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第二回「絵から小説」:A 長編『タイダルリバー』


清世さんの企画『第二回絵から小説』に参加させていただきました。


※注意※
この作品は過激な性的・暴力的描写を含みます。また、非常に不快かつ残虐な描写が存在します。そういった描写が苦手な方はご注意、またはご遠慮ください。




「わが心狂ひ得ぬこそ悲しけれ狂へと責むる鞭をながめて」
夢野久作 『猟奇歌』より

 

磯の香りにまじる、硫黄のような刺激を伴ったきつい香りが鼻をつく。強力な流れが川面のごみを次から次へと海の方へと押し出していく。濁りの入った汚い川面は、時々南からふく穏やかな風に当てられ揺らめいている。寝付くことのできない蝉の声が、夜になっても一向和らがない蒸し暑さを余計に酷くさせる。イナッコみたいな小魚が定期的に飛び上がってはあたりに響かせる柔らかな着水音が唯一涼を感じさせてくれた。街灯がぼんやりと照らす三十メートルほど先の橋脚に狙いを定める。そこから五メートルほど離れた位置を意識し、ロッドを少し軽めに振り下ろす。ロッドの先が風を切る小気味いい音が橋下の真っ暗な空間で反響する。狙った場所をすこし通り過ぎたあたりにルアーが着水する。ベールを戻す。たいしてすれたポイントではなかったはずだから、ドリフトは使わずそのままルアーを引き始める。しばらくするとリールの巻き抵抗が一気に重くなる。一番強力な潮の流れにルアーが捕まった証拠だった。リトリーブスピードが一定になるように細心の注意を払う。指先に神経を集中する。ふと、リールの巻き抵抗が軽くなった。抜けた、と思った時、リールのハンドルが固定されてしまったように動かなくなった。

来た。

ロッドの先が一気に沈み込む。しゃくり上げ合わせを入れるとドラムを思い切りたたいた時のような衝撃が手に走る。焦らず少しリールを巻いてこちらによせ、橋脚から引き離す。安全圏まで寄せ終ると、ドラグを少し緩める。途端、ドラグが心地よい音をたてはじめ、ラインが沖の方へ一気に走る。負けじとリールを巻く。強烈な潮の流れも相まって、凄まじい重みがロッド越しに伝わってくる。慎重にこちらに寄せる。重みが軽くなり始める。そろそろかも。思ったとたん、銀色に輝く魚体が顔を左右に激しく振りながらジャンプした。川面がざわめく。テンションを抜かないようロッドをねかしエラ洗いを回避する。二回目。三回目。ようやく疲れてきたのか、おとなしくなったところを一気に足元まで引いてくる。足元に来ると最後の抵抗を始めたことを確認して、ばらさないように慎重にロッドを立て、顔が川面に出るように調整する。空気を吸わせながら、片方の手でタモを持つ。弱り切ったところでタモを突っ込み、頭からキャッチする。狙い通り、少し黒ずんだシーバスだった。


釣りを好きになったのは、もう十年近くも前のことだ。大学に行くことが出来なかった私は、それでもどうしても書店員になりたくて、高校を卒業してすぐに契約社員として働き始めた。正社員は基本大卒からの採用だったから、ゆくゆくは正社員になることを目指して、正社員登用ありの職場を選んだ。そこで出会ったのが同い年の元カレだった。私も彼も、引っ越してきたばかりでほとんど知り合いもおらず、それがきっかけでよく話すようになった。と言っても彼は大学のためにあの町に出てきていた身で、私はと言うと一刻も早くあの家から抜け出すために、たまたま地元からかなり離れたあの町で、大学のために一人暮らしを始めると言っていた友人の家に転がり込んだという、状況的には全くにつかない相手だった。彼の事を特別好きだったわけじゃない。私はただ、『私の事を好きと言ってくれる人』と言う理由で告白におっけーをだして、そうして私の事を好きではなくなった彼に、無抵抗のままふられた。彼との恋人ごっこはたいして記憶にも残っていないけれど、彼が私を釣りの世界に引き込んでくれたことだけは感謝している。港町で育った彼は子供の頃から釣りが好きだったらしく、三回目くらいのデートでいきなりシーバス釣りに連れて行かれた。ルアーのキャストもままならず、早々にやる気をなくして手持ちぶさたに堤防に生えていた猫じゃらしをいじっている私の横で、彼は二匹もシーバスをつっていた。なんとなく悔しかったけれど、どうせもう行かないだろうなんて思って、どや顔の彼を軽くあしらっていたのを覚えている。次のデートも同じところに連れて行かれた時にはさすがに辟易したけれど、怒りって感情に体力を使うことが苦手だった私は、持ち前の諦めからくる優しさで釣りを楽しむ彼女を演じた。彼は得意げに私にレクチャーを始めた。これも持ち前の諦めからくるあれで真剣に聞いてあげた。季節は十一月。産卵を控えた大型のシーバスの荒食いシーズンってこともあって、言われた通りのポイントにバイブレーションを投げ、言われた通りに引いてくると、ガツンッ、と想像をはるかに超えた強烈な当たりがあった。どうしていいかわからなかった私は、釣れてるぞ!と叫ぶ彼に助けを求めたけれど、彼はへらへらしながら見ているだけで、どうしていいのかわからなかった私はただ必死にリールを巻いた。正確には覚えていない。橋脚の裏に回り込まれてしまったのか、ドラグをフルロックしてしまっていたのか、はたまた彼のノットの結び方が雑だったのか、気づけばラインブレイクしていた。彼はシーバスが可哀そうだと怒ったし、ルアーがくっついたまま泳ぐ姿を想像すると私も気分が悪かったけれど、怒るのならへらへらしないで助けてくれればよかったのに、とこの言葉も結局は飲みこんだ。ともあれ私はその一度のあたりですっかりシーバスにはまってしまった。私は熱しやすく冷めやすいの典型的なタイプだった。長年つづけたことなんて言ったら現実逃避のための小説や映画の垂れ流しだけで、だからシーバスだってすぐに飽きるだろうとは思っていた。だけどシーバス釣りのことを調べれば調べる分だけいいタックルが欲しくなってきて、欲しいと思ったものは買わないと一向に気が収まらない私は、結局勢いで合計五万円弱のリールとロッドを買ってしまった。大体私は、そうして買ってしまえばすぐに別の事に気を取られ飽きてしまうのだけど、結果として釣りだけは今でも続けている唯一の趣味になった。彼と別れた後も、私は釣りを辞めなかった。それどころか一層はまっていった。今は釣りブームやアニメのおかげで女の子の釣り人もたまに見ることがあるけれど、私がはまった頃はオジサンだらけの中で私一人だけってことしかなくて、最初の頃はそれがたまらなくはずかしかったけれど、シーバスの奥深さを知れば知るほど、そんなことはどうでもよくなっていった。私はシーバス以外にもいろんな釣りをするようになった。チニングや落とし込み。マゴチやヒラメを狙ったルアー釣り。ハゼのえさ釣りにハゼクランク。太刀魚釣りにサビキ釣り。アジングにメバリング、穴釣りにエギングにショアジギング。淡水ではバスやなまずも狙うようになった。でも結局私はシーバスが一番好きだった。釣りにはまるきっかけになった魚、って愛着があるというのがいちばんだけれど、シーバスの奥の深さも理由の一つ。シーバスは非常に学習能力が高く、頭のいい魚と言われている。ルアーを見慣れていたり一度つられたことのある個体はかなり手ごわい。真偽のほどはわからないけれど、ハイプレッシャーなフィールドに居ついている個体は、よく使われるルアーのサイズや泳ぎ方まで覚えていると言っていた人もいた。ほんとのところはシーバスに聞いてみないとわからないけれど、実際すれたポイントのシーバスに口を使わせるのは大変な努力と労力がいる。ポイントや季節、その日の水の状態や天気、時間によって口を使う条件は常に変わって来るので、こちらは手を変え品を変え何とか口を使わせるよう誘い込む。通いなれているポイントでも昨日まで釣れていた方法で全く釣れないなんてこともざらだ。でもそれがよかった。釣りをしている時だけは、シーバスを釣ることだけに全神経を集中させる事ができるから。糞みたいな世界の事も、そんな世界にすら居場所のない私自身の事も、ふと気を抜けばぐるぐると頭を支配するそんな思考の濁流から、釣りをしている時だけは抜け出すことができるから。

 

 

昼の間に温められたアスファルトに着かないようにネットの中でシーバスの口にフィッシュグリップをつける。どのルアーで釣れたかを残しておくために手早くルアーとシーバスを写真に収め、口の横に刺さったフックを丁寧に外す。サイズは平均的な個体だったので、メジャーは使わず再度手に持ったまま写真を撮り、すぐにリリースする。そっと川面につけてあげて、フィッシュグリップを外す。体力の消耗が激しいのか手元でひっくり返ってしまった。グローブを外し尻尾を持って正常な態勢に戻す。そうして尻尾を持ったままゆらゆらと左右にふってあげる。しばらくするとシーバスが暴れ出したので尻尾をはなす。蘇生が成功して一安心しながら、濁り切った水の中に消えていくシーバスを見送った。深場へと向かうその後ろ姿を見つめながら、私は自分の体温の急激な上昇を感じていた。胃の辺りに不快感を覚え、のどの辺りにこみ上げてくる吐瀉物の存在を感じる。心臓に不穏な痛みを感じた。その時、私の脳裏に唐突に、そして鮮明に、黒田深雪のあの笑顔が映し出された。

 

 

「次は県庁前、県庁前」
間延びした声が車内に響き渡る。一月だというのに車内は額に汗がにじんでしまいそうなほどの熱気を帯びていた。むせかえるような赤の他人の匂いと体温が四方八方から襲い掛かって来る。彼らの体温も香りも、全てが私をはじき出そうとしているように感じる。だから私は満員電車が嫌いだ。隣の女子高生が何の気なしにすする鼻の音。前の新卒っぽいサラリーマンが見つめるスマホに映し出されるゲームの実況動画。座席に座り、カバンを抱え込むようにうつむき寝ている女性が、ふいにイヤホンに伸ばす自身の白い指。車窓の上に取り付けられた液晶画面に毎日のように映る薬品のCM。そんな何気ない日常の一コマ一コマが、私にいちいち牙をむく。お前がいていい所じゃない。そんな風に言われているように感じてしまう。私だって、すきでこんなところにいるわけじゃない。私だって自分の人生がこんなことになるのだとわかっていたら、生まれようなんて思わなかった。ただ、自分で去る勇気もないまま今日も私は、私を受け入れない世界の中で無駄な生を消費している。
気だるげなブレーキ音が響き、列車が停車する。扉が開き、大海に放流された小魚たちみたいに、人の群れが駅の構内に一気に流れ出す。間延びしたアナウンスと裏腹に、電車から流れ出した人々は恐ろしいくらいに早足で各々の日常へ向かっていく。半ばもまれるように私は流れに身を任せた。この寂れた地方都市のどこにこんな人が隠れていたのか。東海線の車内から流れ出た人の群れは最高密度を保ったまま長い下り階段にさしかかった。ふと気を抜けば前の人の踵に足を引っかけてしまいそうなほどの人口過密地帯で、皆恐ろしいほどの勢いで階段を下っていく。階段は急こう配で、十五メートルほど続いている。見慣れた光景だけれど、いつまでたっても居慣れない。ふと、前を歩く男性の良く磨かれた革靴が目に入った。途端、一つの鮮明な映像が頭に浮かんだ。
私がポケットからスマホを取り出す。スマホはいかにも滑りやすそうなつるつるのカバーをつけている。私は、『うっかり』スマホを落としてしまう。スマホの落ちていく先には、よく手入れされ黒く輝く男性の革靴が、男性の全体重を受け止めながら階段を下っている。スマホが階段に落ちる。勢いそのまま、スマホは階段を下っていく。その先には、まさに男性の革靴が着床しようとしている。プラスチック製のスマホケースに守られたスマホが、革靴の下に転がり込む。人間一人の全体重を預かった革靴がスマホを踏み抜く。傾斜のおかげで、踏み抜いた革靴が勢いよく跳ね上がる。スマホはそのまま宙を舞う。男性はひっくり返る。私の目の前で。私は一歩引いたところから、その光景を見つめている。ひっくり返るさなかの男性と目があう。突然のことに何があったのかもわからないけれど、しかし確実に自分に近づく死の恐怖を本能的に察知した男性の目と。鈍い音と共に男性のうなじが階段のとがった部分に当たる。同時に革靴をはいた男性の足が前を歩く女性の背中に豪快にヒットする。女性は先行する体に頭を引っ張られるように勢いよく前に倒れ込む。その先には階段を下る無数の人々。イヤホンをつけた彼らは、自分の後ろから今まさに迫る死の気配に気づきもしないまま、今日も変わらぬ『日常』が始まると信じて疑わない。そんな彼らの元へ、バランスを失った女性の体が突っ込む。私はそんな雪崩のような光景を、頂上から見つめ続ける。
指の腹に伝わるさらさらとした感触にはっと我に返る。無意識のうちにポケットの中のスマホを撫でまわしていたらしい私の指先に、だいぶ遅れてその感覚が伝わってきた。気づけば私は階段を下りきっていて、前を歩く革靴はどこかへ消えていた。

 

 

「黒田深雪です。よろしくお願いします」
「はあ」
駅を出た後に急に振り出した冷雨に精神的にも体力的にも参ってしまった私は、だから上の空の中控室で彼女にそう挨拶をされた時、そんな失礼な態度を取ったと思う。長年の悪習のせいで目の前にいる人間の顔色を極端なまでに伺う私が他人に対してこんな態度をとることは珍しく、それに気づいた私はあわてて取り繕おうとしたけれど、どういう流れで彼女が私に挨拶してきたのかがわからない私は、どうにも対応が出来なかった。
「あ、あの…」
「あ?」
「あ、いえあの…」
あからさまに不機嫌そうな声音を聞き、ようやく目の前の女の子の隣に店長が立っていたことに気づく。
「聞いてなかったのか?」
「あ、す、すみま…」
肩が震え出すのがわかる。ここではっきり喋らなければ、店長の更なる嫌味があの脂ぎった汚らしい口からはなたれるのは分かっていた。分かっていたけれど、お腹には驚くほどに力が入らず、のどは締め付けられ、まるで真冬にスウェット一枚で外に出た後みたいに、身体の震えがとまらず、どこに力を入れていいのかもわからなかった。
「黒田深雪さん。学生さんのアルバイトで、今日から出勤だから。森、しばらく面倒見てあげろ」
お前、ではなく森。見てやれ、ではなくあげろ。些細な語尾の変化から店長が明らかに黒田さんを意識しているのが伝わってきて気持ち悪かった。
「あ、はい。わかりました」
店長に頭を下げ、黒田さんに向き直る。
「あ、あの、森波留子です。よろしくお願いします」
今度は彼女に頭を下げる。
「黒田さん、森は一応社員だから、何でも気兼ねなく聞いてね。いくらでも使ってやっていいから」
そう言われた黒田さんはにこやかにしながらも、店長に返事を返そうとしなかった。その代りに私に向き直り
「改めて、黒田深雪です。よろしくお願いします、森さん」
そう言って深々と頭を下げると、彼女は私に向かってほほ笑んだ。艶のある漆黒の髪とは対照的な真っ白な肌。日本人には珍しいくらいに大きな瞳。小ぶりで少し薄そうな唇。メイクこそばっちり決めていたけれど、それでも高校生、いや下手をすれば中学生でも通りそうなあどけなさの残る彼女は、そんな一種の幼さを残しながらも、どこか落ち着いた大人の影のようなものを感じさせて、私はその美しい微笑みに少し見惚れてしまった。
「おい森」
そう言われ店長を見ると、彼は黒田さんに返事をもらえなかったのが不満なのか、不機嫌そうな顔で黒田さんをちらと見て、その顔のまま私に向き直った。
「もう少しはっきり喋ったらどうだ?」
そう言うとあからさまな溜息をついた。私は別に、普段からはっきり喋れないわけじゃない。ただ、威圧的な態度の人間を前にしてしまうと、どうしても息が上がってどうしていいのかわからなくなってしまうだけ。あなたみたいな無神経で頭の弱い、他人に威張り散らすことでしか存在価値を見い出せない人の前だから、上手く喋れないだけ。そう心の中で反論する想像をしてみるけれど、結局私に言い返す勇気はなかった。
「とりあえず今日は控室の使い方とか、店内倉庫の説明。店内の説明。レジは今日ノータッチでいいから。ああただセルフレジと検索機の使い方だけは教えといてやれ。それ終ったら棚の整頓のやり方な。ったく、いちいち説明させるなよ。よろしく頼む」
別に説明を求めたわけじゃない。私が何かする前に勝手にあなたが説明して、勝手に私に怒っている。開くだけで迷惑な臭い口でわめきちらして。これも私は飲みこむ。店長は一通り自分の優位性をアピールし終ると、とりあえず満足したのか控室から出ていく。
「あの、森さん?」
「はい」
「大丈夫ですか?」
「え?」
「なんか震えてますけど…」
顔が熱くなるのを感じた。事あるごとに勝手に体が震えてしまうことはよくあったけれど、今まで他人にそれを指摘されたことはなかった。自分では気づかれないように平静を装っていたつもりだったけれど、もしかしたらそれは周りが気を遣っていただけだったのだろか、それとも今の私がいつも以上に震えていたのか…。
「あ、あのごめんなさい。コート濡れてたし、雨に結構やられちゃったのかなって」
「へ?ああ、うん。そうなんです」
本気で勘違いしているのか、それとも気を遣われたのか定かではなかったけれど、とりあえず話が悪い方向へ流れていく可能性がなくなったことにほっとした。
「少しすればあったまるので、大丈夫ですよ」
「そうですか、よかったです」
「じゃあ、とりあえず控室の使い方から説明していきますね」
「あ、はい。と言うか森さん」
「はい」
「敬語、やめてください。私後輩ですよ?」
「あ、すみません。でも、私こっちのほうが落ち着くというか」
私がそういうと、彼女は少し笑った。でもその笑いに、悪意は全く感じられなかった。むしろ私は彼女のそれを、心地のいいものとして認識していた。
「それじゃあ私が落ちつかないんです」
「あ、えっとじゃあ、私には敬語使わなくていいですから」
自分でも意味不明なことを言ってしまった。
「なんでそうなるんですか。もう~」
そう言うと彼女はう~ん、なんて漫画みたいな効果音が似合いそうな感じで少し何かを考えるようなそぶりをすると、唐突に言った。
「森さんって、波留子って名前なんですよね?」
「え、はい。そうです」
「じゃあさ、私は森さんに敬語を使う代わりに、森さんの事を波瑠さんって呼びます」
「え?」
「だから森さん、じゃなかった、波瑠さんは私に敬語を使わないでください」
「ど、どうしてそうなるの?」
「なんていうか、雰囲気?というか、演出?ですかね。波瑠さんって呼べば、私と波瑠さんの間には親しさみたいなのが生まれるというか。だけど私は後輩として、年下として最低限の敬語は使います。でも波瑠さん、波瑠さんは年上で先輩で、しかも私に波瑠さんって呼ばれるほどには私と親しいんですから、そんな相手に敬語使う方がおかしくないですか?」
何がおかしいのかはわからなかったし、呼び方を変えただけで今日初めて会った人間との距離が縮まるとは思わなかったけれど、目を細めながらしゃべる黒田さんの顔を見つめていると、こういうのもいいなと思えた。
「えっと、じゃあ、敬語はやめます…。あ、やめようかな…」
「よくできました、波瑠さん」
そう言ってにっこり笑う黒田さんの笑顔は、やっぱりとても魅力的だった。

