面倒な先輩

 昔、勤めていた会社に、面倒な先輩がいた。
 どう面倒なのかというと、職場の若手社員を集めて、飲み会をするのが好きな人で、しょっちゅうそういう飲み会を自分で開いては、後輩に説教したり、自分語りに花を咲かせたりと、相手をさせられる方からすれば実に迷惑極まりない、そういったタイプの面倒くささだ。
 いつだったか、その先輩が結婚した時に、「俺の幸せな家庭を、職場の皆に紹介する」という企画を立てて、休日に後輩数名を集めて焼き肉を振る舞うということを、その先輩がやったことがあった。本当に面倒だった。なんで貴重な休みの日を一日つぶして、先輩社員の嫁のツラを拝みに行かなければならないのだ。
 今では考えられないかもしれないが、きっと私達は、そういう会社組織内での公私混同が公然と許されていた、最後の世代になるのだろう。
 私はできるだけその先輩とは関わらないようにしたかったのだが、職場での座席の距離が近かったりしたこともあり、無下にするわけにもいかず、常に苦笑いしながらの対応に終始していたように記憶している。
 その先輩は、それから何年かした後、「難しい資格を取って自分で事業を興す」とかなんとか、そういうようなことを職場の皆に伝えて、結局会社は辞めてしまった。

 あれから20年ほどが経った。その間、滅多にその先輩のことを思い出すこともなかったのだが、ある日ふと、今どうしているんだろうと、消息が気になった。
 ネットに何か情報がないかと思って、グーグルで氏名を入れて検索してみたが、何も出てこない。フェイスブックをやっているのではないかと思い、そちらでも検索してみると、こちらでは見事に顔写真付きのアカウントが上がってきた。
 早速開いて中を覗いてみたが、書き込みは何もなかった。次に、先輩が繋がっている友達の一覧ページを開いてみた。こちらは、先輩の奥さんのアカウントが表示されているだけで、他に繋がっている人は誰もいないようだ。
「この人、友達ひとりもおらんのか……」
 思わず、そう呟いてしまった。
 その空虚なフェイスブックページを眺めている内に、20年前に、なぜ先輩がああいう行動を取っていたのか、ようやく腑に落ちるようになってきた。

 結局、プライベートでは一人も友達のいない人だったのではないのか。おそらく学生時代に、利害関係のない本当の友達を作ることができなかったのだろう。でも、心の中では、そういう、大勢の仲間を集めてワイワイみたいなことに対する憧れがすごく強くて、それを、会社の「先輩・後輩」という関係性の中である程度強制力を保てるパワーバランスを利用することで、実現しようとしていたのではないか。
 そう考えると、とても寂しい人だったんだなという感想を今更ながら持ってしまう。かわいそうな人と言い換えてもいいかもしれない。哀れみ・同情の気持ちが滲んでくる。
 そう感じると同時に、そういう事情があるなら、苦笑いなどせずに、もっと先輩の気持ちに寄り添って、仲良くしたり盛り上げたりしてあげればよかったかなという思いもまた出てくるのだ。
 まぁ今さら、そんなことを思っても、もうどうしようもないことなのだが、時を経ることで、明確に見えてくる人の気持ちもあるんだなと、改めて感じさせられる。

 本当に、今どうしているんだろう、あの先輩。
 一旗揚げるとかなんとか言っていたけど、きっとうまくはいっていないのだろう。うまくいっていれば、グーグルで氏名を入れた時に、先輩の功績が輝かしく羅列されて表示されるはずだし、フェイスブックの友達一覧は大勢の人たちで溢れかえっているはずだ。
 世の中は、そんな甘いものではない。
 大勢の若手社員を集めて、そのほとんどが私と同じ苦笑いの人たちばかりだったにも関わらず、満面の笑みで微笑んでいた、あの先輩の表情を、今でも時々思い出す。

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