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【小説】うつせみの代わりに 第3話 霜月朝陽3

 今日は最悪の日だ。
 仕事でミスをした。小さなミスなのですぐに挽回出来たが、ミスのイライラが尾を引いたのか同僚のふとした態度が気に食わず、それが表情に出てしまった。あっ、と思ったが時すでに遅く、少し険悪な感じになってしまった。
 この同僚は前々から所作や考え方の点でまったく反りが合わなかったのだが、その積み重ねもあってか僕としたことが攻撃的な面が出てしまった。
 周りの人たちにも気を遣わせてしまう形になって反省している。
 僕は今年で25歳になるが、まだまだ大人になり切れていないということなのか。
そもそもいくつになっても一向に大人になれた気がしないのはどういうことなんだ。
 20歳くらいで感覚が止まっていて、実年齢に感覚が追い付かない。今25歳という現実に新鮮に驚いているほどだ。
 どうでもいいことを考えていると勤務時間があっという間に過ぎていく。他の人は何を考えながら仕事をしているのだろうか。もちろん仕事のことなんだろうけど。他にも何か考えるだろ、普通は。
「霜月くん」
 急に呼ばれると驚く。人を呼ぶ時はその前に何か予兆が欲しいものだと常々思っている。「あ、霜月さん」みたいな。「そういえば霜月さん」みたいな。
 こんなことを考えながら声の方に顔を向けると伊藤先輩だった。
「今来てるお問い合わせに返信しといて」
 いつもにこやかな伊藤先輩は、たしか僕よりも10歳ぐらい上の気の良い先輩だ。

「霜月くんさー、いい加減女の子紹介してくれてもよくない?」
「僕の方がごねてるみたいな感じ出さないでくださいよ」
 そんな緊張感のないやり取りをしてくれる数少ない先輩の一人で、僕は勝手に友達だと思っている。伊藤先輩もたぶん似たような感覚を抱いているだろう。イラつく同僚とはご飯に行かないのに僕のことはよくご飯に誘ってくれるのがその理由。
 伊藤先輩とは現政権の不満や人生の奥深さについて話し合ったり、今期のアニメでベスト1とワースト1は何かについて話し合ったりもする。会社に行くのが苦じゃないのは伊藤先輩がいるおかげ、という理由が5割くらいある。
 いつだったか伊藤先輩に「大人になり切れない以前に、人生を生きている感じがしないんすよねー」とこぼしてみたことがある。彼は、普段社会に放ってはいけないとされている本心を引き出す雰囲気づくりが上手い。
「それはあれだな。魂のアニメを観てないからだな」
 その答えが正しいとは思わないながらも、確かに僕は心を震わせる何かにまだ出会っていないのかも知れないと思った。
 仕事の時は真面目で周囲からの評判も良く、気が抜けている時はとことん脱力し、でもしっかり大人としての厚みのようなものを放っている彼から、僕はまだまだいろんなことを学びたいと思った。彼のアニメ布教演説を聞き流しながら。

 伊藤先輩に誘われて仕事終わりに居酒屋へ。
 今日の仕事のミスについて注意されたり励まされたり、ということは絶対に無く、ただアニメの感想を話したいだけだろう。彼とは仕事の話よりもアニメや映画の話の方が圧倒的に多い。それなのに、というか、だからこそ、というか、彼は誰よりも仕事が早く質も高かった。それに筋トレをしているため身体が引き締まっていて、身長が180cmあるため威圧感がある。なんでも中学生の頃までは身長が低く痩せていたらしい。それが今は威圧感を放っていることに申し訳なさを抱いている、というのが伊藤先輩らしくて好きだ。そしてアニメに救われたことがあるとも話していた。
「アニメに救われた俺がアニメファンの価値を下げる振る舞いをしてはいけない。そんな恩を仇で返すようなことは絶対にしない」
 別段アニメオタクに偏見を抱いていなかったが、あらゆるオタクに対して敬意を払うようになったのは彼のおかげだ。

 押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』は高橋留美子批判である、という伊藤先輩の持論をひとしきり聞いたところで、「霜月くんって哲学カフェって知ってる?」と聞かれた。
「聞いたことあります。行ってみたいなとは思ってるんですけどね」
「絶対に霜月くんに向いてると思うよ。俺みたいな一方的に自論をぶつける奴が居ないし」
「じゃあ絶対に行きます」
 伊藤先輩は笑いながら僕の肩を軽くこづいた。
「いろんな人の考えが聞けるし、いろんな人に自分の考えを聞いてもらえる。ルールは発言を遮らないとか人格を否定しないとかあって。発言しないで聞くのが専門の人も参加していいし」
「伊藤さんは行ったことあるんですか?」
「あるよ。しゃべり過ぎて変な空気になったけど」
「あー」
 容易に想像出来過ぎて笑ってしまった。

 実は池袋駅の近くに哲学カフェを開催している喫茶店があり目星をつけていたのだった。過去に「哲学的ゾンビ」や「魂」をテーマにしていた。このようなテーマに集まる人だったら僕の「生きている感じがしない」という人生観についても共有しやすい気がした。
 丁度今月も哲学カフェが開催されるそうなので参加予約してみようか。伊藤先輩を連れて行くのはやめておこう。彼とは二人きりでとことん話し合う間柄で居たい。喫茶店で彼の大演説によって変な感じになる人たちの姿も見てみたいが。

 決して安くはないはずだが今回も伊藤先輩に奢られてしまった。奢ってやる代わりに勧めたアニメ見ろよ、と言われるのだが、僕には一切のマイナスが無い。なぜこんな素晴らしい人物に彼女が出来ないのか。きっと政治が悪いんだろうな。きっとそうだ。

 家に着く。シャワーを浴びて一息つく。スマホから哲学カフェの予約サイトを確認した。「サンセットムーンライズ」は池袋駅から徒歩5分くらいの場所にある喫茶店で今回のテーマは「あなたは本当にあなたですか?」。僕がいつも感じている「生きている感じがしない」というこの感覚について話を聞いてもらうチャンスはあるだろうか。すごく面白そうなテーマだけに、集まる人によって面白さが損なわれてしまったら残念だ。1人で演説を始めてしまう奴が隣に座ったらどうしよう。僕が制する役目になってしまうんだろうか。哲学カフェについてさらに調べてみると、どうやら司会役としてファシリテーターと呼ばれる人物が進行するらしい。演説する人が居たらファシリテーターに任せよう。でももしこのファシリテーターが傾聴スタイル100%だったらうるさい人を制することもしないのかも。悩みは尽きない。さすが哲学カフェだぜ。
 そこまで考えたところでいつの間にか眠ってしまったようだった。
 部屋の明かりを付けっぱなしだったことに気付いてまどろみから目を覚ましたのは深夜2時だった。

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