 

 

黒田さんはすぐに書店内の人気者になった。持ち前の明るさと人懐こい性格のおかげで、誰にでも可愛がられた。アルバイトの園田君と店長なんかは特に黒田さんにぞっこんだった。黒田さんは本当に周りの人たちと上手くやっていた。私に対しては何かとあたりの強いパートの主婦さんたちだって、黒田さんは一カ月もしないうちに気に入られて、常に話題の中心にいるほどになっていた。黒田さんは学生と言うこともあって、シフトに入れるのは土日と水曜の午後からだけだったのに、いつの間にみんなとそんなに仲良くなったんだと心底驚かされた。黒田さんは仕事が出来るわけじゃなかった。少し天然が入っているのか、例えば初老の客を相手にしている時、お客様と呼べばいいところをおじいさまと言ってしまったり、売れ残りの商品を倉庫に返送するための集荷依頼の電話を頼まれた時は、なぜか商品の入った段ボールを郵便局まで持って行こうとしたりと、よくわからないミスをすることがちょくちょくあった。でも彼女の行動すべてに全く悪意は感じられなかったし、むしろ彼女の仕事に対する真っ直ぐな誠意みたいなものが周りにはしっかりと伝わっていて、煙たがれるどころか一層彼女は気に入られた。しっかりしてそうな見た目とのギャップにも、みんな可愛らしさを感じていたのかもしれない。店長はそんな黒田さんを引き合いに出して、事あるごとに私をいびった。
私は、仕事ができないわけじゃなかった。ただ私には、向上心と言うものが全くなかった。社会に出るまで私は、自分が他人より強く向上心を持っていると思っていた。思い出したくもないあの家庭での十八年間。私はあの家族の一員から一刻も早く抜けるため、ありとあらゆる努力をしてきたつもりだった。ただいざその夢が叶い自由の身になった時、私の人生のエネルギー全てがあの家族から離脱するというただそれだけのことに注がれていたことに気づいた。目的を達成した私に残ったのは、虚脱感とひたすらに現状維持を望むつまらない精神だけだった。ずっとなりたかったと思っていた書店員という仕事ですら、あの家族から逃げるために夢に仕立て上げた、ただの道具に過ぎなかったのかもなんてことすら考えるようになっていた。
同期で社員になった子たちが次々に自分のコーナーを任されるようになり、店舗ブログを任させるようになった。店長になった子もいた。その子たちと会話をすればするほど、自分の中に全くもって向上心と言うものが存在していないということを痛感させられた。
実際私は、現状維持を好んだ。新しい地位に立つということは、必ずどこかに角が立つし、誰かと衝突するかもしれない問題に直面することだってある。私はとにかく誰にも怒られないよう、誰にも嫌われないよう、ただそれだけを志して仕事を続けた。Aさんにこの資料はもっとこうしてくれた方がいいと言われればその通りにしたし、Aさんのやり方がわかりづらい、こうしてくれとBさんに言われれば、Bさんの言われた通りにした。Aさんが再びその資料を見る時は、Aさんのためにまたやり方を変える。つまるところ私には、自主性がなかった。他人に言われたことだけを守り、自分の思ったことは何も口に出さない。やれと言われたことだけをこなす。ただそれだけに徹していた。
そんな私でも、一応は二年で正社員になることもできたし、これまで勤務した三店舗では問題なく仕事をこなすことが出来たし、他のスタッフたちからもある程度の信頼を得ていた。各店舗の店長も、私の真面目な勤務態度を評価してくれていた。ただ私の真面目な勤務態度は、あくまで他人に怒られないため、嫌われないためという目的を原動力としたもので、仕事に対する熱意からくるものでは決してなかった。同じ真面目さでも、両者には雲泥の差があった。こういうやる気のなさを見破ってくる人間は一定数いる。前三店舗ではあやふやなままやり過ごすことが出来たけれど、毎回そう上手くはいかないもので、私が今勤めているS店の店長、そうしてパートの宮木さんはどうやら私のそんな態度を見抜き、目の敵にしているようだった。彼らはことあるごとに私に嫌味をいい、いかにも森は仕事ができないぞという風な噂をスタッフに吹聴していた。別に私は仕事が遅いわけでも、さぼっているわけでもない。ただ真面目さの性質が違うだけのはずなのに、彼らは何故か私の事を執拗に攻撃した。
人間関係はほんとにつまらなく恐ろしい。権力のある人が誰か一人を嫌うと、その人とほとんど関わりを持ったことのない人間までもがその人を嫌うようになる。この店最大の権力者である店長と、パートさんの中で一番に権力を持っていた主婦の宮木さんが私を嫌ったことによって、いつの間にか私はこの店舗での嫌われ者になっていた。ほとんどの人間が私とは最低限の会話しかかわさなかったし、私に対する言動には明らかに嫌悪と拒絶の色がにじんでいた。こうなってくると、今度は本当に仕事が出来なくなってきた。怒られないように、嫌われないようにを心掛けて真面目に仕事をこなしてきた私は、怒られ、嫌われるようになってしまった。いつの間にかスタッフに声をかけられるだけで胸が苦しくなり、息が吸い辛くなった。職場にいる間は常に心臓と胃の辺りに不快な感覚を覚えるようになったし、入社当時から何よりも意識していたはっきりとした受け応えもできなくなった。何を言っても怒られそうで、レジの中を通過するだけでもびくびくしていた。喋る声には力が入らなくなり、絞り出すようにしてだしたか細い声を聞きかえされると、もう頭が真っ白になって何を言っていいのかわからなくなった。私は完全にこの店の癌になってしまった。私となんて二回くらいしかシフトが被ったことのないアルバイトの片岡さんが、他の人に混ざって私の悪口を言っていたときは吐き気がとまらなくなり、トイレに駆け込んでしまったこともあった。最初の頃は、一部の人間を除いてはほとんどがなぜ私が嫌われてるのかを理解できていなかったようだったけれど、私が追い込まれあらぬ言動をすればするほど、彼らの私に対する嫌悪に明確な理由が付与されていった。
でも黒田さんは違った。彼女はどうしてか、私と親しくしてくれた。彼女が入社したころには、すでに好き好んで私に話しかけようとする人なんていなかった。バイトの園田君も私と普通に会話してくれる子だったけれど、彼はあまり周囲の事を気にしない風な子だったから、私にも平気で話しかけてくるのだと思うし、そもそも彼は特定の誰かと懇意につるむってことをしないタイプの子だったし、何となくうわべだけで付き合っているんだろうな、なんてドライな感じが伝わってくる子だったから別段不思議ではなかったけれど、黒田さんは彼とは違った。私の勘違いでなければ、彼女は私を友人のように慕ってくれていた。最初の頃は、私が研修を担当したこともあって、何かと私に聞いたりした方が楽なのかな、くらいに思っていた。でも、いつの間にか彼女は昼休憩の時隣でお弁当を食べるようになっていた。遅番の日は駅までの道を一緒に帰るようになっていたし、私が出勤するシフトまで知りたいと言ってくるほどになった。私、という存在をぬきにして、そもそもバイトと社員が仲良くなることはほとんどない。普通はどちらも仕事に支障のない程度の適度な距離感で相手に接する。と自分の経験から思っていたから、黒田さんの私に対する態度は新鮮で、素直に嬉しかった。なにより彼女の存在は私にとっての救いになっていた。

 

 

週一でやってくる店長不在の比較的平和な遅番を終え、店じまいをして駐車場を出た私は、いつも通り黒田さんが私の事を待っているのに気がついた。そう言えば今日は車で来ているってことを言っていなかったことを思い出し申し訳なく思い、何となくそわそわしながら彼女の元に向かった。車乗っていく?そう言いたい気持ちもあったけれど、断られるのが怖かったし、もし気持ち悪いとか思われたらなんて思うと言いだそうとは思えなかった。彼女はいつも通り、私の姿を見ると笑顔で駆け寄ってきた。
「お疲れ様です、波瑠さん」
「お疲れ様。あの、ごめんね黒田さん。私今日車で来てること言いそびれちゃって…」
「え?車持ってたんですね!乗せてー!」
そう言ってふざけ半分で私に抱き着いてくる黒田さんに半ば強引に乗せることにさせられてしまったような感じだったけれど、悪い気はしなかったし、むしろ嬉しいくらいだった。さっきまでの悩みが杞憂に終わったことにも胸をなでおろした。

 

 

「いつも車じゃないですよね」
「うん。職場までなら電車の方が便利だからね」
「確かに。この辺の道って朝混みますもんね~」
「そうだよね」
黒田さんの家は書店から二十分くらいのところにあった。何だか彼女が助手席に乗っていることが不思議で、嬉しくて、私はいつもよりほんの少しだけアクセルペダルに置く足の力を緩めていた。ちらと黒田さんを見ると、窓の外を眺めていた。表情はよく見えなかったけれど、街中のネオンをいっぱいに映し出した彼女の真っ黒な瞳を想像し、それはとても綺麗なんだろうな、なんて思った。
「なんかいいですね、こういうの」
唐突に黒田さんにそう言われ、何を言われたのかわからず曖昧に返事をする。
「仲のいい先輩に夜の道を車で送ってもらうって」
「ああ、そういうこと」
平静を装って返答してみたつもりだったけれど、私の声に動揺はにじんでいないだろうか。少し心配になる。
「私、夜の街車で走るの好きなんです」
「黒田さんも?私も夜の高速とか好き」
「いいですよね!ああでも私は助手席から見てる方が好きかなあ」
「運転しないの?」
「免許もってないんですよねえ」
「そうなんだ」
「ていうか波瑠さん」
「ん?」
「黒田さん、っていい加減やめてくれません?」
「え?」
「そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないですか~」
そう言ってむっと眉を八の字にしてふてくされている表情を作る黒田さん。実は初対面の時、敬語の流れで呼び方も下の名前で呼んでくれなんて言われたらどうしようと思っていた。あの時は杞憂に終わったけれど、またいつ切り出されるかわからない話題を何とか避けるため、なるべく黒田さん、と呼びかけるのを控えていたのだけど、潮時が来てしまったようだった。
「えっと、さすがにちょっと恥ずかしいかな」
「なんでですか~。これでも待ったほうですよ?最初の時、さすがに距離詰め過ぎかなって思って黙ってたんです。なのに仲良くなってもずっと黒田さんじゃないですか〜」
やっぱりあの時から考えてはいたのか。
「う、う~ん。そうだよね」
「そうだよねって何ですか」
「じゃあ、頑張ってみようかな」
「よろしい」
黒田さんに名前で呼んでくれと言われるのは素直にうれしかったけれど、黒田さんを前に面と向かって『深雪』と呼ぶ心の準備はまだまだできていなかったし、もし私が職場で黒田さんの事を親し気に深雪と呼ぶのを他の人に聞かれたらと思うと、私と仲良くしたがゆえに彼女が被るかもしれない被害を想像してしまいなんとも嫌な気がした。
「そういえば、これなんですか?」
そう言われ黒田さんを見ると、彼女は天井に設置していたロッドホルダーを物珍しそうに見つめていた。
「ああ、それね。釣竿をここに固定しとくためのやつ」
「釣竿?釣りやるんですか?」
「うん。まあね」
「へえ、なんか意外」
「だよね」
「よく行くんですか?」
「うん。実は今日車で来たのも朝釣りに行ってたからなの」
「それでだったんですね。でも釣竿は?」
「折りたたんで後ろに置いてある。朝だけのつもりだったし、なんか職場に釣竿丸見えの車で行くのもなんとなく気が進まなくて。まあ、私の車だってだれもわからないだろうけど、一応ね」
「ええ~、別にいいのにそんなの。てか仕事前に釣りって大変じゃないですか?」
「そうなんだけどね。……。朝マヅメ夕マヅメって知ってる?」
「全然」
「やっぱりそうだよね。釣りの世界では日の出の前後一時間の事を朝マヅメ、日の入りの前後一時間の事を夕マヅメって言ってね、その時間は魚が一番積極的にえさを食べる時間って言われてて、だから仕事前の釣りって結構釣果よかったりするんだよ?」
「へえ、魚にもそんな食事時みたいなのがあるんですね」
「そうなの。その時間帯は水の中のプランクトンが一番活性化する時間でね、それを食べにくる小魚たちの活性が上がって、同時に小魚を狙うフィッシュイーターって言われる大型の魚の活性も上がるから、必然的に釣りやすくなるの」
言い終わると同時に、フシュッ、と何だかくしゃみみたいなへんてこな音がしたので黒田さんを見ると、黒田さんはどうやら笑いをこらえきれず噴き出してしまったようだった。途端に顔が熱くなった。
「ほんとに好きなんですね、釣り。見たことないくらい目が輝いてましたよ」
「ご、ごめんね…」
「え~、なんで謝るんですか?いいじゃないですかそう言うの」
「え?」
そう言ってほほ笑む黒田さんの表情には、悪意のようなものは全く感じ取れなかった。
「すごい楽しそうに話すから、ちょっと興味沸いちゃいました」
「そ、そうかな」
「今度釣り、連れてってくれませんか?」
「ええ?」
予想外の申し出に、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「いやですか?」
「え?ううん、嫌じゃないよ?でも釣りだよ?」
「なんか楽しそうに話してる波瑠さん見たら、釣りしてる時の波瑠さんの事も見たくなっちゃったというか」
そう言って微笑む黒田さんを見て、胸のところをぎゅっと締め付けられる痛みを感じた。
「いいの?」
「波瑠さんがいいなら私は連れてってほしいなあ」
「じゃ、じゃあいこう」
「絶対ですよ?」
「うん。絶対」
「じゃあ後で空いてる日ラインしときますね」
「へっ?」
空いてる日を教えてくれるという言葉で、急にこれがその場だけの口約束ではなさそうな事がはっきりして、驚いてしまった。
「もう、やっぱり本気じゃなかったんですか?」
「い、いや、違うよ。うん、じゃあお願いします」
「よろしい。というか波瑠さん、なんで女の子なのに釣りにはまったんですか?珍しいですよね」
三十手前の私を女の子と平気で呼ばれたことに少しむずがゆさを感じた。
「あ、前にお付き合いしてた人が好きで、何回か連れて行かれちゃってね、いつの間にか好きになってた」
「なるほど、彼氏さんつながりで」
「うん。その人とはすぐに別れちゃったんだけど、釣りはどんどん好きになっちゃって」
「へえ、なんかいいですね、そう言うの」
「そうかな?」
「そうですよお。私は恋人の趣味にはまるってこと今までなかったから、なんかちょっと憧れますね」
「そ、そうなんだ。今は彼氏さんとかいるの?」
勢い聞いてしまったが、口に出してすぐに深入り過ぎてしまったかと後悔した。
「気になります?」
そう言って黒田さんはいたずらっぽく笑う。聞かれるのが嫌そうな雰囲気ではなかったのでとりあえず安心する。
「え、いや、言いたくなかったらいいけど」
「フリーですよ。絶賛募集中です」
そう言って無邪気な笑顔を浮かべる黒田さんに、私はまたしても心地のいい胸の痛みを感じた。
「そ、そっか。私も…」
「じゃあ仲間ですね」
「うん、そうだね」
「あ、ここで止めてください」
そう言われ、ナビを見ると、いつの間にか目的地周辺ですと表示されていた。話すことに夢中になって、ほとんどナビには無意識のうちに従っていたらしい。
「ここです、私のアパート」
「そうなんだ」
そう言われ見ると、レンガ調の外壁を淡いオレンジの照明で照らされたおしゃれな二階建てのアパートがそこにあった。駐車場や植木もあり、全てがよく手入れされていた。外観は新築のように見えた。
「へえ、いいとこだね」
素直にそう思った。黒田さんはへへ~、と少し得意げに笑って見せた。
「今度また遊びに来てください」
「ええ?いいの?」
「はい。今日はちょっと散らかってるのであれですけど、これからは片づけておくのでいつでもウウェルカムですよ~」
黒田さんは冗談を言っているようには見えなかった。それがとても嬉しかった。
「じゃ、じゃあまた今度おじゃまさせてもらおうかな」
「はい、じゃあ今日は送っていただいてありがとうございました、波瑠さん」
そう言って黒田さんは少し伺うような目つきで私を見ていた。ああ、とその意味を察し、少しだけ鼓動が早くなる。
「うん、ありがとね、黒、えっと、み、深雪、ちゃん」
「よくできました!」
そう言って子供の様な笑顔を浮かべる彼女の姿に、やっぱり私の心は爽やかな痛みを覚えた。
自宅に戻っていく彼女の背中を見送りながら、ふと、私がこうして深雪と親しくしていることを、ましてやプライベートで会う約束まで取りつけたことを書店のスタッフたちが知ったらどう思うだろうなんて考えが頭をよぎった。瞬間、何か得体の知れない、快感にも似た不穏な感覚が、背筋をすっと撫でたように感じた。

