報に力づけられた。
義経が近江に入ったのと同じ日の11月7日、後白河法皇は、義仲を除く、源行以下の源氏の諸将に院御所の警備をさせた。
また10日から16日までの間、諸宗の僧侶を招いて怨敵調伏の修法が行われたが、「怨敵」の対象には平家の他に義仲も含まれていた。
さらに、延暦寺の協力により、僧兵や石投げの得意な浮浪民を集め、法住寺殿の周囲に兵や柵を巡らせた。
もっとも、行家だけは8日に京を出て、平家追討のために西に向かった。
その軍勢はわずかに270騎で、その数のあまりの少なさに、兼実が不自然に思っている。
行家には、居場所がないのである。
行家は頼朝と決裂し、義経の軍勢が上洛しても頼朝の陣営には戻れない。また義仲との関係を修復することもできないから、せめて平家相手に戦って、少しでも自分がいられる場所を作るために西に行ったのである。しかしいくさに弱いことで定評のある行家が、わずかな軍勢を率いて何ができる訳でもない。行家はこの後平家に徹底的に負かされることになる。
話を戻す。
後白河法皇は、
「ただちに平家追討のために西下せよ。頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京に逗留するなら謀反と認める」
と、義仲に最後通牒を突きつけた。
「君に叛くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」
と義仲は弁明した。
後白河法皇は返答しなかった。
「義仲の申状は穏当なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」
と、どういうことか九条兼実が義仲を擁護している。
既に頼朝に接近している兼実がここで義仲の肩を持つのは、要は時間稼ぎであろう。
そして後白河法皇の強硬姿勢を見ると、日頃仲の悪い後白河法皇と兼実だが、ここでは表向き、兼実は法皇と対立しているように見えて、実は裏でこの二人は手を組んでいる。
実に珍しいことである。
しかし、頼朝派の兼実としてはこうせざるを得ないだろう。何しろ前言をひっくり返して周囲を翻弄するのが常の後白河法皇が、命がけで頼朝に義理立てをしているのである。
(義仲に攻められても、法皇は死なないだろう)
と、兼実も後白河法皇も思っている。しかし幽閉された上で、頼朝追討の院宣発行は強要されるだろう。
だからこそ、ここは頼朝に義理立てしなければならないのである。後白河法皇の心情は、可憐なほどであった。
(しかしそれも、これ以上頼朝の好き勝手にさせぬため)
と、後白河法皇の決意は並大抵ではない。
17日、八条院が法住寺殿を退去。
18日、上西門院(統子内親王、後白河法皇の姉、准母)、亮子内親王(後白河法皇の第1皇女)も御所を去り、入れ替わりに後鳥羽天皇、守覚法親王(以仁王の同母兄)、円恵法親王(後白河法皇の第4皇子)、明雲が御所に入った。
戦闘準備完了ということである。特に後鳥羽天皇が御所に入ったのは大きい。
「帝の御所に弓矢を向けられるか」
ということである。
義仲は、覚悟を決めざるを得なかった。
19日、法住寺殿は義仲の襲撃を受けた。
午の刻(正午)兼実は法住寺殿から、天に黒煙が上がるのを見た。
申の刻(午後4時頃)に兼実が得た情報は、「官軍悉く敗績し、法皇を取り奉り了(おわ)んぬ義仲の士卒、歓喜限りなし」
とある。義仲が法皇の身柄を確保したのである。
兼実は、
「夢か夢にあらざるか、魂魄退散し、万事覚えず」と仰天した。やはりいざとなると、法皇が捕らわれるというのは想像できないものらしい。いや、平清盛による治承三年の政変以来、上皇、法皇が武力で屈服させられる時代になっているが、そういう流れに逆らえないのを、兼実は身の痛みと共に感じているのだろう。
法皇方は、土岐光長、光経の親子、多田行綱といった面々が激しく戦ったが、もはや後がない、決死の義仲軍にはかなわなかった。
光長、光経は討ち取られ、行綱は摂津国多田荘に逃げた。
この戦いで、天台座主明雲が法住寺殿に入っている。
明雲は後白河法皇と共に、攻める義仲を非難するために御所に入ったと思うだろう。
確かにそれもあるが、明雲はこの合戦で、自ら戦ったのである。
兼実の弟で、後に天台座主になった慈円は、その著『愚管抄』において、天台座主で座にありながら、殺生に手を染めた明雲を厳しく批判している。
明雲は、義仲四天王の楯親忠の放った矢に当たり落馬し、親忠の郎党に首を斬られた。
明雲の首は義仲に差し出されたが、義仲は、
「そんなものがなんだ」
と、明雲の首を西洞院川に投げ捨てた。
また円恵法親王も、逃げる途中華山寺の付近で流れ矢に当たって死んだ。謀反人でもない皇族が殺されたのは、崇峻天皇以来だろう。
「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と、兼実が嘆いている。
後白河法皇は、摂政近衛基通の五条東洞院邸に御幸させられた、つまり身柄を移され幽閉された。
兼実は、後白河法皇に「嘆息の気」はなかったと、『玉葉』で述べている。
(やった……余はもののふ相手に引かずに戦ったぞ)
息子の円恵法親王が討たれた悲しみは、なかった。
武力を持たぬ帝王は、たとえ殺されなくても、捕らわれれば同じということがわからない。
ただ義経軍が来て、すぐに解放されるという期待が、今の後白河法皇を支えていた。その後が頼朝による支配だったとしても。
五条東洞院邸は、女車に至るまで厳しく出入りを調べられた。
しかし五条東洞院邸は「怪異のため」というから、幽霊か何かが出たらしい。
12月10日、後白河法皇の身柄は、六条西洞院の平業忠の屋敷に移された。またこの日、後白河法皇は義仲に強制されて、頼朝追討の院庁下文を発給した。
京の情勢は、北面の武士の大江公朝により、義経に伝えられた。
義経は焦らなかった。
上洛して義仲と戦うには、義経には兵力が不足していた。
義経は鎌倉の頼朝に報告して援軍を要請し、近隣の武士を吸収して兵力の増強を図った。元盗賊の伊勢義盛や、頼朝の挙兵時に討った伊豆目代、山木兼隆の父平信兼は、この時期に義経の郎党になっている。
12月、東国自立を主張する上総広常が、頼朝の命を受けた梶原景時によって誅殺された。上洛については、頼朝傘下の内部にも敵がいたことになる。
同月、頼朝の弟で義経の兄の源範頼が、軍勢を率いて鎌倉を発った。
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