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10年くらい初音ミクを聴き続けて来た人が初音ミクの"良さ"を考える会

こんばんは。4月から東京に行くことになったさかじょんです。

最近短めの曲紹介記事ばかりしているなあと思ったので、初心に帰って怪文書!製造をしたいと思います。
今回は、私がなぜ初音ミクをずっと聴き続けてきたのか、初音ミクのどこが"良い"のかを考え、綴りたいと思います。

本記事は、私が一番思い入れのある初音ミクをペルソナとして設定しておりますが、適宜「初音ミク」を「VOCALOID」「ソフトウェアシンガー」等と読み替えていただける場合があります。
また、記事の中で複数の方の記事やツイートを引用させていただいております。嫌な気持ちがあれば何らかの手段でお伝えください。


良さ①:同じ「初音ミク」だからこそ見える作り手の個性

初音ミクはソフトウェアなので、購入すれば誰でもお手元にやってきます。みんなに同じ初音ミクです。

もちろん、初音ミクにもいろいろな種類があります。V2・V3といったバージョン違い、Light・Darkといったボイス種違い(初音ミクAppend)、NTというソフトウェア種違いというように、様々な声があります。


たとえば、Lightならこう(ついでにV3 Englishも聴いてください)

ラマーズPはバージョン違いで投稿してくれてるからたすかる~!
Lightのひらがなえいごも良いですね。
Englishが出た当初は「ミクさんがお英語を……!」と沸き立ったのを覚えています。とはいえ、(ラマーズPの日本語調声の影響もあるかと思いますが)日本語と英語の境目が感じられ、「違う声だなあ」とも思えますね。


Darkならこう(みんなご存じ、独りんぼエンヴィー)

一番Darkっぽい曲を……。私も検索して初めて認識しましたが、「ミルククラウン・オン・ソーネチカ」も初音ミクDarkのタグが付いていました。Darkだからってくらい曲ばっかりじゃないよ。


とはいえ、すべての初音ミクの声は「藤田咲さんの声を元にした歌唱ソフトウェア」として収斂します。

ここで、クリエイターは同じ「初音ミク」から、「どの初音ミクを使うか」という選択が生まれ、そこにクリエイターの意識が現れます。

そして、同じ声だからこそ「調声(古風に言えば調教)」が行われます。初音ミクの歌声をどのような声に作り上げるか、そこにもクリエイターの意識があります。あえて何もしない(いわゆるベタ打ち)という選択をすることも、一つのクリエイターの個性です。
(そうして「ベタ打ちこそ至高」という考え方が出ることにも頷けます。捉えようによっては一番「初音ミクらしい」とも言えますし)

また、初音ミクという「同じ声」は、より「違う曲」を求めます。その結果、歌詞やメロディーラインに強烈な個性を持った曲が多く生まれるのでしょう。
懐古的で申し訳ないですが、やっぱり「ほっぺたぷにぷにつるぺたつるぺたあいつはいわゆる幼女の世界(ろりこんわあるど)」はすごいと思うんですよねェ……。


ここまでをまとめると、
「初音ミク」という「自分のために歌ってくれる、みんなと同じ声」を通すことによって、クリエイターの意識は刺激され、個性がありありと現れる。その結果としていろいろな初音ミクが歌っている……。そんな、多様な世界をもたらす存在として、初音ミクは魅力的なのでしょう。


付記:
上記、「調声に現れる個性」という観点から、以下のyodaiさんの記事には共感いたしました。

自分がボカロ曲を聴いた時に「これスキ!!!!!!」となる要素のほとんどは歌声の独自性だ。元は同じ歌声をクリエイターがどんな形に調理してくるか、それを楽しみに曲を再生する瞬間の高揚感。これこそ自分がボカロ曲を聴き続けている最大の理由かもしれない。

だから可不はその部分にちょっと物足りなさを感じていて、今は可不の歌声が好きで聴いている人たちにも飽きが来てしまわないか危惧している。

私も可不は結構好きなんですが、「うまいこと歌ってくれる」AIシンガーだからこそ「同じように聴こえる」という気持ちが否めないのは事実。

皮肉なことに、誰もが手軽に「ある種の神調教」をできるようになると、皆「神調教に慣れてしまう」のでしょうか……。

同じAIシンガーとして、可不よりも先にAIきりたんが出た当時、「すげえ!!」と思いつつ「そんなに好きにはならなさそうだな」と思ったのも、これが理由かな~と思っています。いや、嫌いじゃないんですけどAIきりたんも。ただ初音ミクほど熱狂はしないだろうなと……。

(以下のツイートはNEUTRINOのAIきりたんが出たとき、および数か月後の独り言ツイですね)


付記の付記:
そんなAIシンガー、例えば可不の声で突き抜けるには、かなりの強烈さがないといけないのかもしれません。

個人的には、可不の個性的な調声がより盛んになればうれしいです。(私は聞き専なので、技術的にどこまでできるのかわかっていないのですが……)


良さ②:「人のような存在感を持つ人ならざるモノの歌声」という価値

初音ミクはそのルーツをVOCALOIDというソフトウェアに持つため、「電子の歌姫」として人間ではない存在です。しかし、様々なシーンでキャラクターとしての存在感を持つため、人間っぽい感じもします(これが時々「初音ミク生きてるか生きてないか論争」を引き起こしますね)。