 

 

「ありがとうございました」
お取り寄せ商品の会計を済ませ、深々と頭を下げる。長く続く梅雨の雨のせいで、店内には湿っぽい空気が充満していた。頭を上げ、レジを後にする制服姿の女の子を目で追う。湿気のせいか少しだけカーブしてしまっている髪先が触れる肩のあたりは、まだ真新しそうなブレザーの生地にはじかれた水滴がいくつも乗っていた。彼女のつけていた水色のイヤホンのコードが妙に目に焼き付いた。まだまだ大人っぽい制服に馴染め切れていないあどけない顔が、二カ月前に高校生になったであろうことを物語っていた。彼女のこれから歩む先には、きっと広大な世界が開けているんだろう、なんて思った。ふと、頭の中に唐突に一つの映像が浮かんだ。
店を出た女子高生が、母親の車を確認する。車内の母親は、スマホをいじることに夢中で、彼女が店から出てきたことを気付かない。母親の車は、店舗出入り口前の駐車スペースから車両用の通行スペースを挟んだ正面に泊まっている。傘を持たない彼女は、出入り口の屋根のところで少しだけ外に出ることをためらっていたが、やがて意を決したように足を進める。彼女の両側にはミニバンが停めてあって、車両通行用の通行スペースからは死角になってしまっている。通行スペースをありえない速度で走る車が、彼女に近づいてくる。こういう客は意外とよくいる。ここには自分だけしかいないとでも思っているのだろうか。イヤホンをした彼女は車の接近に気づかない。彼女は雨に打たれることを気にして足早に母親の車へと向かう。ドンッ、とひときわ大きな音が響き渡る。自身のすぐそばで響いたその不穏な音を訝しんだ母親が目線を上げる。目の前には大きなSUVが停車している。『なんでこんなところで』母親は思う。ふと、運転手の様子がおかしいことに気がつく。どこか呆然とした様子で、一点を見つめている。嫌な予感がする。なんとなく頭に浮かぶ想像は、しかしまだその当事者が自分の娘だということには結びつかない。視線をSUVの前に向ける。そこには雨に打たれ動かなくなった、見慣れない高校の制服。見慣れないけれど、その制服には確かに見覚えがあった。その制服を着た娘の姿にまだ見慣れていないかった彼女には、しかしそれが娘の入学した高校の制服であることはすぐに理解できた。呼吸が荒くなっていく。まさか、とは思うけれど、しかし否定すれば否定するほど、思考は最悪の方向へと引っ張られていく。二カ月前、あの制服を着て嬉しそうに家に帰ってきた娘の笑顔がフラッシュバックする。これから始まる新しい世界に胸躍らせ、得意げに高校での出来事を語る、娘の笑顔が…。

「森さん?」

突然名前を呼ばれ、我に返る。声の方を見ると、不思議そうな視線をよこす園田君がいた。
「どーしたんすか?」
「え?」
「ぼーっとしてたっすけど」
「ああ、すみません。大丈夫ですよ」
「そっすか」
そう言うと園田君は何事もなく品出しに向かっていった。
いつからかは思い出せれない。いつの間にか私は、目の前の人間の死を想像することが癖になってしまっていた。別に相手に殺意があるわけじゃない。ただ自分でも無意識のうちにふとそんなビジョンが脳内に浮かび、私はそれに毎回飲みこまれていった。止めようとも思わないし、そもそもそこまで思考が働かなくなってしまう。ただ自然に浮かんだ考えに身を任せ、没頭している感じだった。その想像は唐突に、そして誰にでも襲い掛かった。親しくしていた友人や、恋人の時もあれば、ただ前を歩いていた初老の男性の時もあるし、電車で隣に立っていた大学生っぽい女の子も対象になった。直接私が手を下すこともあれば、私が一切関与しない別の原因によっての事もある。私までが巻き込まれることもある。例えば自分が乗っている電車が事故に遭ったりだとか。いつごろからだったかは分からないけど、私はこれを悪いことだと思って悩んだとこはほとんどなかった。かといっていいこととも思わない。そもそもそこまで深く考えたことがない。人が無意識のうちに息をしたり、口に溜まった唾を飲みこんでいるように、私もただ無意識のうちにそんな想像をしてしまうようだった。
「あ、そう言えば森さん」
品だしに行ったはずの園田君が、ひょっこりレジに戻ってきていた。
「なんですか?」
「黒田さんとこの前車で帰ったんすよね?」
なぜ園田君がそれを知っているのか少し怖くなったけれど、もしかしたら深雪から聞いたのかもしれない。そうだよと返すと、園田君はおお~、とよくわからない反応をした。
「ねね、今度黒田さんと三人で飲みにでも行きません?」
「え?」
「森さん黒田さんと仲いいじゃないっすか~。それに森さんとも前から飲んでみたかったし」
明らかにとってつけた言い訳だと分かったけれど、私は不快な表情が出ないように顔に笑みを張り付ける。
「そうだったんですか。でも私なんかが行って邪魔じゃないですか?」
「邪魔じゃないですよ~」
いきなりさしで飲みに誘うことを避けるための手段としての私の存在、それは明らかだったし、正直そんな飲み会は面倒なだけだったけれど、かと言って私に断る勇気はなかった。
「私はいいですけど、黒田さんに聞いておいてくださいね」
「おー、ありがとうございます。りょーかいっす」
そう言うと園田君は再び品出しに向かった。面倒なことになったと思った。園田君の深雪に対する入れあげっぷりは誰から見ても明らかで、正直あからさますぎて少し引いていた。今日だって深雪がシフトに入っていないことをあからさまに残念がっていた。ふと、園田君に私が深雪と来週の水曜に釣りに行くのだと伝えたらどう反応するだろうと思った。きっと園田君はあからさまに羨ましそうにするにきまっている。想像すると、深雪を送った日と同じ、いいしれぬ感覚が背筋を心地よくくすぐった。

 

 

久しぶりに訪れた青い空に輝く太陽に照らされて、前日までふっていた雨に濡らされた木々の緑がきらきらと輝いている。堤防に沿って流れる河川は、濁りに濁っている。あけ放った窓からは、夏の気配を存分に含んだ湿った草木の香りが流れ込んでくる。時々かすかに感じる磯の香りに、気分が高揚する。長引く梅雨の雨と、私と深雪の予定がなかなか合わないせいで、あの約束をしてから三週間後、ようやく私たちは釣りに来ることができていた。最初は適当な堤防へ穴釣りかサビキ釣りに行こうと思っていた。初心者でも簡単に釣る事が出来るそれらの方が、深雪も楽しんでくれると思ったからだった。でも深雪は、私が一番好きな釣りに連れてってほしいと言ってきた。正直、実体験からもルアーを投げることすらままならない初心者がいきなりシーバスに連れて行かれても退屈なだけだと思ったし、深雪につまらないと思われたくないって不安もあったけれど、深雪はそれがいいと聞かなかった。シーバスは夜釣りで狙った方が圧倒的に釣りやすいのだけど、釣りを全くやったことのない深雪を夜釣りに連れて行くのは危険が大きすぎたから、昼過ぎ頃にちょうどいい潮になる今日を選んだ。
「着いたよ」
川幅三十メートルほどの河川にかかる、この辺りの住人しか使わないぼろぼろの小さな橋の近くにあった車二台分ほどの駐車スペースに車を停める。珍しそうに河川を眺めていた深雪はきょとんとした表情で私のほうをふり返った。
「あれ?海じゃないんですか?」
「うん。ここでやるの」
車を降り、トランクから一通りの釣り道具を降ろしていく。深雪はまだきょとんとした表情で私の作業をじっと見ている。
「あ、私なんか持ちますよ」
「ありがと。じゃあこれお願い」
深雪は渡されたロッドとタモを受け取ると、珍しそうに観察し始めた。小柄な深雪が8フィート(約2・4メートル)のロッドと並ぶとまるで子供の様に見えてしまって、私はその不釣り合いさに思わず笑ってしまいそうになった。
準備を済ませて堤防に設置された階段を使って下に降りていく。この河川は足場がコンクリートで綺麗に整備されていて、いくら満ちても足場が水没することもないのですべる心配もなく、初心者にはうってつけのポイントだった。おまけに住宅街の中を流れるマイナーな河川であり、近くに多数存在する有名スポットのおかげで、ほとんど人が来ることもない穴場になっていた。案の定、釣り人は私と深雪だけだった。深雪は雨のせいで濁り切った川をまじまじと見つめている。
「すっごい濁ってる」
「雨の後だと、こんな感じになるんだよ」
「へえ、タイミング悪かったですかね」
「そうでもないかな。むしろ濁ってた方が魚の警戒心も薄れるから釣りやすかったりするんだよ」
「なるほど。あ、でっかいわかめ」
深雪は川面を流れるわかめをまじまじと見つめた。
「流れ、早いですね」
「うん。シーバスは流れが効いてる場所の方がいいの」
「そう言えば、シーバスって海の魚じゃないんですか?」
そう言えばそうだった。釣りに全く触れたことのない人にとっては、こうして川で海の魚を釣るというのは不思議に感じるのだ。それは以前の私もそうだった。
「うん。シーバスは海の魚だよ。でね、この川はいわゆる汽水域って言われる場所なの」
「汽水域って?」
「海水と淡水が混ざり合ってる場所のこと、そういうの。この川もここから一キロちょっと行くと河口があってね、外海につながってるよ」
「あー、じゃあ大井川とかもですか?」
「そうそう、あそこも河口付近は汽水域だね。こういう川の事、釣りの世界ではタイダルリバーって言ったりするんだよ」
「初めて聞いた」
「釣りしたことないと全然わかんないよね。汽水域を好む魚は他にもいっぱいいて、チヌとかマゴチとか、あとは見たことあると思うけどボラもそうだね」
「ボラは知ってます!いっぱい泳いでるやつですよね~」
「うん。でね、ボラもなんだけど、シーバスも淡水に特に強い魚って言われてて、川のかなり上の方まで平気で登ってこられる魚なの。だから堰とか水門がないような川なら、嘘でしょって思うような上流の方でも釣れたりするんだよ」
「へ~、なんかすごいですね。海でも川でも生きられるなんて」
「すごよね。私、シーバスの川や海だけでしか生きられない魚たちより力強い感じ、好きなんだ」
ちょっと恥ずかしいことを言ってしまったように思って咄嗟に深雪を見ると、深雪は真剣なまなざしで私を見つめていた。その真っ黒な瞳の中心は、どこまでもどこまでも底がないほどに深く思えた。
「あ、でね、えっと…。そうだ!シーバスは悪食でも知られてるの」
「悪食?」
「うん。かなりいろんなもの食べるの。海と川を行き来してる分、食べ物って認識できる対象の幅も広いんじゃないかな。海や川の魚はもちろんの事、ゴカイとかイソメみたいな虫も食べるし、カニとか海老みたいな甲殻類からイカを食べてることもあるんだよ。知り合いの釣り人が釣ったシーバスが蛙吐いたって聞いたときはさすがに驚いたけどね」
焦った拍子にいらない説明までしてしまった。私がしゃべり終わると、深雪は、ふふ、と柔らかく微笑んだ。その表情はどこか遠くを見ているようで、そうしてなぜかとても妖艶に感じた。
「じゃあここの魚たちは海や川でしか生きられない魚より得してますね」
「得?」
「だって、海の生き物も川の生き物も食べられるんですよ。海しか知らない子たちより、よっぽどいろんな楽しみを知ってると思いません?」
「た、確かに。美味しいものは他の子たちよりもいっぱい知ってそうだね」
「いいですね、そういう生き方」
「生き方って…」
「波瑠さんはそういうの憧れませんか?」
「えっと…」
深雪が何を言いたいのかよくわからない私は、曖昧に笑ってごまかした。そうしてここに来てから少し喋り過ぎたことに気づき、話題から逃げるようにルアーをセットし始める。ちらと深雪に目をやると、彼女はあの深い瞳で流れる川面を見つめ続けていた。

 

 

平日の二十二時過ぎだけあって、繁華街を縦断するこの大通りを走る車もまばらだった。前に夜の繁華街を車で走るのが好きだと深雪が言っていたので、少しだけ迂回する形で大通りを通っていたのだけど、肝心の深雪は疲れたのか眠ってしまっているようだった。
結局シーバスは釣れなかった。深雪に退屈な思いをさせてもと思い、一時間ほどで切り上げた。

