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私が好きなもの②美術館巡り(印象派、ゴッホについて)

 今回は私の好きな美術館巡りについてつらつらと言いたいことを述べていく。私は趣味は何ですか?と聞かれたら「美術館に行くこと」と答える。これは合コンのような装い機な場面でも使える素晴らしい趣味である。特にモネやゴッホ、セザンヌあたりの印象主義前後の画家が好きだ。理由はただ一つ、『完全に世の中のはずれモノなのに胸張って生きてたら成功した奴ら』だと感じるから。ちなみに、私を美術の世界に誘ったのは2006年秋に上野で行われていたダリ回顧展。『こんなやべー人がこんなに讃えられるんだ!』って思ったし、ダリの描く蟻たちへの恐怖とヌードに感じた気まずさは一生忘れないだろう。あの時連れてってくれた母ありがとうな。

 印象派という言葉は、あの時代では一種の悪口だったと言える(個人的解釈)。ナポレオン3世が大改革を行い、風通しが良くなったパリで行われた俗に言う【第一回印象派展】。劇的な作風を好んだドラクロワのようなロマン主義や、ありのままを描こうとし、宗教や神話ではなく自然の風景を描いたクールべのような写実派を経て、黒を用いずに光の移ろいを描こうとした印象派。ルイ・ルロワらが『未完成の絵ではないか』と揶揄するために用いた言葉、印象派。巨匠とされるモネやセザンヌ、ルノワール、ドガらがパリの生活を主題にし描いたが、散々馬鹿にされた印象派。今では日本人が大好きでたまらない画家トップスリーにランクインするまでである(私的ランキングではルノワール、ゴッホ、フェルメール)。こいつらの何がすごいって自分を信じてひたすら突き進んで、ひどい人たちだと生前は一生馬鹿にされ、没後にやっと認められてるところである。散々周りの人に迷惑かけたり傷つけたりしても、良いと思う絵を書き続けて結局認められてる彼らってカッコ良すぎない?それに彼らは自分の作品に世の中に対する反骨精神をしっかり記している。『俺らをわかんないやつクソ喰らえ!』的なものを端々に感じるのだ。ルノワールは自分の好きな女の尻や胸やらを永遠に描き続け(もしも、女性の乳房と尻がなかったら私は絵を描かなかった、という有名なセリフが私はとても好きだ)ドガは自分の嫌いな女の顔を酷く描き、寝取られ?のような性癖をモロに絵画に描く。視力を失ってもなお幼女の像を蝋で作っちゃう。芸術って自由すぎる。これで金を得るとか夢がありすぎる。

 あともう一つ、彼らを好きな理由がある。それは、ひたすら憶測で彼らの人生を数多の人が語り、それを信じて数多の人が陶酔しているところである。これこそ偶像。明らかになってないことを明らかにしようとするの、みんな好きだよね、わかる。女関係とか女関係とか...。あんなにクリーンな絵を描くモネでさえ女関係とか女関係とか死後色々語られるのだもの、美術っておもしろすぎない?パトロンの嫁と不倫関係にあったとかザラだものね。そして彼ら画家って素直だから絵に現れちゃうの、女の片鱗が。ピカソなんていい例で、本当に酷い男だしそれによって画風もガラッと変わって憎めないやつです。そんな画家たちの中でも私が愛してやまない画家、新印象派、後期印象派と呼ばれるフィンセントファンゴッホ。

