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【映画】『スリー・ビルボード』 「赦し」と「癒し」について

映画『スリー・ビルボード』(原題 Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)は今見るべき作品だ。

あらすじはこうだ。
ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は何者かに娘をレイプされ焼き殺された。7ヶ月経っても捜査が進展しないことに苛立っている。
町では差別主義者の警官ディクソン(サム・ロックウェル)が黒人への暴力で憂さ晴らしをしており、そんな状況にミルドレッドはしびれを切らしある行動に出る。
レイプ現場の近くに建っている3枚の看板にメッセージ広告を出したのだ。

1枚目「娘はレイプされて焼き殺された」
2枚目「未だに犯人が捕まらない」
3枚目「どうして、ウィロビー署長?」

警察署長批判とも取れる広告に警官や町民達が騒ぎ始める。

これだけ読むと、「復讐に燃える母親が犯人を逮捕するまでの物語」だと思うだろう。
だがこの映画は誰も予想できない結末を迎える。

キーワードは「世の摂理は人知を超える」

以下の文はネタバレを含む。

■ アメリカ批判

この映画は復讐劇の皮をかぶったアメリカ批判映画だ。

黒人を虐待する白人警官。
レイプ犯の兵士を逮捕できない体質。
男児を犯す神父と、それを断罪しないキリスト教。
DVやレイプに虐げられる女性達。

展開が目まぐるしく移り変わっていくのは、それだけアメリカには批判すべき悪習がこびり付いているからだ。

ミルドレッドは広告を取りやめるように諭す神父に向かって言い放つ。
「80年代、ストリートギャングの抗争が激化し、これらを取り締まる法律が作られた。ギャングの一員であるならば、例えそいつが寝てたとしても、別のギャングの犯罪により逮捕することができる。神父も一緒だ。例え2階で寝てたとしても、1階で男児を犯す神父が居たら同罪だ。男児へのレイプを見て見ぬ振りする神父にとやかく言われたくない」(意訳)

ミルドレッドはキリスト教ごときでは救われない。
娘がレイプされ、焼き殺された。ただ犯人を捕まえることだけが生きる意味だ。

なぜそこまで、と思ってしまうがある理由が判明する。

■ リグレット

ミルドレッドは娘と口論になる。
車を貸してと頼む娘に「マリファナを吸って運転するような子には貸せない」と断ったのだ。
「歩いていけばいい」という母親に「歩いて行ってやる!途中でレイプされても知らないから!」と反抗する娘。
ミルドレッドはそれに「レイプされればいい!」と突き放すのだ。

そして娘は実際にレイプされ、さらには焼き殺されてしまう。

しかも、若い女と暮らしている元夫から「殺される1週間前に娘はオレと暮らしたがっていた」と告げられる。
あの時「レイプされればいい」など言わなければ良かった。もし元夫の所で生活していればレイプされなかったのに。
これら後悔から、自分の罰を剥ぎ取りたい一心で復讐に向かっているように映る。

ウィロビー署長(ウディ・ハレルソン)にも後悔があった。
それはレイプ犯をいまだに捕まえられていないことだ。

癌により余命わずかな署長は、ミルドレッドの広告を批判し、病状を伝え取りやめるようお願いする。
だが署長の死期を知りながらもあえて名指しで広告を出したミルドレッドに、署長は翻心する。
ミルドレッドへ匿名で広告料の寄付をし、ミルドレッドのやり方を彼女への手紙の中で賞賛したのだ。

そのような人物であったことに気付いたミルドレッドは、後悔の果てにさらに復讐心をたぎらせる。

3枚のロードサイドの看板広告と、みんなに愛された署長の死により、物語はさらに予測不能な展開になる。
先ほど書いたように、この映画はアメリカ批判が詰め込まれている。
そして、さらに大きなものが描かれている。
この映画は世界の縮図だ。

■ 世の摂理は人知を超える

この映画は展開が読めない。
次から次へと因果が巡っていく。
そして、その因果律は人々の目には見えない。
世の摂理は人知を超える。

「風が吹けば桶屋が儲かる」
だが誰も桶屋が儲かった原因を知ることなどできない。

「人間万事塞翁が馬」
馬のせいで、あるいは馬のおかげで様々な吉凶が起こるが、吉と出るか凶と出るか、そしてその禍福がいつまで巡り続けるのかは誰にもわからない。

この作品はそのような映画だ。

マリファナをやる娘を叱る。
娘がレイプ犯に殺される。
母親が広告を出す。
署長が自殺する。
悪徳警官ディクソンが広告会社の代表に暴行する。
3枚の看板が燃やされる。
ミルドレッドが警察署を燃やす。
偶然そこにいたディクソンが大やけどを負う。
署長からの手紙によりディクソンが正義に目覚める。
偶然レイプ犯に遭遇する。

普通の映画のように、ある結末に向けて順序よく物事が起こらない。
何かのきっかけで悪いことが起こったりほんの少し良いことが起こったりする。
でもそのおかげで、あるいはそのせいでまた良いことや悪いことが舞い込んでくる。

世界は操縦できない。翻弄されるだけだ。
ただ、この映画が優しいのはラストを見れば十分伝わってくる。

娘を殺した犯人だと思われた男はDNA判定により別人とされた。
だがどこかで誰かを焼きながらレイプした事には間違いない。
そこでディクソンはミルドレッドに「殺しに行かないか?」と提案する。

レイプ犯のもとへ向かう道中、「警察署に火をつけたのは私だ」と告白するミルドレッドに「あんた以外誰がいる」と、ディクソンはすでに受け止めていたことがわかる。
この優しさは、半殺しにした広告会社の代表レッド(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)から大やけどの入院中にされた行動に依るだろう。
顔まで包帯で覆われたディクソンに誰とも分からず優しくするレッドは、ディクソンであると分かり動揺し罵るが、それでも優しくしたのだ。

何かのきっかけのせいで悪い結果を呼ぶが、そのきっかけは誰のせいでもない。
この映画で一番悪いのはミルドレッドの娘をレイプし殺した犯人であることに間違い無い。
でもこの映画が癒し映画なのは、突き詰めるとすべての物事は誰のせいでもない、ということがわかるからだ。

世の摂理は人知を超える。

すべての物事の因果は、時間を超えて、距離を超えてやってくる。
そして、これからの我々の行いの結果も、時間を超えて、距離を超えてどこかの誰かのもとに届く。
それがその人にとって良いことになるのか悪いことになるのかは知るすべが無い。
だから、隣にいる敵もいつか許し合えるはずだ。
ミルドレッドとディクソンのように。

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