『次はどこ行きます?』

深雪から発せられたその言葉に、私の鼓動は高鳴った。深雪は今日の目的が終ってなお、私と一緒に居たいと思ってくれている。たとえそれが急に空いてしまった時間を有効に使うための暇つぶしだとしてもよかった。少しくらい勘違いしても、罰は当たらない。せっかくならと、お気に入りの堤防に彼女を連れて行った。別に何の変哲もない漁港内にある、何の変哲もない堤防だった。でも私は、そこから見る夕日が好きだった。なぜかはわからないけれど、そこは世界で一番空が低いように思えた。低くて雄大な空と、深くて荘厳な海が溶けあった場所に消えていく太陽は、どこから見る日の入りよりも美しかった。深雪はただじっと、境界が曖昧になった水平線に消えていく太陽を眺めていた。帰り際、深雪のお気に入りだというハンバーグ店に行った。店内はカウンター六席のみで、照明も落とされていて、まるでバーみたいな雰囲気になっていた。あまりこういった店に耐性のない私はおどおどしながら席に着いたけれど、深雪の落ちつきぶりったら大学生になったばかりとは思えないほどだった。店主と顔見知りらしい深雪は彼と親し気に会話をしていた。その横顔は、全く持って大人びていて、何だか私の知らない深雪を見てしまったみたいで、嬉しいような、でも少しだけ悔しいような気持になった。同時にそんな深雪を前にして、私は再びあの感覚に襲われた。もし今の状況を書店のスタッフたちが知ったら?店長が知ったら?そんな考えが脳裏に浮かぶたび、不穏な快感の気配が私の背筋を撫でていった。
『私がおすすめしただけあるでしょ~』
洗礼された雰囲気と違って、良心的な値段のメニュー郡の中から選んだおろしハンバーグを食べた私に、深雪は得意げに聞いてきた。
『もっと値段上げた方がいいくらいだね、これ』
普段の私ならそんな図々しいことを店主の前で言うはずがなかったけれど、思わずそう言ってしまうほどに文句なしの味わいだった。
車窓を勢いよく流れるネオンの群れが照らす深雪の寝顔を見て、胸がぎゅっと熱くなった。今日で、深雪との距離がとても縮まったように思えた。唯一の共通点だった『職場』の中だけで築かれた関係は、どうしても私の中の疑念を取り去るには至らなかった。でも『職場』という共通の世界から一歩踏み出し、お互いのプライベートな世界に招き合った今日、私は勘違いだと言い聞かせて来た今までの彼女との関係を、確信に変えてもいいのではないだろうか。少なくとも彼女はこうして私をお気に入りの店に連れて行ってくれたし、私の世界に興味をもち実際に飛び込みに来てくれた。そうして今は、私に寝顔まで曝してくれている。その事実だけでも、私は受け入れ、そうして素直に喜んでもいいのではないだろうか。突然、深雪が長い息をついた。ふと彼女の方を見ると、眠たげな眼をこすりながら、ダッシュボードのあたりをぼーっと見つめていた。
「おはよ」
「ごめんなさい。寝ちゃってましたか」
「大丈夫だよ。まだ結構あるし、寝ててもいいよ」
「大丈夫です!すっきりしました」
そう言いながらも彼女はまだまだ眠たげな様子で窓の外を眺めはじめた。
「やっぱいいですよね、夜の道って」
「そうだね」
そうして訪れた静寂を、私が心地のいいものとして感じたのは初めての事だった。深雪の睡眠の妨げにならないように最小限の音量に設定した音楽が、心地よく車内を満たす。道路のつなぎ目を通過した振動が、定期的に車を揺らす。時々すれ違う対向車の風を切る音。点灯する歩行者信号。エアコンの送風口からかすかに流れ込む湿ったアスファルトの匂い。そんな何気ない情景たちが、私に決心させてくれたのかもしれない。ずっとためらっていた、でも一度ちゃんと聞いておきたかった質問を、私は深雪に投げかけることにした。
「あのさ、深雪…」
「なんですか?」
私に向き直りそう返す深雪の表情には、一点の曇りもないように思った。
「私は、深雪と一緒に居ること、好き…だよ?」
「え?」
「居心地もいいし、一緒に居てとても安心するというか。でもね、なんで深雪は私と一緒に居てくれるのかな?」
最後の方は、喉の奥から絞り出すのが精いっぱいで、深雪の元へと届いたのか心配だった。深雪はきょとんとした表情で私を見つめていたけれど、ふと、微笑んだ。
「なんでそんなこと聞くんですか?」
「だって、私職場で嫌われてるし。だから私と一緒に居たら深雪まで嫌われちゃうかもしれないでしょ?それなのになんで…」
「波瑠さんのこと好きだからですよ?」
「へ?」
息が吸い辛い。深雪は冗談めかして波瑠さん好きー!なんてすり寄ってくることはしょっちゅうだったけれど、こうして面と向かって真剣に言われると、私の頭は真っ白になった。
「えっと…」
「好きだと思える人じゃなきゃ、こんな風に一緒にいないと思いますよ。てか波瑠さん、もしかして私の事友達と思ってくれてなかったんですか?」
「い、いや、違うの。ただ、ちょっと…」
「私は波瑠さんが好きだから一緒に居るだけ。ただそれだけのことですよ?」
そう言って少し照れくさそうに笑った深雪からは、悪意のあのじも見当たらなくて、だから私は心底ほっとしたし、同時に切なく温かいものが胸の奥からあふれ出してきた。…と同時に、なぜかあの背中をなぜる得体の知れない快感が、身体の奥からふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
「それに、私ああいうの嫌いなんですよね~」
「え?」
驚き、深雪に視線を向けると、深雪は顔を再び窓の外に向けていた。
「ほんとにばかみたい」
「う、うん。ありがとね」
急にとげのある言葉を発した深雪に少し動揺した私は、曖昧にそう返す。
「波瑠さん」
そう言って再び私の方に向き直った深雪は、さっきみたいに微笑んだ。

「殺したいって思ったこと、ないですか?」

「は?」
何を言っているのかわからなかった。ただ、車窓の外で移ろいゆくネオンの光をたたえた彼女の真っ黒な瞳が、当たり前のように私のそばにあったその瞳が、なぜだか全く知らない何かのように思えた。
「だから、あの人たちの事殺したいと思ったことないですか?」
「何言ってんの?」
思わず語気が強くなる。
「だって、あんなのですよ?」
「あんなのって…」
「じゃあ波瑠さんって、人生で一度でも誰かに対して殺意抱いたことあります?」
ふと、自分のあの癖を思い出す。どう返していいのかわからず深雪を見ると、彼女はいまだにあの笑みを浮かべていた。からかっているようには思えなかったけれど、冗談じゃないのだとしたら、怖いくらいに普段通りの表情でこんなことを言ってしまう深雪に、私はどう言葉を返せばいいのだろうか。
「な、ないよ。そんなこと…」
「珍しいですね」
半ば私の言葉にかぶさるようにして発せられた深雪のその声音は、感情が抜け落ちてしまったような、とても冷たいものだった。
「珍しいって…」
再び車窓の方へ顔を向けた深雪の表情は読めなかった。
「深雪はあるわけ?そんな風に思うこと…」
再び訪れた数秒の静寂は、先ほどのそれとは一転、まるで車内の酸素を徐々に抜かれてしまっているような、ねっとりと肺を締め付けられているような息苦しさだった。

「ありますよ。そう思うことも、殺したことも」

再び私に向き合った深雪の浮かべる笑顔は、もはや私が見慣れた彼女のそれとはかけ離れたもののように思えた。

 

 

自分が何か深刻な問題を抱えている時、そんなこと全く知りもしない他人が無神経なほどに明るい声音でべらべらと話しかけてくることほど、私にとって我慢ならないことはなかった。両親と流血沙汰の喧嘩を起こした翌日、喧嘩の最中にやっていたらしい話題のバラエティ番組を見ていなかっただけで大げさな反応といかにそれが素晴らしいかを頭痛がするほど甲高い声でまくし立てて来た同じクラスの岡本沙彩。たいして本気ではなかったけれど、それなりに楽しい思い出をくれた彼氏にふられた翌日、下品でどうしようもないような話題を永遠ふりつづけてきたY店の横山。ファンデーションが粉を吹くほどの厚化粧を施したパートさんに散々嫌味をぶつけられた日、一ミリも興味をそそられない漫画の話を永遠垂れ流し続けてきたO店の砂川。そうして今、園田君は私の心情なんてつゆほども関係なく、変わったお友達の武勇伝を得意げに語っている。どこに笑いどころがあるのか全くわからないので、とりあえず園田君が自分で笑いそうになっているところで私も笑うふりをする。私の作り笑いは効果抜群で、彼はいよいよ気分が良くなってしまったらしい。大物司会者よろしく座席にふんぞり返り、鼻の穴を膨らませながら意気揚々と大音声で唾を飛ばしまくし立ててくる。終わる兆しが全くつかめない変な友人の武勇伝を適当にあしらいながら、私はちらと深雪を見る。深雪はきゃっきゃっと笑いながら時々合いの手を入れて話を聞いているふりをしているみたいだけれど、彼女の手はさっきからずっと緑茶ハイの氷をストローでかき回すという不毛な暇つぶしを繰り返している。その姿は、まさに普段の深雪だった。だからこそ、私は一層深雪が理解できなくなった。
二週間前、人を殺したことがあると言った彼女は、しかしその直後にはあの日私たちが食事をしたハンバーグ店の話題を持ち出してきた。どうしていいのかわからなかった私は提示された逃げ道にすがるようにして話題にのったけれど、その後も彼女からあの話題に対しての説明も弁明もなかった。そうして翌日からは平気な顔して普段の深雪として私に接してきていた。もしあれが冗談なら悪質すぎる。でももしあれが真実だったのなら、私は彼女が打ち明けたそれにどう触れ、向き合えばいいのか。気持ちの整理が全くつかないまま、いつかの園田君との約束を果たすため、私の隣には今日も深雪がいる。
「あ、そう言えばうちの主婦さん、えっと…、ああ、宮木さんって辞めちゃったんすか?」
話題の転換までとにかく唐突で鬱陶しい園田君は、どうやら私に聞いてきているようだった。
「はい、やめましたよ」
「まじか~、結構好きだったのになあ、あの人」
そう言って園田君はグラスに残ったビールを一気にあおった。そのしぐさが妙に腹立たしかった。
「なんでやめたんすか~?」
なんで、と言われても私に答えることはできない。そもそも辞める理由を園田君に言わずに去ってしまったのなら、彼には言う必要がないと判断されたんだってことを、どうして察することができないのか。
「ああ、宮木さん、なんか浮気がばれたっぽいですよ~」
「まじで?」
ぎょっとした。本人からは家庭の都合としか聞いていなかったが、なぜか職場では彼女の浮気が旦那にばれて家庭の危機だ、なんて噂が広がっていた。そんな根拠のない噂がどこから湧いたのかも疑問だったけれど、そんなつまらない噂をあの深雪が口にするとは信じがたかった。
「え?どこ情報よそれ」
園田君の目はさっきよりも輝いているようにみえ、嫌悪感すら覚えた。
「さあ、私はわかんないです」
「え?森さんは?」
「え?いや、ご家庭の事情としか聴いてませんけど」
少し迷ったが、私は宮木さんから聞いた通りの事を伝えた。
「まじか!」
園田君の楽しそうな表情を見て、まずいことをしたと思った。一身上の都合と言えばよかったものを、家庭の都合と言ってしまえば、まるで噂の真実性をほのめかしているようになってしまう。
「え?じゃあ結構まじな噂なんかな」
「いや、そんなことはないと思いますよ」
そう彼に返しつつも、私は自分の中に言い知れぬ感情が湧いてくるのを感じていた。園田君の態度を浅はかだと軽蔑し嫌悪しているはずなのに、私は自分の背筋を這うゾクゾクとした不気味な高揚を感じていた。

 

 

店を出ると、辺りはすっかり夜の静寂に包まれていた。退店後も、園田君の口は一向にふさがれることがなかった。園田君のアパートはこの店のそばにあり、私たちの帰り道とは逆方向に位置していた。だから園田君が店の前から一歩も動こうとせずお喋りをやめない理由もなんとなくわかり、ちらと深雪の方を見ると、ちょうど彼女もこちらに目線をよこしてきた。深雪は少し困ったように眉を寄せ、呆れたように微笑んで見せた。だから私も変に気を遣うことはしなくていいかと判断した。園田君は普通気づきそうな私たちのやりとりが見えていなかったようで、いまだにつまらないお喋りを垂れ流している。
「ごめんそろそろ終電になっちゃう」
「え~、まじっすか~」
「ごめんね。今日は楽しかったです。ありがとうございました」
終電まではまだかなり余裕があったけれど、私は深雪を促し歩き始めた。あまりにつまらない飲み会だったから、最後に嫌味のひとつでも言ってやればよかったかもと思ったけれど、私にそんな勇気はなかったし、私と一緒に歩き始めた深雪の後ろ姿を見せつけることで、十分憂さ晴らしができると気づき、少し気分が良くなった。ちらと後ろに視線をやると、いまだに可能性を捨てきれずにいる園田君がうだうだと店の前で私たちを見つめているのが見えた。私はあえて彼に聞こえそうな声量で、しかし自然であることを意識しつつ深雪に声をかけた。
「美味しかったね~」
親し気に見えるように、口調には十分気を遣う。
「ですね~」
私たちの歩調は緩慢としていて、まだまだ園田君に私たちの声が届く余裕がある。
「そう言えばこの前行ったハンバーグ、また一緒に行かない?はまっちゃって」
「なによりです。じゃあまた連れてってくださいね~」
もう一度園田君の方にさりげなく視線を向けると、ようやく諦めたのか自宅の方へと歩き始めていた。やってしまった後で少しだけ可哀そうな気がしたけれど、それ以上に私は自身の体を駆け巡る得体の知れない悪寒に、言い知れぬ快感を覚えていた。
再度園田君が家路に着いたことを確認した私は、ずっと確認したかったあの日の会話について、深雪に言い出す決心をした。意図はしていなかったものの、幸い話の流れは私に味方していた。
「あのさ…」
「なんですか~」
「この前のことなんだけど…」

「宮木さん、やめて嬉しかったですか?」

「え?」
深雪は酔ってほてった顔に柔らかい笑みを浮かべながら、そんなことを言い放った。出鼻をくじかれたことにももちろん少しいらだちを覚えたけれど、それ以上に深雪から発せられた言葉の方が癇に障った。
「な、なんで?」
「あの人、波瑠さんにだけ態度悪かったじゃないですかあ」
「だからって…」
「波瑠さん、宮木さんの話題になった時、嬉しそうにしてましたよ?」
「は?」
そんなことを言ってしまえば、あの噂を持ち出したのは深雪の方だった。大体なんで深雪は私にこんな好戦的な態度をとるのか。あの日、深雪との距離が縮まったと思い喜んでいた私は、しかし深雪の得体の知れない一面まで覗いてしまった。そうして徐々にかみ合わなくなってきたずれが、いまになって完全に外れたような気がした。
「なんなの?私なんかしたわけ?」
「別に何もしてないですよ~」
「は?じゃあ何?理解できないんだけど」
「まあ、そうなりますよねえ」
そう言う深雪は相変わらず柔和な笑顔を浮かべていて、それが私の気をいっそう荒立てた。
「は?どういうこと。なんで私にそんな態度とるわけ?」
「いつも通りだと思いますけど~」
「どこが!言ってくれなきゃわかんないじゃん。私深雪になにかした?」
頭が痛くなってきた。本当に今の深雪の態度の原因が私にあるのなら、そうしてもし彼女が私を友人として認めてくれているのなら、彼女は私にその原因を伝えてくれるべきではないのか。彼女がそうしないと選択しているのなら、すでに私との関係は破綻していいと思っているということ。
「なに?真意がよくわかんないんだけど。深雪はどうしたいの?」
「好戦的な態度を取ったのは波瑠さんのほうじゃないですか?」
「わたし?」
「あの日から、私とちょっと距離置いてますよね?」
「だってそれは…」
それは確かにそうだった。けれどそれは深雪が冗談にしては悪質なあんなことを言った挙句、何の説明もないままにはぐらかしてきたからだ。
「私が言ったこと、気にしてましたか?」
「だって!冗談にしてもちょっとやりすぎよあれ!」
「それで距離を」
「当たり前でしょ!せめてどういうことだったのか説明してくれるくらい」
「波瑠さん、嘘じゃなかったんですか?」
「は?何のこと?」
「殺意を抱いたことがないって」
「話そらさないでよ」
「それてないですよ」
そう言い放った深雪の声音はあの時と同じ、感情がすっぽりと抜け落ちしてしまったみたいな、冷たいものだった。それでも彼女の顔には柔和な笑顔が張り付き続けていて、背筋を冷たい何かで撫でられたような怖気が走った。
「誰かを殺したいって思ったことのない人、いないと思ってましたけど」
「そんなこと…」
「じゃあ宮木さんの話題になった時、嬉しそうにしてたのはなんでですか?」
「関係ないじゃないそれは。それに私は嬉しそうにしてたわけじゃ」
「人の不幸はなんとやら、ですよ」
「だから私は…」
「人の不幸を笑う人が、自分は殺意なんて抱いたことないって言っても、説得力ないですけどねえ」
「いい加減にして!」
自分でも思わぬほど鋭く放たれたそれは、住宅街いっぱいに響き渡った。深雪は少し肩を震わせ、足を止めた。
「まあ何でもいいですけど」
「何でもいいって…」
「私はこれからも波瑠さんの友人でいたいことに変わりはありませんよ」
思いのほか温かい声音でそう言われた私は、どうしていいのかわからず、ただ茫然と彼女の顔を見つめた。
「じゃあ私はこれで。明後日シフト被りますよね?じゃあまた」
そう言って深雪は歩き始めた。駅まではまだ少しあったけれど、今日はこれ以上彼女と一緒に居たいとは思えなかった。私は遠ざかっていく彼女の背中を、ただ茫然と見つめていた。これは違う。こんなのは間違っている。私の頭の中には、そんな言葉がひたすら巡り続けていた。