「初音ミクは~~~~~~???」🍺「「「生きてな~~~い!!!」」」🍺🍺🍺 ゆえん

私は、表層においては都合よく色々な初音ミクの楽しみ方をしますが、根っこでは「初音ミクは生きていない(からこそ良い)」と考えています。

初音ミクが生きていないことにより、リスナーである私の中では、以下の2つの"良さ"が発生します。

A「『声』と『音』の中間段階の聴き方」ができる
B「クリアな媒体」として、クリエイターの創作が高い純度で具現化されリスナーに届く


A「『声』と『音』の中間段階の聴き方」ができる

これについては以下の記事の一部で書きました。

以前もどれかの記事で「VOCALOID(もといソフトウェアシンガー)の声は、『声』と『音』の中間段階である」みたいなことを書いた気がします。

また、以前私の友人ボカロリスナーが言っていた「人の声は情報量が多すぎる」という言葉はこの点をよく言い表していて、個人的に至言だと思っています。

この「言葉が乗った音」は、ボカロ曲の中で「それ以外の音」と一体となって一つのボカロ曲を構成しているのではないかと思うわけです。

そうしてできる「音の集合体」であるボカロ曲に魅せられる私がいるんだなあということなんでしょう。


B「クリアな媒体」として、クリエイターの創作が高い純度で具現化されリスナーに届く

作った曲を人に歌ってもらうのと違い、ソフトウェアとしての初音ミクには人権がない(香ばしい物言い)ので、習熟したクリエイターは初音ミクを完全に自分の意のままに歌わせることができます。
初音ミクに気を使う必要はありません。歌わせたいように歌わせればいいのです。(「そんな卑猥な歌詞歌わせないでよ!」って言われそうですね。笑)

媒体に人間が介在せず、媒体の操作をクリエイター自身が十全に行えることによって、初音ミクはクリエイターの創作の媒体としてこの上なく純粋なものになるのではないでしょうか。

この点についてはこちらの記事で書きました。

作り手の方の気持ちを受け取れていなければ全く以て申し訳ないのですが、時にVOCALOIDの声、曲、詩を通して、作り手の方の心を見せていただくような感覚になることがあります。

ここで、VOCALOIDが生きていないことによって、その声は非常にクリアな媒体となりうるのではないでしょうか。

文字だけで伝えることとも、音だけで伝えることとも違い、人間が歌うのとも違うのが、VOCALOIDの歌声です。

生きている他者を介在せずとも、歌詞を乗せた歌声を響かせることができるVOCALOIDは、この意味で極めて純粋な媒体と言えるのではないでしょうか。

また、さいころさん(@1st_rolls)の以下の記事に一部共鳴するものがあり、勝手ながら非常にうれしい気持ちになりました。

僕、これらの曲は歌ってみたも探すんですけど、結局本家に帰着することが多いように感じています。なぜかというと、やはり

合成音声は「機械」だからですね。

近頃は神調声Pの増加や、CeVIOの目覚ましい発展などがあり、以前より合成音声はより人間らしくはなっているのですが、やはり未だに機械であることを揶揄されることもあるものです。しかし、

虚無曲はむしろ機械の方が合う。

僕はそう思うんですよね。感情がこもってないからこそ映える歌詞、それが虚無曲。下手に感情むき出しで歌われると歌詞の虚無感が失われると思っています。(自暴自棄ソングはむしろ感情な気もしますが。)

合成音声が機械だからこそ、「虚無」を題材とするには適している。
ここでは「感情がこもっていない」という観点ですが、私の捉え方に寄せると、「クリエイターが表現したい『虚無』を、合成音声は『虚無』のまま伝える媒体となる」という感じです。


ここまでをまとめると、
「初音ミクは生きていない」がゆえに、その声は「音」と「声」の中間段階の性質を持つとともに、創作をクリアに伝える媒体となる。そうして受け取る創作に私は"良さ"を感じているということですね。


結論:初音ミクは根本的に「うちの子」である

途中で、「初音ミク生きてるか生きてないか論争」の話をしましたが、そういった論争の余地があるのも、初音ミクが多様な捉え方を許容する可能性を持っているからでしょう。(ギザさんばっかり引用してすみません)

初音ミクは根本的に「うちの子」であると言えます。

クリエイター、リスナーが、「初音ミク」の無限の可能性の中から、自分の信じる「初音ミク」、自分が好きな「初音ミク」(つまり「うちの子」)を創り上げ、信じ、推すわけです。
よって、初音ミクへの思いがある人には、一人一人に多様な「うちの初音ミク」が存在します。そして初音ミクはそれを嫌がりませんし、制限しません(生きていないので)。
これは、楽曲のクリエイターとリスナーに限らず、絵、小説、ゲーム、グッズなど全ての初音ミクとの関わりにおいて言えます

私はそんな底抜けの自由さ・多様さを生み出す初音ミクが丸ごと好きだなあと思います。初音ミクを多く享受しているといわゆる「解釈違い」もあるかもしれませんが、基本的には「うんうん、それもまたあなたの初音ミクだね」と思うようにしています。


楽曲に焦点を当てた話に戻ります。

初音ミクは人間っぽい存在感を持ちつつ、ツールとしてクリエイターの意に反せず振る舞います。リスナーも、自由に初音ミクの声を享受します。
初音ミクはクリエイター、リスナーに何も求めずに歌います。

私はリスナーとして、「リスナーに何も期待せず、歌声だけを聞かせてくれる初音ミク」「自分が信じる、一貫した存在としての初音ミク」の歌声に救われてきました。そのあたりは以前のクソデカ感情記事も良ければどうぞ……。


もちろん、本記事の「初音ミク」も、「私が信じ、推す初音ミク」でしかありません。
初音ミクはもっと広い世界と深い懐を持っているのだ。


ようやく書きたいことは大抵書けた気がするので、長い記事となりましたが終わります。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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さかじょん
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