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【京都】京湯どうふ・㐂さ起 豆腐の感動

 子供の頃。
 豆腐なんて、少しも美味しいとは思わなかったし、冷奴に醤油をかけても、湯豆腐に出汁いりの醤油タレをかけても、子供の味覚にはまったく刺さらなかった。
 そりゃそうだ。豆腐を「美味い!」と思える子供は、多分なにかの天才なんだろうと思う。

 小学生のわたしは、げんなりとテンションの下がった顔で豆腐を口へ入れ、舌でそれをつぶし、口を開けるや、歯の隙間から皿へ戻す。
 そうやってどろどろになるまで豆腐で遊んでから、それをすすり込む。
 あまり上品では……否、かなり下品な食べ方で、食べ物をおもちゃにしている時点で、まったくよろしくない。
 しかも、妹も同じことをして、口の中をお互いに見せあうとか。
 正直、書いていて自分でも気持ち悪くなった。これを読んだ人も「うげえ……」となるに違いない。ごめんなさい。
 まったく、親の躾は一体どうなっているのか。


京湯どうふ・㐂さ起(きさき)

 ところで、大学時代の、ある時……。
 どういうわけだか、わたしは俳句の会へ顔を出す機会があった。
 京都で句会を催すというので、場所が法然院と決まり、通常は開放されていない堂宇へも立ち入れるということで、友達と一緒に京都へ向かった。
 今も昔も俳句は苦手で、現在にいたるまで、上達する気配がまるでないのだが……。
 年配者が多い俳句の世界では、若いというだけで可愛がってもらえるので、悪い気はしなかった。
 その後の懇親会では、一同は法然院を出て、すぐ近くの〔京湯どうふ・㐂さ起(きさき)〕へ移った。
 湯豆腐のコースが出るとか聞かされて、
「ふうん……」
 まあ、風流な食膳もまたよし、などと軽く考えていたものだったが。
 目上の人たちと談笑しながら、何気なく湯豆腐を口へ放り入れるや、
「え……!」
 思わず口に出して、驚いてしまった。
 もしこれが〔豆腐〕なのであれば、これまでの人生で食べてきた豆腐は、

 ──頭をぶつけたら殺傷能力を発揮するだけの、単なる柔らかい凶器!

 でしかなかったことになる。
「わたし……生まれて初めて、本物の豆腐を食べた……」
 そう勃然と思えるほどの、衝撃的な味だった。
 淡白な味わいでありながら、その奥に、豆腐としての洗練と矜持を秘めているかのような、しっかりと芯のある味だった、ように感じた。

 もし子供の時代に同じものを食べたとしても、ここまで感動はできなかったと思う。
 味覚は、大人になるにつれて鍛えられ、鋭敏になってゆくものだと、わたしは悟った。
 二十歳を超えて、ようやく、豆腐の味わいを受け止められる味覚を持てるようになったのだろう。
 わたしは、成長していた!

 さて、その時の懇親会。
「あなた、食べ方が綺麗ね。きっと親御さんの躾がよかったのね」
 年配の方に、褒めていただけた。
 食べ物のカスなど残さないし、きちんと箸を使い、涼しい顔で食べ切る。
 残すなど、言語道断。
 そんなことをすれば、食べ物さんに失礼なのだ。
 食材となった動植物に失礼だし、作った料理人にも失礼。
 ま、要するに、単なる食いしん坊なのだが、
「箸の運び方ひとつ見ても、上品で、よい親御さんに教育されたのが判りますよ」
 などとおだてられたら、照れ笑いするしかないじゃないか。

 わたしの親、そんなに上品な育て方をしてくれたっけ?
 むしろ、ご飯粒ひとつとて残しはしないという、食いしん坊なわたしの執念の問題では、という気もする。
 あるいは、自分でも知らない内に、親からは躾けられていたのだろうか……。
 とにかくありがとう、お母さん。

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