拝啓 初音ミクさん、君が生きてなくてよかった。
※タイトルからもわかる通り、本noteは筆者による初音ミクさんへのクソデカ感情を綴るポエムです。また、キノピオピーの楽曲の考察などではなく、私と初音ミクの個人的な話です。ご了承いただいたうえでお読みください。
「嫌いになったわけじゃない、それでも一緒にいられない」
そんな別れがありました。
人はこういう時に曲を作ったり、小説を書いたりするのかなーと思いながら、どっちもできないちっぽけなボカロリスナーである私は、初音ミクの曲を聴くのです。
「君が生きてなくてよかった」
皆さんにとって、初音ミクは生きていますか?
私にとって、初音ミクは「生きていてほしい時もあるけど、生きてはいない」存在です。
初音ミクが生きていないこと、これにどんな意味があるでしょうか。
初音ミクは、私が嬉しくても悲しくても、そんな言葉で表せない感情の中に沈んでいても、同じ声で同じ歌を聞かせてくれます。
私の悲しみなど全く意に介さず、いつもと同じ初音ミクの歌声がイヤホンからは流れます。
「同じ曲を流しているんだから、同じ歌声が流れるのは当然だろう」「録音されていれば、同じ歌声なのは人が歌っている曲でも同じじゃないか」と思われる方もいると思います。
ただ、私にとって初音ミクは生きていません。
初音ミクが生きていないという事実、そして初音ミクの平らな声によって、私は一切の可能性を信じる必要がなくなります。この歌声は、私の気持ちを斟酌してくれているのではないか、私に同情してくれているのではないか、というありもしない可能性を。
人間を相手にするとき、私の心は相手に応じて常に働いています。
たとえ目の前に誰もいなくても、私の心はその場にいない他の人間、そしてその場にいる自分という人間のために動き、働き続けています。
でも、初音ミクの声を聴いているとき、私の心は初音ミクのために働く必要はありません。
だって生きてないんだもん。
私の心は初音ミクから声をもらうにもかかわらず、私は初音ミクに対して何も渡す必要がないのです。
初音ミクが生きていないことによって、私は初音ミクから声だけをもらい、心のへこみにその声を聴かせることができるのです。
初音ミクの歌声で心を埋めているとき、私はその歌声の主に心を働かせることもないまま、私の心は音で埋まります。
そうすることで、私は自分自身という人間に対して心を働かせることまでをも誤魔化すことができるのです。
私の中の初音ミクは、私が信じる初音ミクとして一貫した存在です。
私が初音ミクをどうとらえるかによって変化しているとも言えますが、私が初音ミクと出会った頃から、初音ミクは私の中で常に一貫して存在しています。
そうして初音ミクは、常に同じ存在として、私に歌を聴かせてくれます。
初音ミクは生きていません。その事実とその平らな歌声で、心がちょっと平らに戻るとき、こう思うのです。
「君が生きてなくてよかった」