会長就任挨拶のウソ
池田大作氏の創価学会第三代会長就任挨拶で戸田第二代会長の遺訓として、「昭和三十三年二月の十日、その朝に、『あと七年間で三百万世帯の折伏をしような』とおおせになられたことが、私の頭脳にこびりついております。」(会長講演集1巻2頁)とあるのだが、氏の若き日の日記では、その日は夜行列車で大阪から東京へ帰京した日で、戸田に会ったとの記述はない。
当日の日記の記述を読む限り、この日に戸田と対面したとは思えない。
200万世帯の目標を示された日のことについては日記に記されている。前年の昭和32年12月17日の日記から該当する記述を引用する。
人間革命12巻では、昭和33年2月10日、大阪から帰京後、その足で戸田の自宅へ訪問したとある。ただ、迎えに来ていた夫人のことは何も記されていないし、伴ってとも書かれていない。年譜牧口常三郎・戸田城聖では指針として、200万から300万へ目標の上方修正の指示があったとのていをとっている。しかし、年譜池田大作や若き日の日記では2月10日の朝に戸田宅へ訪問したとの記述はない。これほど重要な戸田の遺訓がなぜ書籍によって書かれたり、書かれなかったりしているのだろうか。
最晩年の戸田が亡くなる直前の2ヵ月で次の7年間の目標として200万世帯から300万世帯と更に100万世帯目標を上乗せする。ありうることかもしれない。しかし、私は疑問を持っている。戸田の会長就任から7年で75万世帯。次の7年で75万の倍近い世帯を折伏して200万世帯。戸田の会長就任時に掲げた75万世帯の折伏の目標は、幹部を含め当時のほとんどの会員が戸田の存命中に実現できるとは思えなかったことに鑑みると、75万世帯から7年で200万世帯、目標としては高すぎるようにも思える。ところが実際は高すぎるどころか昭和33年の戸田の逝去から池田会長就任時の昭和35年までに140万世帯と2年でほぼ倍増、爆発的な増加といってよいと思う。そして残り5年、あと60万世帯で200万世帯となると昭和35年の時点ではもう達成確実で、目標としては物足りなく感じるようにも思える。それならあと5年で200万世帯より、倍増以上の300万世帯の方が威勢が良い。戸田没後2年の間の驚異的な世帯増をふまえての池田氏お得意の戸田の遺訓なるものの創作だったのではなかったかと筆者は考えている。
9時23分東京駅着。夫人が迎えに。そのまま目黒、白金台の戸田宅へ向かうにも小一時間かそれ以上かかるはず。午前10時半や11時過ぎでは「朝」とは言えなくなってしまう。ただ、翌日の戸田の誕生日やさらにその翌日にも午前中から戸田宅へとの記述があるので引用しておく。
前日の2月10日の朝にも戸田と会っていたのなら、上記の「お元気のお顔を見、安心する。」のような書き方にはならないか、前日の日記にそのように記すのではないだろうか。
日記には昭和32年12月17日の200万世帯の遺訓の記述は記されているが、昭和33年2月10日から亡くなるまでの間、いやその後の会長就任までをたどってみても300万世帯の遺訓があったとの記述はみることができない。上記に引用したように池田氏は戸田から指示、指導があればその日に詳細に日記に記していることがうかがえるにもかかわらず・・・。
池田氏の会長就任により、創価学会の会員が爆発的に増加したのは事実だ。300万世帯の目標も会長就任後わずか2年半で達成。昭和39年には518万世帯と。しかし、その陰で強引な折伏ゆえ御本尊の押し付けになり、御授戒を受けても戴いた御本尊をその場や駅に捨てていく者が後を絶たなかった等の弊害もあったと聞く。私の知る限りでも御本尊を持たせるまでは非常に熱心だが、その後はろくに面倒も見ず、ほったらかしで相手が結局すぐ辞めてしまっても全く意に介さないような無責任な会員の話は耳にしたし、身近にもいた。世帯目標もその例外ではなかったのではないだろうか。
いやむしろ池田第三代会長の掲げた成果主義、世帯数絶対主義、選挙至上主義、皆様方からは一円も集めないとの前言も翻し、度を越した集金に走ってしまったことなどが、創価学会のその後の在り方を規定してしまい、「辞めた人が一千万人近くいる」(「朝まで生テレビ」での故西口浩副会長・広報室長の発言)ような結果を生じさせてしまったのではないのか。