 なぜ彼が大好きなのか、それは彼が正真正銘やべーやつだからである。彼よりまともな私だから、人生どうにかなるかな、と思えるくらいだ。大失恋して鬱になったり、牧師を目指すが挫折したり、画家を目指すのに熱心にモデルを頼みすぎて地元民にウザがられて半ば追放されたり、とにかくやべーやつなのだ。死ぬまで弟のテオに頼りまくってるし。そんなテオはゴッホの死後半年でこの世を去っている、生まれたばかりの息子を残して。ゴッホがかけすぎた心労のせいでは?と思ったりもする。そんな挫折を繰り返しながらもあんなに熱い絵を描き続けている。燃えるような黄色、吸い込まれる青のコントラスト。永遠に上まで伸びていくような糸杉。ああ、ゴッホはこの瞬間を、何で綺麗なんだ!って目をキラキラさせていたんだろうな、と容易に想像がつく数々の作品。あんな絵どうやったら売れるわけ?という暗いオランダ時代の絵画たち、『ジャガイモを食べる人々』などを経て『タンギー爺さん』などのジャポニズムを取り入れたパリ時代の作品を量産。俺は画家仲間と憧れの日本に似たアルルで(全然似てない)共同生活をするんだ!とアルルに移り、『ひまわり』(これについては山田五郎のYouTubeを見てほしいhttps://youtu.be/zjq3EacZ3e4)や『夜のカフェテラス』など作成、ゴーギャンとの共同生活を行うが、得意のメンヘラを発揮して2ヶ月には自分の耳を切り落とす事件を起こす。以後、精神病院へ入院し、『星月夜』などの風景画を描き続ける。そして最期は銃で自殺(これについては今でも明らかにならず。そう、この謎めいたところが彼の人気の一つの理由だろう)。生前売れた絵は数枚のみ。こんな彼が日本という異国で大人気を博している。東京都美術館で去年行われたゴッホ展はそれはそれは大盛況。こんな彼の数奇な人生、誰も共感なんてできないはずなのに、なぜ人々は惹きつけられるのか。わかる、私もすごく好きだ。命燃やした感が愛おしくて、激情感が羨ましくて、切り取ったその瞬間の景色への愛情と歪んだ自己愛が愛しくて、ゴッホの絵はなんだか抱きしめたくなる魔力を秘めている。絵画、いわゆるゴッホの偶像をぎゅっと抱き締めると、心があったかくなると同時に今の自分になんか騒つく。それがゴッホの好きなところだ。

 絵も然り、音楽も然り、自分の好きを素直にまっすぐにアピールできる人間にとても憧れる。糸杉カッケー!って思って何枚も何枚も描き続けるゴッホは素敵だ。【好きなものを好きだと言う、怖くて仕方ないけど】(YOASOBI 群青より)という歌詞の歌が大ヒットしてる世の中だ。自分の好きに自信が持てる人って本当に憧れるし、きっと誰もがそう思ってるんじゃないだろうか。【好きなことを続けること それは「楽しい」だけじゃない】(YOASOBI 群青より)っていくらちゃんも言っている。恵まれた家庭出身の画家が多いのも事実だしきっと好きなことを続けるにはお金も時間も必要である。他の絵画好きな人はどのような感情で絵画を見てるのかは知らないが、私は時にやってんな〜と馬鹿にして、時にいいな〜と羨ましく思い、それを描いた画家の真っ直ぐさに感銘を受け、その絵画を心でぎゅっと抱きしめている。抱き締めるとお前の生き方はそんなもんなのか?とその画家に問われている気がする。欲のままにキャンバスに思いをぶつける彼らは素敵で、にもかかわらずその絵画に込めた真意を多く語らず、それをたくさんの人が推測し陶酔する、それが絵画の良いところである。自分の中でいいように彼らの人生を妄想してその絵画を見るから、絵をみればみるほどその画家が好きになっていく。

 好きを仕事にするのか、好きのために仕事をするのか。仕事は残念ながら約40年週40時間、自分の人生を占めてくる。そりゃ好きを仕事にしたい。だが、好きを仕事にするのって信じられないくらい辛いし疲れることだった。好きを貫こうとすると裏切られるしそれに対する自分の姿勢にも嫌気が差す。少しでもそれを嫌いだと感じた自分を嫌いになる。その分嬉しいことも楽しいこともたくさんあったのも否めない。ゴッホにはなれないけど、ゴッホ寄りの人間には今からでもきっとなれる。好き!これいい!俺っていけてる!って口外はできなくても、心の中で唱えるレベルならなれる。なりたいかなりたくないかは正直まだわからない。はぁ、人生難しい。というかゴッホが心の底から画家という職業が好きだったかもわからないのよ?(何でも疑ってかかるのはやめなさい)

 星が綺麗だな、このカフェ素敵だな、いい柳だな、この木の根描いてみたいな。そんな素直な好きという感情に気づける、好きを日常から見つけられる彼は素敵だ。そしてそれを絵に閉じ込めて、没後130年経った今でも、素敵な風景でしょ?いい絵でしょ?と訴え続ける彼は本当に素敵だ。平凡すぎる私はどんなにそれを感じても絵に残すことはできない。だからこそ憧れる。でも、素敵だ、好きだと気づける私、それに気づいた私って素敵ね!と思える私はもしかしたらほんの少しイイ女なのかもしれない。絵画を抱きしめると、そんな自分も抱きしめられる。だから私は美術館巡りが、フィンセントファンゴッホが好きだ。
(ちなみに緑のブドウ園、サント=マリーの海の風景が特に好き)

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