 

 

これは違う。こんなのは間違ってる。深雪に対する明確な憎悪を抱いたのは、今日が初めてだった。
あの飲み会の後、私はどうすればあの釣りの日以前の深雪との関係に戻れるのかをひたすらに考え続けた。しかしどう考えても、あの日以降の彼女の私に対する言動を理解することが出来なかった。しかも彼女は私との親交をまだ続けたいと言っている。でも私は、うわべだけ取り繕った関係のままでいるのは我慢ならなかった。もう一度、今度は理性的に彼女と話し合う必要がある。今日その約束を取り付けよう。私はそう決意した。深雪は遅番だった。早番の私が彼女と被ることが出来るのは一時間だけ。その間になんとか彼女に約束を取り付けようと思っていた。しかし深雪は、出勤してからというもの、あからさまに私を避けていた。何より癇に障ったのは、店長とのやりとりだった。彼女はまるで私に見せつけるかのように、店長と親し気に話をしていた。私に見せてくれていたあの可愛らしい笑顔を、あの店長に向けていた。
退勤時間を記録するタブレットに自身のIDを打ち込む。収まらない怒りをぶつけるようにロッカーの扉を勢いよく開ける。ロッカーの中から香る埃とカビの匂いが鼻をついた。少し冷静になろうと深呼吸する。ふと、控室の扉が開く音がした。入り口をみると、最近入ってきた学生アルバイトの古谷君だった。彼もこちらに気がついたのか、少し気まずそうに会釈した。
「あ、お疲れ様です」
「お、お疲れ様です」
私がそう返すと、彼はそそくさとタブレットを操作し、ロッカーから荷物をとり足早に出ていった。まだ数日しかシフトに入っていないのに、もう私に対しての態度を決めたのか。何だか腹が立ったけれど、そのおかげで少しだけ深雪に対して抱いていた怒りが収まり、冷静さを取り戻すことが出来た。別に彼女がここを辞めるわけではない。今日じゃなくても、彼女との約束を取り付けることなんていつでもできる。直接話したかったけれど、別にラインで約束を取り付けることだってできる。何も直接口頭で伝えることにこだわらなくても…。今日の夜にでもラインを入れればいい。落ち着きを取り戻していくことを感じつつ、私はなるべく深雪に近づかないようにして店をでた。

 

 

深雪からラインが来たのは、その夜の二時をまわった頃だった。

『今から家に来てもらうことできますか?』

今度少し話がしたい。私が送ったのはそんな簡単なラインだった。それだけに深夜の二時に急に会いたいと言われた私は動揺した。普通に考えれば、彼女も私との関係をもとの正常なものに戻したいと思ってくれていたということ。しかもこんな時間に急に逢いたいと言ってくれたということは、彼女も早急に私との関係を修復したいと考えていたことになる。それは私の望んでいたことでもあった。けれど私は素直に喜べなかった。考えすぎかもしれないけれど、私にはもうひとつだけ考えられる可能性が浮かんでいた。店は二十三時には閉まる。もし深雪が前者の考えを持っていたとしたら、スマホの充電がなくなっていたり店に置き忘れたスマホを取りに帰っていたりとイレギュラーな事態を想定したとしても、連絡は少なくとも一時くらいには来ているはずだ。それなのに連絡は今になって来た。もちろん深雪が何かしら思い悩んだ末の連絡だったのかもしれない。でも、今日の遅番には店長がいる。嫌な予感がした私は、深雪にすぐに行くと返信をして、急ぎ家をでた。

 

 

深雪の指示通り車をアパート前の路上に駐車し、足早に深雪の部屋へと向かう。焦る気持ちを抑えながら彼女の部屋のインターホンを押す。少ししても反応がなく、いてもたってもいられずノックしようとしたとき、ドアが開かれた。部屋から流れ出してきた冷気が七月の蒸し暑さに熱せられた肌を心地よくなでる。
「あ、波瑠さん、お疲れ様です~」
部屋から出て来た深雪にはいつもの柔らかい笑顔が浮かんでいた。別段変わった様子もなく、最悪の想像が杞憂に終わったことに安堵すると同時に、前者の想像が確信に変わり、暖かな気持ちが溢れてくる。
「すみません急に呼び出しちゃって~」
「大丈夫だよ、お邪魔します」
深雪に案内され、部屋にあがる。玄関と内部を仕切る扉を開けると、キッチンと洗濯機が目に入る。キッチンと通路を挟む形で、風呂とトイレと思われる二つの扉が併設されていた。キッチンを抜けると、十畳ほどのスペースにベッドや本棚、テーブルが設置されていた。勉強机のようなものはなく、テーブルの上にはコーヒーカップが一つ置かれているだけで、どこで勉強してるんだろうと変なことを考えてしまった。
「適当に座ってください。何か飲みます?」
「あ、じゃあお茶もらおうかな」
「りょーかいです」
テーブルをはさんでベッドの反対側に座ると、何か甘いような、でも決して心安らぐようなものではなく、鼻の奥をチリチリと刺激する嫌な感じの匂いがした。辺りを見回すとホワイトムスクの芳香剤が置いてあったけれど、それは私もよく知っているもので、こんな匂いを発するものではないと思った。じゃあ柔軟剤か香水かとも考えたけれど、そんなどうでもいい匂いの原因探しなんてしている場合ではなかった。
「お待たせしましたあ」
そう言って深雪は私の前にカップを置いた。深雪はそのまま私と対面する形で座り、机に置いてあったカップを手に取った。
「すみません急に呼び出しちゃって」
「大丈夫だよ。えっと…」
何かあったの?そう言いかけて、先にこちらから会えないかとラインを入れていた手前、どう切り出していいのかわからず、言葉に詰まった。深雪が会話を始めてくれないかと、ちらと彼女を見てみたけれど、彼女はカップのふちをいたずらに指で撫でまわしていた。
「あのさ、呼んでくれたのって、話し合うためかな?」
意を決して切りだす。
「そおですねえ。ちゃんと話し合わないとなって思ってましたから」
胸をなでおろす。しかしいざ面と向かうと、何から話していいのかわからなかった。私は彼女の何を知りたくて、何をしてほしいのか。
「ずっと気になってたんですよね?」
深雪にそう言われ、心臓に鈍い痛みが走る。その後に続く言葉はきっと『あの日のこと』。私は確かにあの日彼女の言ったことの真意を知りたかった。でも身勝手なことに、ここにきて私は彼女から告げられるであろうあの日の会話の真相を、知りたくないとさえ思っていた。知ってしまえばもう元には戻れないようなそんな気がしていた。あれほど胸に引っかかっていたことなのに、おかしな話だ。私の沈黙を同意とみなしたのか、彼女は再び口を開く。
「冗談だと思いました?」
「えっと、それって…」
「人を殺したことがあるって」
再び彼女の口から発せられたその言葉に、息がつまる。ふと息をつくかのように、彼女の口から笑いが漏れた。

「本当ですよ、それ」

自分が今どんな顔をしているのかわからない。それに、どんな表情を彼女に向けるべきなのかもわからない。ただ一つだけ、動揺が顔に出ないように、それだけをひたすらに意識した。信じられない。深雪は冗談で私をからかうことは多かったけれど、こんな悪質な冗談を言う子ではない。そのはずだし、そうであるべきだった。彼女は本当に、人を殺した?
「驚きました?」
「だ、だって…」
痰が絡んで、声が上手く出ない。彼女はごく平然と、いつもと変わらぬ声音で、微笑みで、私にそう問いかけた。綺麗だと思っていたあの深い深い彼女の瞳が、あの日のように、何か得体の知れぬおぞましいものに思えた。
「二人、かな。ああ、三人になったのか」
「な、なに言ってんの?」
「そんな目で見ないでくださいよ~。私の事を知りたいって言ってくれたのは波瑠さんでしょ?」
「そ、そうだけど…」
「気が変わりました?」
そう言った時の彼女の顔は、どこか悲し気で。ふと、これは私の方がとんでもない勘違いをしているのではと思った。私は彼女の言葉を聞いて、明確な殺意による殺人、と決めつけていた。だけどもし彼女が、友人の自殺を止められなかっただとか、目の前で大切な人が事故にあっただとか、そんな経験をしてしまって、だから自責の念から私が殺したと言っているのでは?私が理解できていなかっただけで、彼女は感じやすく、抱え込みやすい性格だったのだとしたら。普通なら他人に起きた悲しい悲劇だとしか思えないようなことを自分のせいだと認識してしまう彼女が、不運にも何度もそんな状況に見舞われていたとすれば。とすれば私は、彼女に寄り添ってあげるべきなのでは?これまで勝手な勘違いでとってしまった数々のとげのある態度も謝罪するべきでは?私は彼女の事を、全く見ようとしてあげていなかったのかもしれない。今まで霧のように心の中に滞っていた感情がすっと晴れたと同時に、彼女にたいして罪の意識までもが生まれた。そうしてなぜか私は、温かい気持ちに包み込まれていく自分を感じていた。
「だ、大丈夫。ごめんね、続けて」
「ありがとうございます。波瑠さん、やさしいですね」
そう言って笑う深雪の表情は儚げで、私は今すぐにでも彼女を抱きしめたくなった。

