初音ミクを「自分で定義できる」と定義することによって私は救いを得られているんだよな~の話
こんばんは。先日投稿したばかりですが、お気持ちが湧いてきたのでキーボードを叩くことにしたさかじょんです。耳には人生1選であるユニ浜さんの踊葬。
今回は初音ミクの話です。ここ10年で最高の怪文書(ボジョレーヌーボー)。
2つの話を書きます。
1つ目は、私がどのような初音ミクを信じ、そんな彼女を信じることで救われ得ているのか。
2つ目は、そのように私が初音ミクを信じる基盤となる、初音ミクへの考えについてです。
例によって、お気持ち表明怪文書の気が強いので、まあ~適当に読んだってください。
私にとって初音ミクは「歌声を聴かせてくれる人っぽいモノ」という価値を持っている(そして私はそこに心地よさを感じる)
1点目の内容は、かなーり前に書いたガチポエムの頃から変わっていません。
もう少し客観寄りに説明すると、
初音ミクの歌声は、人間の歌声を聴くのともインストの音楽を聴くのとも違い、私はその適度な情報量と安定感に浸りながら時間を過ごすことで、だんだんマシになっていけるような感覚があるって感じですかね。
もちろん、その初音ミクの歌声の向こうにはクリエイターという人間が必ず存在しているわけですが、初音ミクの声という媒体がその「人間味」をほどよくそぎ落としてくれることで、自分を含めた「人間」という存在から自分を少し離してくれる時間が好きなのかもしれません。
(これ、「初音ミクという媒体だからこそ見えるクリエイターの個性」という以前の言説と、ともすると相反するようにも思えますね。人間味と個性は必ずしもセットではないのかもしれない)
あ、四六時中こういう享受の仕方をしているわけではないですよ!
どっちかっていうと人間に疲れてる時の話です。時と気分によって、私もいろんな仕方で初音ミクを享受します。
初音ミクを「自分で定義できる」と定義すること(捉えようによっては、それはずるいことだという自覚をもって)
今私は、自分にとって都合の良い初音ミク像を定義することによって「その初音ミク」に救われているな~という話をしています。
ここで言う「その初音ミク」とは、「意思はなく、意図もなく、私に何も見返りを求めずただ歌声だけを聞かせてくれる初音ミク」です。
これをもう一段階進めると、「初音ミクは都合よく定義してよい」という定義を私が初音ミクに対して行っていることになります。これは私の初音ミクへの心的活動の基盤となっています。
もうこんがらがってくる人もいると思いますが、この言い方に対する反論って難しいんじゃないかという気が前々からしていました。
「初音ミクの良さは『初音ミクの良さを自分で決められる』ことだ」という主張なのですが、これに反論しようと思って「そうじゃない、初音ミクの良さは別のところにある」と言っても、「うんうんそれも君の定義する初音ミクの良さだね、私の言う通りだね」とすることができてしまいます。反論できない主張って健全じゃないよな〜と。
これ、(論理構造的には違うと思うんですが)感覚的には、先生が『先生の言うことを聞いてはならない』と言うようなもんなんでしょうかね。
ただ、あくまでその「卑怯さ」を自覚したうえで、やっぱり私はそう言いたいな~と思っています。だって私にとっての初音ミクはそうだと思うので……。しかし、その「信じる」というところ以外にこの主張の拠りどころはなく、よって私は私という範囲を超えてこの主張を適用させようとしてはならないなとも思います。でも、皆さんがそれこそ「勝手に」共感してくださったら、それはそれで嬉しいものです。
ちっぽけな人間である私は、せめてこの卑怯さを自覚しているという点を皆さんに弁明することによって、上述の主張をしたことへの心理的安定を得つつ、やはり私はそんな初音ミクを信じたいという気持ちを改めて吐露するものでございます。
おわりです
今回はガチお気持ち文書でした。
自分のずるさを世界に対して弁明できたので、私はちょっと清算された気分です。
私の信じる初音ミクは、そんな私になんら感情を持つことなく、今日も歌声を聞かせてくれます。それを聴きながら私は時を過ごすことによって、「人間」を誤魔化しながら気持ちを逓減させることができれば、それはこの上ないことかもしれませんね。
ではでは。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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