政界進出当初も、戸田会長も池田氏が会長に就任した直後も衆議院には候補者を出さないと言っていた。それを昭和39年に方針転換する際、池田会長(当時)は時来れば衆議院にも出よとの戸田の遺訓があったと紹介し、片や平成に入って田原総一朗氏にインタビューを受けた際には、衆議院に出すのはやめておけと戸田に言われたと答えた。池田氏の頭の中では師弟は常に不二であり、師匠が存命していれば当然不二の存在である自分と同じように考えるはずで、したがって自分の言葉が師匠の言葉なのだ、だからそれを改ざんなどとは微塵も言わないのだ、との論理であるかのようだ。だから権威づけに師匠の遺訓を作り出しても、200万を300万と目標を上乗せしても広宣流布のためなのだから問題はないと考えたのだろうか。そしてそれは全て池田先生の了承の下で指揮を執っているというていを続ける現執行部においても「お元気な池田先生」の下、同じように行われている。戒壇本尊を受持しないとの会則改訂しかり、創価学会仏しかり、池田の筆になる日蓮世界宗との揮毫を紙面に載せ、旗揚げの機を手ぐすね引いて窺う現在しかり・・・
会長就任挨拶と整合する記述は平成以降に出版された人間革命12巻(平成5年)と年譜牧口常三郎・戸田城聖(平成5年)。対して昭和40年代から50年代に出された若き日の日記、創価学会年表(昭和51年)、年譜池田大作(昭和56年)では触れていない。
創価学会の会員は創価学会の歴史を初代会長牧口常三郎、二代会長戸田城聖、三代会長池田大作までを所与のものととらえ、また、師弟不二で別の選択肢などありえぬものとして刷り込まれている。日蓮正宗の血脈相承や天皇を万世一系ととらえるように。しかし、戸田を会長に推戴する際、署名に応じなかった会員もいた。東京建設信用組合の破たんは昭和25年8月、会長就任の前年のことで被害にあった会員もおり、会内も混乱しゆえに戸田は理事長を矢島周平に譲っていた。また、戸田の逝去後も池田大作氏と石田次男氏が会長を巡って争う池石戦争なる状況が生じ、会が分裂含みの事態に陥ったことも現在ではまったく語られない。筆者も最近まで顕徳会なる言葉も知らなかった。池田大作氏が32才という若さで会長に就任し、それゆえ会を率いるに際し前会長戸田城聖の言葉、遺訓による権威づけを必要としただろうことは想像に難くない。また戸田も戦前からの幹部への不信と青年への期待からか青年部、ひいては池田氏が遺訓として用いやすい言葉を縷々残していた。このなかに三代会長がいる、三代会長は青年部に渡すがその際分裂してはならぬ等々。
実際の戸田の遺訓と、青年会長池田大作の権威づけの為に脚色、誇張された遺訓がないまぜとなり、言論出版妨害事件後や52年路線の際、また長期休載の後の人間革命11巻、12巻の連載時、池田大作全集の編集過程、年譜牧口常三郎・戸田城聖の編集過程等を重ねてゆく中で、様々な矛盾の解消の必要性が自覚され、対処されたのではないか。特に平成に入ってからは第二次宗門問題の勃発と符合するのも必然に思える。宗門とやりあう前に、矛盾を突かれないよう色々と辻褄を合わせておく必要があると考えてなされた仕事も多々あるものと筆者は考えている。
追記(’22,1,8)
戸田自身が創価学会の勢力をどこまで伸ばせるかと考えていたかにつき、三百万世帯くらいを考えていた、ないし語ったとの以下の書籍の記述に接したので引用しておく。
戸田が創価学会の勢力につき最終的に三〇〇万世帯位を目標にしていたのなら、やはり七年で二〇〇万世帯をまず達成しようと池田青年にそのように語ったというのが自然に思える。しかし、戸田自身が生前すでに三〇〇万世帯の目標を公言していたのなら、就任挨拶で恩師の七回忌までに三〇〇万世帯を達成しようというのは目標を前倒ししたに過ぎず、「ウソ」とまではいえないのかもしれない。「昭和三十三年二月の十日、その朝に」、「おおせになられたことが、私の頭脳にこびりついております。」というのを除けば。
追記2(’24.9.5)
創価学会執行部による「お元気な池田先生の下」とのウソは、池田大作氏が令和5年11月15日に逝去した後も創価学会の機関紙、聖教新聞でそのように紹介してしまうという前代未聞の醜態をさらした。しかも創価学会執行部は何の責任も取らず説明もせず、言い訳に創価学園の行事に支障をきたさないための遺族の要望という、いわば子どもや遺族を隠れ蓑にするといった卑怯な態度まで見せた。私が学園の生徒なら事の真相を本当に理解したとき、決して創価学会執行部の誰をも許すことはないだろう。創価学会はかつて日顕法主を「魂の虐殺者」と呼んだが、お前たちが自分の子どもたちにしてきたことを一度でも心の底から省みたことがあるか。私は本当に怒っている。
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