「そんな優しい波瑠さんに、私からのささやかなお礼です。私の事知りたいって思ってくれたことへの感謝も込めて」

そう言って深雪は私に自分のスマートフォンの画面を見せた。真っ暗な画面に再生マークが表示されていることから、何かの動画と言うことは分かったけれど、深雪がなぜ私へ唐突にこんな行動をとったのか理解できなかった。深雪が再生マークをタップする。
「音小さいかな」
彼女はそう言って、音量をマックスまで上げる。途端、破裂音のような音が響き渡り、肩が震えた。
「ごめんなさい。ちょっとでかすぎましたね」
申し訳なさそうに微笑み、彼女は再び音量を下げる。その後も真っ暗な画面からは断続的に破裂音のようなものが聞こえる。どうやらこのスマホはカバンかどこかに入れられているようで、立て続けに聞こえる破裂音のようなものはおそらく深雪か誰かがスマホを覆う何かに触っている際に生じている音らしい。注意して聞いてみると、常時聞こえている空調のような音と、わずかだけれど等間隔にカツカツと聞こえる足音の様な物、そうしてくぐもった、おそらく人の声と思われるものも聞こえた。どういうことかよくわからず深雪を見たが、彼女は黙ったままひたすらに画面を見続けている。仕方なく私も再び画面に注意を向ける。
扉を閉める音だとはっきり理解できるそれを聞いたとき、同時に空調のような音が消え、足音も等間隔ではなくなった。部屋か何かに入ったのだと分かった。ひときわ大きな音が響き、スマホを入れた物体がどこかに置かれたのがわかる。チャックを開けるような音がしたと思うと、急に音声に奥ゆきが出たように感じた。どうやらこのスマホはカバンの中に入っていたようで、そうして今口をひらかれたことによって外の音を先ほどより鮮明に拾えるようになったらしい。ようやく何が起きているのかがわかる。そう期待したけれど、画面は一向に暗いままだった。代わりに鮮明に聞こえるようになった音声のおかげで、どうやら先ほどから男女が何かを話していることが分かった。じっくりと耳をすます。胸騒ぎがしたけれど、聞かずにはいられなかった。深雪が音量を再び上げる。聞き覚えのある声に、言い知れぬ不安を感じた矢先、それが深雪と店長のものであることを確信した。全く理解が出来なかった。店長と深雪が二人で何を?そしてなぜ深雪は私にこれを見せる?この先何が起こる?わからないことだらけで、一度深雪に何がしたいのかを聞こうと顔を上げようとしたとき、私ははっきりと、あの淫猥な店長のおぞましい声音で放たれた言葉を聞いてしまった。
『まじでいいの?』
店長は余程興奮しているらしく、こんな録音状況でさえ、息の粗さが伝わってくる。
『もう、何回も言ってるじゃないですかあ』
そしてその声は、まぎれもなく深雪の、しかも私に向けられるような、危機感のない、むしろ状況を楽しんでいるような呑気なものだった。
『まっじかよ』
『もう、慌てすぎですよ~』
店長の聞くに堪えない粗い呼吸に交じり、金属のようなものがガチャガチャとぶつかり合う音がする。
『うわもうこんな。エロいね~』
そう言っている店長の表情までが想像でき、吐き気がした。
『じらさないでください』
考えがまとまらなかった。何が起きているのか、深雪は一体何がしたいのか。この子は一体なんなのか。わからないことだらけだったけれど、一つだけ、この先に待ち構える展開だけは容易に想像が出来、だから私はそれをどうしても聞きたくなかった。なかったのに、私は画面から目を離すことが出来なかった。深雪のものと思われる甘い吐息が漏れた。
『うおやべええ』
布同士がこすれるような音が等間隔に聞こえてくる。時々小さな衝撃音のようなものがするのは、きっと机の上で行為に及んでいるから。衣擦れの音に交じって、深雪と店長の吐く息の音が小気味よく響くが、しかしそれはわたしの耳にはねっとりと、不快な温度をおびてまとわりついてくる。
『気持ちいですか?』
『そんなこと聞いちゃう?エッロいなあ』
『もう』
『うそうそ。すげえ気持ちいわ』
吐息に代わり、深雪の甘い声が等間隔で聞こえ始める。同時に、がさがさとカバンを探る音が響く。黒い画面が揺れ、途端に明るくなるが、しかしまだ視界の半分ほどはさえぎられ、全体としてもぼやけている。スマホを手にしたことは分かったが、それでもなお、深雪は何かを探しているようだった。その間も店長は気色の悪い言葉を並べたてながら深雪を蹂躙し続けている。急に視界が目まぐるしく回転を始めたようだった。スマホを取り出したのが分かった。深雪はカバンにスマホを立てかけたようだった。自撮りモードにしてあるのか、画角は完璧だった。私たち職員が毎日のように使っている控室だった。照明は消してあったが、ロッカールームの明かりがつけてあるのか、部屋の中は輪郭こそ不安定なものの、何が起きているのかを知るには十分な光量に満たされていた。
見たくない。そう思ったと同時、私ははっきりとカメラに映る二人の姿を見てしまった。欲望をむき出しに、あの悪習を放つ口から怖気のする荒い息を吐き深雪に覆いかぶさる店長。懸命に腰をふるたびに、画面が揺れる。あんまり夢中で深雪をむさぼるせいで、彼は深雪の一連の行動にも、カメラの存在にも気づいていないようだった。そして、そんな店長のしたで、まるで死んだふりをする蛙のように足をおおっぴらに広げ、されるがままに彼を受け入れる深雪。店長の腰がふりぬかれるたび、彼女の白い太ももが揺れる。ふと、深雪がカメラに視線を向けた。その顔は、笑っていた。いつもと変わらぬ笑みであるはずのそれを見て、私は崖の上に位置する山道の淵に立った時のような、言い知れぬ恐怖に襲われた。途端、カメラの前を何かが横切った。深雪の手、だったのだけど、その手に握られたものが何かを理解すると同時に、それは勢いよく店長の脇腹に吸い込まれていった。包丁だった。何が起きたのかわからなかった。それは画面の中の店長も同じだったようで、それが脇腹に深くつきたてられたにもかかわらず、彼は数回腰をふった。しかしその動きは見る見るうちに弱々しくなり、四度ほど惰性で続いたそれは、突如として打ち切られた。代わりに店長は、人間から発せられたとは思えない音を出し深雪の上に頽れた。それは悲鳴と言うよりは、思い切り息を吸ったのに気管が締め付けられたせいでうまく呼吸ができなかったような、そんな印象を受ける音だった。深雪は自分の上に崩れ落ちてきた醜い肉塊の髪の毛をわしづかみにしながら、もう片方の手に持った包丁を勢いよく抜き取った。薄暗くて患部はよく見えなかったけれど、深雪が抜き取った包丁が薄暗い映像の中でも一段と濃い闇をまとっていたため、おおよそ患部がどんなことになっているのかも想像がついた。
『おーもーいー』
深雪は、普段と何ら変わりない声音でそう言った。そうして少し鬱陶しそうに店長の体を押しのけると、彼はあっけなく床に転がったようだった。
『映ってたかな?』
スマホの画面いっぱいに、深雪の顔が映し出される。観光旅行にでもきたかのような行動だった。スマホを手に取り確認すると、彼女は少し自分の前髪をいじった。
『なにこれ?』
不思議そうな声で彼女はそう言い、髪の毛の先端でぬらぬらと輝く何かを見ていた。
『うわきたな』
そう言って彼女は前髪についた何かを指でつまんだ。彼女の指にまとわりつき糸を引くそれは、おそらく店長の痰か鼻水の類いだった。
『うえ~』
彼女はそう言うと本当に嫌そうな表情を作り、それをどこかに拭ったようだった。
『さて、波瑠さん見てるかなあ』
唐突に出て来た自分の名前に、肩が震えた。
『じゃ~ん。店長ですよ~』
スマホには、地べたで小刻みに震える店長が映し出された。彼の周りはひときわ闇が濃く、それが彼からあふれ出る血液だというのに気づくのも、そう時間はかからなかった。むき出しになった臀部は、いかにも彼のものと納得がいくほど汚らしかった。店長は気管に何かつっかえてしまったかのように浅い息を繰り返していた。
『苦しそうですね。ちょっと待っててください、息しやすくしますね』
直後、スマホの画面がまた目まぐるしく反転する。何かを探す音が聞こえ、再び店長を映し出す。深雪が屈んだようで、店長の醜い、苦痛に歪んだ顔面が映し出される。
『あ~、動かないでくださいよ~』
そう言うと同時、深雪の腕が店長の喉元のあたりに突きつけられた。店長の口から嘔吐した時のような音がもれた。深雪の手には、ボールペンが握られていた。彼女が彼の喉に突き立てたボールペンを抜きとると、細く弱々しい血の柱が飛び上がった。それはまるでチープなおもちゃの噴水の様だった。続いて深雪は彼のむき出しになった下半身を映し出した。苦しみにもだえ乱れる両足の間には、意外にも軽い硬直状態を維持したそれがゆれていた。深雪は別段何も言わず、かろうじて硬直状態を維持していたそれの下でだらしなくたるんでいる精巣につま先をかけた。直後、彼女はためらう様子なくそのつま先に全体重をかけたようだった。獣のようなうなりが聞こえた。肉の塊が二、三度激しくのたうち回ったかと思うと、すぐにおとなしくなった。代わりに肉塊は小刻みに震えていた。痙攣しているのだと分かった。人間が痙攣する姿を見るのは、意外にも初めてだった。
『いい感じに撮れたかな?』
深雪の声は、事ここに至っても普段と何の変りもないものだった。
『じゃあ波瑠さん、そろそろ終わりますね』
そう言うと深雪は店長をまたぐ形で彼の上に移動したようだった。店長の表情は怯えているようにも見えたし、ただただ苦痛に顔を歪めているだけのようにも見えた。深雪は特別何か言うわけでもなく、店長の心臓辺りに包丁を振り下ろした。そうして柄の部分まで入り込んだそれを放置したまま、再度店長の全体像を映すと、カメラを反転させ自分の顔を映した。
『どうでしたか?スマホ汚れちゃったし、とりあえず切りますね~』
深雪は最後まで、何ら変わりない普段の深雪だった。動画は終わり、最初の真っ暗な再生画面に戻っていた。
「嬉しいですか?」
深雪が問いかけてきたその声を、私はなぜか邪魔だと感じた。よくわからないが、私は一種異様な余韻に浸っていた。それを遮ることは、深雪でさえ許されていいものではないように思った。次に私を襲ったのは、こみ上げてくる笑いだった。面白かったわけでも、深雪に対して恐怖を感じていたわけでもない。ただ、自然と笑いがこみ上げてきた。お腹の底から湧き上がるそれにひとしきり身を任せた。一通りの不可解な現象に身を任せ、満足すると、私の中には静寂が訪れた。
「どうするの?」
自分でも驚くほどに、冷静な声音だった。
「ここにはいられないですね~」
「行く当ては?」
う~ん、と言って彼女は考え込むそぶりを見せた。
「前はどうしたの?」
「前?」
「他のふたり。さっき、三人になったんだって言ってたから」
「うまくやりすごしましたよ~」
「どうやって?」
「知人の家を渡り歩いたり」
「死体は?」
「そのまんまですね」
「防犯カメラとか、店内のデータとか」
「全部そのままですけど、大丈夫だと思いますよ」
「なんで?」
「私は存在しない子だから」
「どういうこと?」
「戸籍が無かったりして」
そう言って彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべる。突っ込む気はなかった。今の私は、彼女ならそうかもしれないと容易に受け入れることが出来た。
「じゃあ、とりあえず深雪は警察に見つかりさえしなければ、彼らは何もわからないままってことが言いたいのね」
「まあ、そんな感じですね」
「わかった」
体が自然に動いた。本能のままに動くとは、こういうことを言うのだと思う。私の体は、まだ私の思考が追いつくことのできない、私の最も深い領域内で下された決定に追従しただけのようだった。
私は両手で思い切り彼女の肩を掴み、背後にあったベッドへ押し倒した。体重の全てをかけるようにそうしたものだから、自分もまた深雪の上にかぶさるようにして倒れ込んだ。深雪は少し驚いたように、深い深い真っ黒な海を内包した瞳を大きく開き、私を見つめていた。でも口元はやっぱり微笑んでいるようだった。けれどそんなことはどうでもよかった。私は深雪の唇に自らの唇を重ねた。それは決して愛のある速度ではなかった。強引に舌を突っ込んだつもりが、深雪はそれを受け入れた。何度も舌を絡ませるつもりはなかった。私は早々に唇を離し、代わりに自身の指を彼女の口内へと押し入れた。生暖かくぬめりを持った彼女の内部が、私の指をからめとった。私はそのまま指に触れるすべての部分を荒々しく弄んだ。いや、強姦したと言った方が正しい。深雪は胸や腹のあたりを波のうねりのように激しく脈打たせていたが、しかし抵抗することはなかった。私は左手を深雪の口内に残したまま、右手で彼女のワンピースの裾をたくし上げた。そのまま彼女が身に付けていた下着をはぎ取り、ビーズほどの塊に指を押し当てた。その際彼女の局部が、滴らんばかりの潤いを帯びていたことに少し動揺したものの、私が私を人間たらしめるものを取り戻すには至らなかった。私は暴力的な速度と力強さで彼女のそれをなぶった。彼女は一層激しく波打ったが、しかし両足は見事なまでに開かれ、私を受け入れていた。彼女の両足は店長との行為中とは比べ物にならないほどに開かれているように感じた。私は、私の手中で悶え苦しみながらも忠実に私を受け入れ続ける彼女をいたぶる手に、一層の力を込めた。私は左手の指を、彼女の喉の奥、物理的に到達可能な最深部まですべりこませ、指の腹に目いっぱいの力をこめ内側から彼女を突き上げた。人的に引き起こされる嘔吐は、生理現象として引き起こされるそれとは次元が違う音量をともなった。彼女の顔は涙と鼻水と吐瀉物で目も当てられないものになっていたが、その姿は私の体に一層力を与えた。私は彼女の陰核をいたぶっていた右手をとめ、それを彼女のぬめりを帯びた内部へと勢いよく挿入した。あまりにすんなりと受け入れられた指は、瞬く間に最深部まで到達した。私はその指を力の限り動かした。その動作は、家具の隙間に落ちてしまったものを苛立ちながら荒っぽく探している時の、いらないものまで全てを手荒にかきだそうとするときのような、そんな激しいものに似ていた。手入れを怠った爪の先が彼女の肉壁につっかえるたび、彼女の腰は一段と高く跳ね上がった。彼女から終始漏れるうめきはいよいよ悲壮感を増していた。喉の奥から詰まり切った排水溝のような閉塞感を帯びた音が発せられるたびに、私の攻撃は速度と威力を増していった。
どれほど続けたのかわからない。突然深雪の喉がひときわ大きな音をならしたと思うと、彼女の胸が二、三度大きく跳ね上がり、そうしてぱったりと動くのをやめてしまった。注意してみれば、動かなくなったわけではなく、およそ人間の体に起こる現象とは思えぬほどの小刻みな震えが彼女を襲っていた。私はようやく手を止め、それを深雪の体から抜き去った。両手には深雪の体液が執拗なまでにまとわりついていた。深雪の顔を見ると、彼女のもまた、長く自分に対して行われていた行為の突然の中断に驚いたのか、私に目を向けたところだった。彼女の目はあらゆる彼女の体液に汚され、半分ほどしか開いていなかった。彼女の瞳はもの言いたげな様相を呈していた。私は彼女の胸の上にまたがった。彼女の首に左手を軽く添えた。彼女は私の目を見つめていた。私は右手を握り締め、大きく振り上げた。彼女の目が細められた。彼女の瞳は、『私を支配してください』と懇願しているように見えた。

 

 

九歳の時、同じクラスのしほちゃんの足に一生消えない傷跡が残った。近所の漁港内にあった、漁船を陸から海へと下ろすためにスロープ状になった場所で遊んでいる時だった。ちょうど干潮のころ合いで、普段は海の中にある部分まで歩いて行けるようになっていた。跳ねた小魚に興味を持ったしほちゃんは、海苔で滑りやすくなっているその場所へ勢いよく足を踏み入れ、バランスを失った。ふくらはぎからなみなみと血を流し呆然とするしほちゃんを見て、なぜだか笑いがこみ上げてきた。
十歳の時、同じクラスのゆうま君が頭を打って大けがをした。休憩中、ゆうま君たちのグループは、彼を含めた数人がランドセル用のロッカーの上に座り、他の数人がロッカー組の足を引っ張って落としたら勝ち、なんて小学生らしい遊びに興じていた。しょうた君は、羽目を外し過ぎてしまった。手に持ったゆうま君の足を、手加減なしに引っ張ってしまった。鈍い音の後、教室にはしばしの静寂が訪れた。女子の誰かが悲鳴を上げたのを皮切りに、教室は大騒ぎになった。幼いながらにも、私はこういう時笑ってはいけない、笑ってしまうのはおかしなことだということが理解でいていた。だから私は、こみ上げる笑いを必死にこらえた。
十二歳の時、私の太ももがさけた。私がクラスの恩田君を好きになったからだった。母親は、事あるごとに私の太ももを物差しで叩いた。これは神の愛だからね、が決まり文句だった。母親は世間からカルト教団と言われるほどの怪しげな宗教の信者だった。信者以外の人との交際を禁止していた教団の教義に背いた罰だと言われた。あんまりひどくたたき続けたものだから、リビングの至る所に私の血が飛び散った。その夜、まだ痛む太ももをみつめながら、笑いがこみ上げてくるのを感じた。
十四歳の時、首を吊ろうとした。近所にあったゲートボール場の、物置の中の梁にビニールひもをかけた。ベンチ代わりの瓶のケースを踏み台にして、首をかけた。でもどうしてもケースを蹴り倒す勇気がでなかった。諦めて瓶ケースに腰掛けた私は、なぜだかやっぱり笑っていた。
十五歳の時、両親を本気で殺そうと思った。両親の車の前を通るたびに、ぼんやりと光る銀色のブレーキペダルから目が離せなくなった。小さい頃に観た小学生の探偵が活躍するアニメの手口を、本気で実践できると思っていた。救いを求めて信仰にすがった母親は、救いようのない人間になり果てていた。父親は、よくわからない人間だった。母親と口をきいているところを見たことはなかったし、私と口をきいてくれたことはおろか、目を合わせてくれたことすらなかった。母親は確かに私の存在を必要としていた。でも母親にとって必要なのは、自分の思い通りに育ってくれる私。訳の分からない宗教の教義を守り、信者として立派に育つ私だった。でも私は死んでもそんな風になりたくはなかった。利害は一致したと思った。両親にとって私は必要ないし、私にとって両親は障害でしかなかった。だから殺そうと思った。結果として私は、ブレーキに細工するなんて難しい方法はとらず、料理用の包丁をふりまわすなんていう原始的な方法で両親に襲い掛かった。きっかけは何だったかよく思い出せないけど、ある夜母親に言われた何かが私の中の最後のタガを見事に外してくれたんだったと思う。気が狂ったみたいに、と言うか多分気が狂った私は包丁を振り回し続け、気がつけば母親が投げ飛ばした結構大きめの椅子に弾き飛ばされ、食器棚に頭を突っ込んだ。だから私のおでこには、今も消えない小さな傷が残っている。傷を触った手についた血を見た時、笑いがこみ上げてきた。
十六歳の時、忘れられない出会いを経験した。何でそうしようと思ったのかわからないけれど、私は手首を切った。ゲートボール場での一件の後、自分には死ぬ勇気すらないことを理解していた。だから死ぬ気はなかったんだと思う。かといって、誰かに見せてかまってほしい、なんて感じでもなかった。そんなものを他人に見せた時、その人は私の事をどう思うだろうかなんて考えたら、見せようとは思えなかった。だったら何で切ったのか。そんなことはわからないけれど、じんわりと腕に感じたその熱は、私にほんの少しの間だけ安らぎを与えてくれた。じんわりとした痒みと熱を伴う痛みを感じた私は、笑っていたように思う。それはしばらく私の習慣になった。
二十一歳の時、目の前で女性が電車にはねられた。私は少し離れたところからそれを見ていた。それは私が乗るはずの電車だった。ホームに入って来た電車に向かって、女性は吸い込まれるように倒れ込んだ。女性が飛び込む気だったのか、ただ身体に何か問題が起きて倒れてしまった先に電車が来たのかはよくわからなかった。すでにホーム内に侵入していた列車の一部に、女性の頭が接触したように見えた。鈍く嫌な音がホーム内に響き渡った。人が頭をぶつだけであんなに大きな音がするのかと驚いた。構内の異常を知らせるベルが響き渡り、数人の客が彼女の周りに駆け寄った。私は咄嗟に反対側のホームに停車する電車に飛び乗った。車内は事態を察した乗客たちの発する何とも言えない空気感が充満していた。何分経っても電車は動こうとしなかった。あからさまにいらだちをあらわにする人間もいれば、心配そうにホームの方へ視線をやる人、無関心に読書を続ける人もいた。そんな車内の中、私はこみ上げてくる笑いを抑えることに必死だった。
いつだってそうだった。大変な事態に遭遇したとき、私は何故か笑いがこみ上げてくる。でもそれは気が狂ったとかそう言う類いのものではないように思う。なぜかはわからなかったし、深く考えようともしなかった。原因がわからないものを根本から見つめ直すことはできないし、わからないのなら問題自体をなかったことのように押さえ込んでしまえばいいだけだった。そっちの方が楽だった。だから私は考えるのを辞めた。ただ私は、不謹慎な場でこみ上げてくる笑いをこらえる術だけ身に付ければよかったのだから。幸い、演技は得意だった。誰からみても普通の人間に見えるように自分自身を殺す。逸脱した人間から産み落とされた私がそうした術を身に付けるのは、ごく自然なことだった。私は鏡みたいなものだった。所詮私は私の思う普通の人間にはなれない。根本から全てが違うのだから。だから私は、鏡になった。人の感情を読むのも、その場の雰囲気を読むことも得意だった。私を囲む人間のうち、最大多数が最も求める態度、意見。私と言う鏡は、それを映し出した。その場では最大多数に入れなかった人の意見にも、私は賛同した。もちろん二人きりになった時だけれど。そうやって私は相手の求める姿を私と言う器に投影した。そうしているうちに、私は自分自身の考えで行動するという当たり前の行動をとることができなくなった。だからこそ私は、唐突に現れる破壊的なビジョンも、他人の不幸に対して湧き上がる笑いも、もっと大切にしてあげるべきだった。わからない、どうでもいい。そんな言葉で簡単に片づけてしまうべきではなかった。よく考えてみれば、それらは私が私の意思で抱いくことの出来た感情の賜物だったのだ。その点でも私は、深雪に感謝をしなければならない。
二十八歳の秋、私は深雪の首を絞めている。深雪の顔はあのほの白く可愛らしいものとは似ても似つかないほどに、どす黒い紫色に染まっている。まるで腐り落ちてしまったトマトみたいだった。深雪は一切抵抗しない。私にされるがままに身をゆだねる。シーツの裾を掴む彼女の指に一層力が込められたのがわかる。膝のあたりにぬくもりを感じ、彼女が放尿したことに気づく。買おう買おうと思っていたペット用の尿シートを、また買い忘れていたことに気づいた。が、もう遅かった。まあ、洗えばいいだけの話だった。深雪の首から手を放す。せき込む彼女の首筋は醜くうっ血している。
私は深雪に感謝しなくてはいけない。最大限の感謝を。彼女のおかげで私は気づくことが出来た。私は他人の醜態を、他人に降りかかる災難を、何よりも愛していたということに。とても善良で可愛らしかったゆきちゃんの足の傷も、クラスの人気者だったゆうま君が頭を打ち付けたあの音も、暴力を悪いことだと教えていた教団に心酔していた母親が、あろうことか娘の太ももや額に残した傷跡も。彼らの醜態は、不幸は、私にとってとても愛おしいものだった。こみ上げる笑いも、浮かび上がる破壊のビジョンも、私はもっと早くから愛してあげるべきだった。いや、どこかで気づいてはいたんだと思う。でもそれを愛していると認めてしまえば、私は非常に醜い人間になってしまう。他人の不幸を悦び、愛でる。相手の立場が自分より高ければ高いほど、私の悦びは増した。そんな醜い人間がいるだろうか。だから私はそれらの感情をなかったことのように封じ込めようとしていた。愚劣だった。いつか深雪は、シーバスの悪食を羨ましがっていた。どんなものでも食べられるその貪欲さを。まさしくそうだった。誰も忌み嫌って味わおうとしない快楽。他人に対して抱く優越感ほど、興奮するものは、安心するものはない。否定をやめ、それを受け入れることがいかに素晴らしいことだったか。受け入れてしまえば、これほどまでに心躍り、そして安らぐものだったなんて。深雪も深雪だ。とんだ狐だ。彼女はきっとこの小さく可愛らしい身体全てを使って、海と川、ありとあらゆる美味しいものを平らげて来たにきまっている。肯定される快楽も、嫌悪され忌避される快楽も、彼女は全てをじっくり咀嚼し、嚥下したにきまっている。表では人気者を演じ、ありとあらゆる表の幸せを手に入れていた。同時に彼女の服の下には常軌を逸した快楽の古傷が無数に残り、殺人の快楽を知り、そうして私に物のように扱われ支配されることですら、快楽として楽しんでいる。

『助けてくれますか?』

あの日、彼女は吐瀉物まみれの顔で私にそう言った。言い方が気に食わなかったので、私は何度も彼女を殴った。『ください』と言い直すまで。
そうして晴れて深雪は私の犬になった。彼女の命は、私の一存でどうにでもすることが出来る。犯したい時に犯し、殴りたい時に殴り、愛したい時に愛し、殺したい時に殺す。その気になれば警察に通報してしまうことだってできた。彼女の生の一切は、私に依存し、支配されていた。たまらなかった。これこそ極上の快楽だった。ただ一つ気に入らないことがあった。もしかしたらそれは私に対しての抵抗、強がりであるのかもしれないけれど、彼女は私に何をされるときでも、その瞳に愉悦の色を宿し、陰部は淫楽に濡れていた。彼女の陰部が乾ききり、彼女の瞳に真の恐怖が宿った時、私はきっと更なる快感、至高にして至極の快楽を味わうことになるだろう。それはどこか神にだけ許された特権のようにさえ感じた。でも今はこれでいい。これで十分に満足だった。ベッドの上で忠実に服を脱ぎ、いまだにせき込む深雪を見て、私は再び燃え上がる情動を感じていた。

 

 

店長の死はあっけないくらいに簡単に忘れ去られてしまった。下半身をあらわにし、胸に包丁を突き立てられたままの姿は凄惨極まりないものだったし、それを最初に発見したパートの主婦さんは翌日には辞めてしまった。それでも黒田深雪という不可解かつ不穏な存在の仮面が剥がれていくにつれ、話題は彼女の正体に関するものに移り変わっていった。当然のことながら、彼ごときの死は一カ月もすれば誰も口にしなくなった。
あの日深雪が言っていたことは本当だった。実際に戸籍がないのかどうかはわからないけれど、少なくとも黒田深雪という人物はこの世に存在していなかった。警察の人が言うには、彼女は免許証から保険証までありとあらゆるものを偽装していたらしい。アパートも、どこぞの会社員の名義で借りられていたということだった。口座に関してもアパートと同様、別人物の口座を利用していたらしい。なぜそんなことが出来るのか、おおよその検討はついていたけれど、別にどうでもよかった。警察の取り調べはしつこかったし、家の前やら買い物先やらに何度も警察のものと思われる車が停まっていた時には気が狂いそうにもなったけれど、私はぼろをだすわけにはいかなかった。せっかく手に入れたおもちゃをみすみす手放すわけにはいかなかった。事件からしばらくは生きた心地がしなかったけれど、どうやら捜査はあらぬ方向へ向かいだしたらしく、二カ月を過ぎた頃には私にもようやくの平穏が訪れていた。
店舗の営業は新しい店長によって早々に再開していたけれど、もと居たアルバイト達の大半がやめてしまった。あまり大きくない町の中では、事件の事も相まって新しくバイトを集めるのは大変だった。多店舗からくるヘルプと私たち社員でかろうじて店が回っている酷い状態だった。そんな中で、園田君は残ってくれていた。フリーターでシフトに融通が利いた彼にはものすごく助けられた。私は少し彼の事を見直していたし、親しみまで感じるようになっていた。それは園田君だけに限ったことではなく、店長の死という異常事態によってこの店に集まった人間達の中には、異様ともいえるほどの不思議な連帯感と、お互いに対する信頼心や友情のようなものまでが形成されていた。それは私も例外ではなかった。本社から派遣されてきた新しい店長にこの店舗の事がわかるはずもなく、事件前からのスタッフは園田君含め三人だけ。ヘルプに来てくれる社員やアルバイトの人たちももちろんこの店舗の事を分かっているわけではない。だから私は必然的に頼られてることになったし、私は私で期待に応えようと努力した。私は驚いていた。自分でも思いがけないほどに、私はやる気に満ち溢れていた。それはまぎれもなく、仕事に対してのやる気だった。自分から何かに対してここまで熱い感情を抱いたのは久しぶりの事だった。いつの間にか発する言葉ははっきりとよく通るようになり、業務の効率を上げるために『自分で考えた』方法を新店長に対して提案するまでになっていた。私の働きぶりをみた新店長は、私が本社のリーダー研修を受けれるように推薦してくれた。それは店長になるための第一歩だった。今までの私なら決して到達できなかったであろう場所に、私はほんの二カ月でたどり着いた。どうやら私は店長という嫌悪の対象が無様な死に方をしてくれたおかげで、自尊心を満たされたらしい。もうそのことについて醜いとは思わないし、私を覚醒させてくれた深雪はもちろんのこと、店長にすら感謝している。新しい仕事を次々と引き受けられるように成長した私の生活は一変した。事件後の人手不足も相まって多忙極まる生活だったけれど、家に帰れば深雪がいるという事実は、私にとって大きな助けになった。
彼女はどんな時だって笑顔で私の帰宅を迎え入れてくれた。コルセットピアス用にあけたという脇腹のピアスを引きちぎったせいで脇腹の肉がそげて大流血を起こした翌日も、彼女の体に刻まれていた大切な記憶をとどめたタトゥーをずたずたに切り刻んだ翌日も、極限まで殺人を犯した彼女に近づくために彼女の顔を浴槽の中に沈め続けた翌日も、彼女が涙を流すほどに嫌ったイナゴの佃煮を一晩中彼女の胃の中に流し込み続けた翌日も、玄関を開ければ彼女は変わらない笑顔で私を迎えてくれた。そのたびに私は満たされた。彼女との生活には、一種愛のようなものがあると思っていた。そのはずだった…。
彼女の体はみるみるうちにやせていった。自分の吐瀉物を食べさせたり、犬用の皿に残飯を入れて口だけで食べさせたこともあったけれど、ほとんどの場合二人で食卓を囲んだ。もちろん私が丹精込めて料理を作った。だからこれは栄養不足だとかそんな問題ではなく、彼女の精神的な事象に起因する症状のはずだった。私は彼女のきめ細かくほの白い肌が、恐怖とストレスによって潤いをなくし、ボロボロになっていくことを望んでいた。それなのに彼女の体は、確かに痩せていっているはずなのに、それなのに!彼女の肌はつやを増し、いよいよその姿は美しさを増大させていった。こんなはずじゃなかった。彼女が私に向ける笑顔は、私に向けて抱く愛は、恐怖と絶望に起因する服従のための愛でなければいけなかった。これじゃあまるで、彼女の私に対する愛のこもった眼差しが、快楽と幸福によるものだと言っているようではないか。彼女の体がやせていけばいくほどに、私の幸福は満たされていくはずだった。しかし、彼女の体が細くなっていくにつれ、それに比例するように、私の生活には、心には、黒いしみが広がっていくようだった。

 

 

玄関を開けると、鼻の奥をチリチリと焦がすような刺激臭が部屋中に充満していた。どこかで嗅いだことのある独特なそれが、あの日深雪の部屋に満ちていたものだったことに気づくのに時間はかからなかった。背中のあたりをぞわりと冷たいもので撫でられたような悪寒が走った。部屋に飛び込むと、深雪は煙草のようなものを吸っていた。けれどそれが発する異様な匂いで、深雪が吸っているものが煙草でないことは理解できた。
「あ、波瑠さんお帰りなさ~い」
深雪は別段変わった様子もなく私に微笑みかけた。
「なに、それ…」
「これですか?これはですねえ、大丈夫じゃないやつです」
「大丈夫じゃないって、ふざけないで」
「波瑠さんもどうですか?」
深雪はいやらしい笑みを浮かべてそう言った。まるで私を試しているみたいだった。
「ふざけんなって!」
手に持っていたカバンで思い切り深雪を殴った。思ったよりも力が入っていて、深雪はバランスの悪い置物みたいに簡単に倒れてしまった。倒れた拍子に頭を机の角でぶったようで、しばらく頭を抱えていたけれど、けろっと起き上がって、またいやらしい笑みを私にむけてきた。
「どこでそんなもの!」
「どこって、知り合いから」
めんどくさそうにそう答える深雪の首を見て、私は新たな怒りが湧き上がってくるのを感じていた。彼女の首筋には、昨日まではなかった新しいタトゥーが彫られていた。
「なにこれ…」
私は力一杯に彼女の髪を掴み、タトゥーの入った首筋をあらわに問いただした。
「へへ、いいでしょ~」
悪びれもせずそう答えられたことにまた腹が立って、そのまま彼女の頭を机に叩きつけた。鈍い音がして、深雪から嫌なうめきが漏れたけれど、かまわずもう一度打ち付ける。もう一度。もう一度。もう一度。
「どこでそんなお金!てかわかってんの?あんた警察に見つかったら終わりなんだよ?」
勝手に外に出たことにももちろん腹が立った。けれどそれ以上に私は、彼女がこの状況下で私という存在と全く無関係なところにある娯楽に手を出していることに腹が立って仕方がなかった。
「ご、ごめんなさい波瑠さん。ちょっと効いてきちゃった」
弱々しい声でいう深雪は、しかしどこか満たされたような、恍惚とした、それでいて虚ろな表情を浮かべていた。
『波瑠さんもどうですか?』
先ほどのいやらしい笑みが頭をよぎった。深雪の頭を再び机に思い切りたたきつけ、手を放す。支えを失った彼女の体は床にそのまま崩れた。彼女は痛そうに頭を抱え呻いている。私は怒りに任せて彼女の吸っていたそれを口に含み、煙草の要領で思いっきり吸いこんだ。気管が熱い蒸気で燻られるようなかゆみを帯びた刺激に襲われた。喉の奥が急激に締め付けられ、たまらずせき込む。ソファに座り込み、これから来るであろう未知の破滅に備えた。一分、二分と経っても別段何も変わらなかった。思い切ってもう一口吸う。もう一口。もう一口。足元に転がった深雪の頭を踏みつけ、足で弄ぶ。何も起きないことに拍子抜けすると同時、なぜか少し悔さを感じ始めた頃、体に異変が起き始めた。体が急激に重くなり、瞼を開けているのが困難になっていく。まるで服を着たまま水に飛び込んだみたいに、身に付けていたものの重さがしっかりと体に伝わってくる。もがいてももがいても思うように動けないもどかしさを感じる。天井の照明がやけにまぶしいように思えた。淡いグリーンの机が、クリームブラウンの毛布が、オレンジのティッシュ箱が、本棚に並ぶ三島由紀夫の赤の背表紙が、それら全てが今まで見たことのないくらいに鮮やかに輝いていた。今すぐにでもベッドに飛び込みたい衝動に駆られる。しかしベッドまでたどり着く気力もわかず、ソファにそのまま倒れ込む。ソファに身体が沈み込んでいく感覚を、これほどまでにはっきりと感じたことはなかった。吸い込まれるようにソファに沈んでいく。ソファを覆うざらついたカバーの毛羽立ちひとつひとつが露出した肌をなぜる感覚が伝わってくる。経験したことのないほどの倦怠感だったけれど、しかしそれは決して嫌なものではなく、むしろ永遠に味わっていたいような心地よいものだった。それはまだ世界に対して絶望を抱いたことも、自分の逸脱性の気づくこともなかった幼い頃の朝のまどろみのような、それはそれはぬくもりに満ちたものだった。
ふと、視界が暗くなった。重たい瞼を必死にあけてみると、私に覆いかぶさる深雪の姿を見た。彼女の瞳はやっぱり深くて、私はふと、その深みに吸い込まれてみたいと思った。彼女の瞳に手を伸ばそうとしたとき、彼女が私にキスをした。彼女の柔らかな唇のほのかな温度が心地よかった。彼女の舌のざらつきは、気を抜けば瞬時に絶頂を迎えそうなほどに刺激的な快感を与えてくれた。
「こういうのって、種類があるんです」
そう言う彼女は、今度は私の首筋に舌を這わせる。体の全てが性感帯になってしまったかのように、彼女の舌が私の肌をなぜるたびに、さらなる淫楽の予兆に鳥肌が立つ。彼女が私の耳を食む。彼女の吐息を耳殻に感じるたびに、下腹部が切なく締め付けられる。
「テンションが上がるタイプのやつと、落ちつかせてくれるタイプのやつ。上がるやつはね、例えば人がぎゅうぎゅう詰めになったバスが道を走ってたり、プリングルスの缶が床に転げ落ちちゃったり、たったそれだけのことがたまらなくおかしくて、お腹の底から笑いがこみ上げてきたり、まあそんな感じの効果がえられるんです。それはそれでとっても楽しいんですけどね、私はやっぱりこっちが好き」
耳元でささやかれるたびに、下腹部はじんじんと熱を帯びていく。深雪はもう一度私にキスをすると、視界から消えてしまった。途端、はいていた下着が肌をなぜながらずり下げられているのが伝わってきた。
「私をとりまく何もかもが飲みこまれていくこの感覚が、私は大好きなんです。何もかもが、深く温かい深淵の中に飲みこまれていくこの感覚が」
陰部に深雪の生暖かく湿った吐息を感じる。気が狂いそうになるほどの快楽の予感に、自然と身体が悶える。陰核に彼女の舌のざらつきを感じる。思考が徐々に追いつかなくなる。下腹部から伝わってくる強烈な快感に痺れ、一つ、また一つと頭の中の何かが消えていく。発狂しそうなほどの快感と、まるで温かい海の中に沈んでいくような安堵感と倦怠感に包み込まれながら、私の意識は徐々に遠のいていった。

 

 

飲みこまれてしまうと思った。このままでは私は彼女の狂気に、あの深淵を内包した瞳の中に吸い込まれてしまう。
あの夜、狂気的な快楽の果てに意識を失った私は、深雪の呼びかけで目を覚ました。静寂に満たされた部屋の中、青白い月明かりに照らされた彼女の姿は天使にも悪魔にも見えた。まだ少し残る倦怠感と軽い頭痛がまとわりつく思い身体を起こした私に、彼女は再びそれを勧めた。彼女にこれ以上私の事を好きにされるのは癪だったけれど、それ以上にあの快楽を再び目先にちらつかされた私は、鈍る頭を働かせることを諦め、再びそれを口にした。確かな重みを伴った真っ暗な水の中に吸い込まれていくような感覚の中、私に覆いかぶさった深雪は
『もっとキモチイこと教えてあげます』
なんて言って、愛おしそうに私の右腕に残った古い傷跡を指でなぞった。そうして彼女は、いつのまにか握っていたカッターナイフで彼女と私の腕を切った。ゆっくりと、痛みを味わうように。彼女は私の陰部に自分の陰部をこすりつけながら、生暖かい舌で私の傷をなめ、血を吸った。舌が這うたびにじんわりとした痛みが腕を伝う。その痛みは私の下腹部を締め付ける切なさを一層強いものにした。
『もっとしてください』
彼女はそう言いながら、私にカッターを渡した。私と彼女はお互いの肌にいくつもの傷をつけ、むさぼり続けた。私は彼女に言われるがまま、与えられるがままに快楽に酔いしれた。
翌日、私の横で無邪気な寝顔をさらす深雪に抱いた怒りは自分で驚くほどに強烈なものだった。あれはだめだった。私は常に彼女を制御し、支配していなくてはいけなかった。そうして彼女は私に守ってもらう身として、つねに私に服従していなければいけなかった。彼女に主権を握られることはあってはならないこと。でもこのままではいずれ、私は深雪に飲みこまれてしまうかもしれない。彼女を食ったつもりでいた私は、しかし彼女を懐に入れてしまったことによって内臓の奥から彼女に食われはじめていた。だから、殺してしまわなければいけなかった。
私は彼女を釣りに誘った。三日後は最高のシチュエーションだった。久しぶりの休み。大潮の最終日。深夜一時、目いっぱいに満ちた潮が一気に引き始める。
『久しぶりに釣りに行こうか』
そう誘った時、彼女はまるで子供の様に無邪気な笑顔で喜んだ。私は休みの前日に体調不良を理由に休暇を取った。新しい店長は快諾してくれた。それどころか日ごろから無理をさせてしまって申し訳ないと謝罪の言葉さえ口にした。帰る場所に深雪がいる。この幸せな日々も、今日で最後。私はちょっぴり切なさを感じながらも、お別れの意味も込めて、いつもより一層彼女を愛し、痛めつけた。裂傷やあざでぼろぼろになった彼女は、しかし瞳は恍惚として、陰部は滴るほどに濡れていた。結局最後の最後まで彼女の瞳に恐怖の色を宿すことはできなかったけれど、どうでもよかった。彼女は明日、最期を迎える。その時きっと彼女は、私が求め続けた最高の姿をあらわにしてくれるだろうから。

 

 

十一月の海に吹く風は、真冬の肌を切り裂くようなそれとは違って、まだ心地よく感じられるほどの冷たさだった。
「夜の海っていいですね~」
深雪は数十分後の死など微塵も感じさせない無邪気さでそう言いながら、鼻をすんすんと動かし磯の香りを楽しんでいた。
彼女を殺す。その決意はもう確固たるものになっていた。ただ問題は方法だった。いざ手をかけるとなると、どうにも体が動かなかった。包丁を握ってみても、彼女の首に手をかけてみても、なんだかすべてが映画の中の一コマみたいで、そうする自分が酷く演技じみていているようで全くもってやる気が起きなかった。その時ふと私は、一つの可能性に気がついた。私のお気に入りのこの漁港は最高のポイントだった。中型貨物船も通過できるよう、船道の水深は八メートルほどの深さに掘られている。手前の浅いところでも、満潮付近ならば三メートル以上はあるだろう。深夜になれば人気はまったくない。漁港の奥には小規模河川の河口があり、そこからの流れ出しのおかげで港内は潮の流れが強烈に効いている。その流れは堤防の側面に積まれた大きなテトラポットを沿って、外海へと向かう。ここのテトラポットは大きく、所々に海苔が張り付き、おおよそ初心者向きの足場ではなかった。深夜、視界が悪く、海苔のついた滑りやすいテトラポット。深雪がそこに足を踏み入れてしまったら?確実性はなかった。ただ、他の方法よりはよっぽど現実味があるように感じた。
「あのあたりでやるから。いこ?」
「はーい」
素直についてくる深雪を横目に、私はテトラ帯へと向かった。海は珍しいくらいに凪いでいた。テトラ帯に沿って沖へと続く潮目が出来ている。慣れ親しんだこのポイントで、私はもっとも滑りやすいテトラポットが集まるあたりに足を進めた。
まずは海面近くにあるテトラまで彼女を連れて来る必要があった。ここはテトラ四つ分が海に向かって平行な高さで伸びている。四つ目のテトラの先からは、一段ずつ高さを下げる形で同じテトラが積まれている。その全てが海面に対して緩やかな傾斜を描くように配置されている。満潮付近の現在でも三つほどのテトラが海面から顔を出している。海面直上にある三段目のあたりも、凪いでいるおかげで波はあまり被らない。
「ここらへんが一番いいから、ここにしよ。テトラはでかいけど足場は安定してるからね」
私はまず高さが平行に続いている突き当りのテトラまで足を進めた。深雪に悟られないように細心の注意を払いつつ、テトラの上を軽々と移動し、安全であることをアピールする。深雪は別段恐れることなく、踊るようにテトラの上を跳ね、私の元までたどり着いた。漁港内の照明があるとはいえ、沖に突き出た堤防は暗く、月の明かりだけでは頼りなかった。私は怪しまれないために彼女にもヘッドライトを渡していたけれど、彼女はそれを使おうとしなかった。本来なら注意すべきところだけど、今日の私にとっては好都合だった。
「あのあたりになげて、ゆっくり巻いてくるだけでいいから」
眼前に広がる漆黒の海面は、月の光を反射し儚くきらめいていた。
「はーい」
深雪はそう言うと、言われた通りにルアーをキャストした。深雪と私は共に最上段の突き当りに立ち釣りを始めた。あとは適当な理由をつけて海面に面した三段目のテトラに彼女を誘導するだけだった。ちょうど彼女のいるあたりから沖に向かうテトラ一帯には、満潮になっても海につかるはずのない三段目のテトラにも海苔がびっしりとついていた。おそらく沖からの波がぶつかるのがそのあたりまでなのだろう。私が立っている辺りは深雪の場所に比べ滑りにくい。私はさりげなくテトラを下り、三段目まで下りていく。なるべく安全性を示すため勢いよく三段目のテトラに降り立って見せなければいけないけれど、ここだって滑らないわけではない。痛いほどに強まる心臓の鼓動を抑えながら三段目に降り立つ。靴底がしっかりとテトラの岩肌を掴んだ感覚に安堵する。まだ満潮の潮止まりから少ししか時間がたっていないため、三段目に降りるとほんの少しの波でスニーカーが濡れてしまった。
「危なくないですかあ?」
突然深雪にそう声をかけられ、心臓が縮み上がる。驚いた拍子に危うくロッドを海に落としそうになった。
「だ、大丈夫だよ。ここ普段から海につかることないから」
平静を装う。
「気を付けてくださいよ~」
深雪はそう言うと、再びルアーを沖にキャストした。月明かりに照らされたその姿を見て、なぜか胸が締め付けられた。彼女の揺れる前髪が、鼻をくすんとすするその動作が、リールを真剣に巻くその指先が、眼差しが、それら全てが今日で終わってしまう。私はもう、彼女とこうして釣りをすることもなくなってしまう。そんな実感が、いまになって急に湧き上がってきた。私の決心が、ほころび始めていた。
「つ、釣れるといいね」
深雪に届いたかもわからない小さな声でそう言い、私もルアーを沖へとキャストする。着水を確認し、ゆっくりと巻き始める。リールに予想外の重みが乗る。ラインは見る見るうちに横へ横へと、外海の方へ引っ張られていく。想像していた以上に潮の流れがきつい。普段からよく来るポイントのため、把握できているつもりだったけれど、今日の流れは特別にきつかった。その事実が、ほころび始めた決心を再び固く結び直してくれることを期待したけれど、結果は私の優柔不断さが一層酷くなるだけだった。
三十分ほど経過してしまった。深雪は少し飽き始めて来たのか、テトラの先端に腰掛けぼーっと海を見つめている。このままではあと二十分もしないうちに潮の流れは緩やかになってしまう。再び強烈な潮の流れに戻るのは、干潮前の一時間ほどだろうか。そこまで待てるわけがない。でもどう頑張ったって決心はつかなかった。深雪の姿を見るたびに、これまで彼女が私に見せて来た笑顔や、かけてきた優しい言葉がフラッシュバックした。これが最後になる。その事実は心臓のあたりに重くのしかかり、喉の奥から何かがこみ上げてくるような苦しさに襲われた。ただし期限は差し迫っていた。潮の流れが最も強烈に効いているのは、あと十五分ほどか。正確にはわからない。ただそれが私に設けられた期限だった。
もし、もし彼女が海に落ちた時、私がやはりどうしたって彼女の死を受け入れられないのなら、助けに行けばいい。泳ぎは慣れているとはいえ、こんな強烈な流れにつかまってしまえばどうあがいたって彼女を助けることはできないかもしれない。その時は、一緒に死ぬのだってありかもしれない。いや、それもいい。それがいい。最悪、滑りやすい三段目に到達する前に彼女を止めればいい。今海苔がついていることに気づいたていを装えばいいだけだ。まずは一歩だけ。一歩だけでも。
「ね、ねえ深雪」
「どーしました?」
「ちょっとこっち降りてこない?」
「はあ」
「う、海が足元にあるって、なんかいいよ」
自分でもわけのわからないことを口走っていたし、もう自分が何をしたいのかもよくわからなかった。ただ、一歩だけ、一歩だけでも深雪をあの場所へ近づける、ただそれだけが目的になっていた。どうしてそうしたかったのか、もうよくわからない。深雪は不思議そうな顔をしたけれど、少しおかしそうに笑い、テトラを下り始めた。二段目のテトラに足がつく。全身に悪寒が走った。止めなきゃ。止める言葉を発さなきゃ。そんな思いを、私の中の怖い物見たさのような欲望が押さえ込んでいた。喉元に静止を促す言葉が出かかっているのに、最後の最後でつっかえてしまって外に出ない。深雪は最初恐る恐る足だけを前にだし、もと居たテトラに手をつきしっかりと支えにし、踏みしめるように足場を確認していた。しかし、そこが安全であると分かると、手を放し勢いよく駆け下り始めた。二段目を軽々と下り、三段目に足がさしかかった。心臓が痛いくらいに脈打った。止めなければ滑り落ちる。だめ。いやだ。やめて。とまって。思い浮かんだ言葉同士が喉の出口で大渋滞を起こしているのか、存在だけは感じるそれらの言葉は、結局発せられることはなかった。
深雪の足が三段目のテトラポッドについた。二段目の安定のおかげで警戒心がほぐれていたのだろう。彼女の体重のほぼすべてを授かった右足は、私が想像していた通りに海苔がこびりついた辺りを勢いよく踏みぬいた。彼女の体はバランスを崩した。まるで足首に見えない紐が縛り付けられていて、それを思い切り上に引っ張り上げられたみたいに、彼女の体は勢いよく反転した。
その時、彼女と目が合った。彼女はこちらを見つめていた。恐怖。私はただそれだけを感じていた。それは私が人を殺してしまったことに対しての恐怖ではなかった。私が抱いたのは、黒田深雪という存在に対する恐怖だった。彼女と目が合った瞬間、耳元に彼女の吐息を感じた。背筋に彼女の指の冷たさを感じた。髪先が彼女の指にからめとられたように感じた。頬に彼女の舌のざらつきを感じた。悪寒がとまらなかった。
鈍い音がした。彼女の体はその場で反転した。彼女の頭はテトラに強く打ちつけられたようだった。私は目の間で起きたことが理解できなかった。なぜか私は、彼女が足を滑らせた後は海に落ち、そうして無傷のまま潮の流れに飲まれていくとばかり思っていた。頭を打つなんて、想像もできなかった。彼女はそのままずり落ちるように海の中にのまれていった。私はどうすることもできないまま、ただ彼女が真っ暗な海の中へと引きずり込まれていく様をみることしかできなかった。彼女の体は文字通り海に飲みこまれていった。排水溝に水が流れるように、ずるずると。私は彼女が沈んでいった海面に立つあぶくを、ただひたすらに見つめていた。

 

 

こらえきれない吐き気に襲われ、思わずしゃがみこむ。それでも一向収まらず、いっそ吐いてしまおうと手をつくと、川面が顔からわずか数十センチの距離にあった。揺らめく水面がまるで私を飲みこもうとしているみたいだった。たまらず嘔吐する。とろみを帯びた酸っぱい液体が、申し分け程度に吐き出された。それは瞬く間に波の揺らめきに拡散されていった。
深雪が海に消えた翌日、私は干潮のタイミングを見計らってあの場所に戻った。一度家に戻り冷静に考えてみれば、彼女の体が引きずり込まれるように海の中へと消えていくのはおかしな話だった。少なくとも落ちてすぐは浮いていていいはずだった。しかしテトラポッドの周辺は海流がおかしな働きをすることもある。彼女の遺体はもしかしたらテトラポッドの隙間に吸い込まれてしまったかもしれない。深雪の死を、その存在を、私の中で確かなものにするために、私はあの場所へとむかった。干潮のおかげで、前日に深雪が足を滑らしたテトラからさらに四段ほど下のテトラまでが海上にさらされ、海底がみえるほどに浅くなっていた。私は丹念に彼女の死体を探した。流れも考慮し、堤防の先端まですべてのテトラの穴を確認してみたけれど、結局彼女を見つけることはできなかった。彼女の存在自体私が作り上げた幻想だったのかもしれない。そんな突拍子もない考えを抱いてしまうほどに冷静さをかいていた私は、家路を急いだ。部屋に戻ると、前日に彼女が流した血に染まったシーツや、彼女の下着や衣服がそのままの状態で残っていた。その事実がむしろ私を混乱させた。私の部屋であるはずのそこに、私はとてつもない恐怖を覚えた。
あれから半年以上たった。いくら調べてみても、彼女らしき死体が見つかったというニュースは出てこなかった。あの日から、私は自分の部屋に戻ることができなかった。深雪の痕跡が色ごく残るあの部屋は、まるで彼女の瞳の中の様だった。再びあそこに戻れば、私は真っ暗でどこまでも底がない深雪の瞳の中に飲みこまれてしまうと思った。幸い貯金だけはあった。私は職場に近いホテルを転々としながら過ごしていた。そんなだから、しばらくは海を見るのも怖くてしかたなかった。一度近づいてしまえば、あの得体の知れない広大な海の底へ引きずり込まれてしまうと思ったからだった。
深雪がいなくなった生活に、私は意味を見出すことができなかった。私はプログラムされたロボットのように、与えられた仕事だけをただひたすらに、無心でこなしていった。彼女の不在は、私の脳を静かに蝕んでいった。次第に自分がその日一日何をやっていたのか思い出すことも困難になっていった。夜家に帰ると、自分が今日どんな仕事をして、誰と何を喋り、どんなご飯を食べたのかも思い出すことが出来なくなっていた。しまいにはどうして自分がこんな風になっているのかもよくわからなくなっていた。深雪の存在自体があやふやになった。顔も、声も、二人で何をしていたのかも思い出せなくなっていった。いや、思い出そうとすらしなくなるほどに、彼女の存在自体が私の中から消え始めていた。そんな日々が続いた今日、仕事終わりにふと釣りに行こうと思った。何で行こうと思い立ったのかもわからない。幸い釣り道具は車のトランクに積みっぱなしだった。海釣りに使うタックルやルアーは手入れをしないとすぐに錆びたり塩が詰まってリールがだめになってしまったりするので、毎回釣りの後には洗浄したりメンテナンスをしなければいけなかった。ある程度の値段のものなら数カ月ほどさぼった程度ではそうそう悪くなることもないけれど、私はそれらを手入れしている時間が好きで、釣りの後は毎回欠かさず手入れを行っていた。そんな私が、あの日以降釣り道具の存在すら忘れ車のトランクに積みっぱなしにしていた。さらに驚くことに、私は積みっぱなしになったそれらを見ても何も思わなかった。あれほど近づきたくなかった海にも、特別何かを感じることもなく自然にたどりき、自然に釣りを始め、楽しんでいた。
でも深みへと帰っていくシーバスを見て、途端に黒田深雪の存在が鮮明に脳内に蘇った。忘れていた恐怖感や不快感が堰を切ったようにあふれ出し、私を飲みこんだ。心なしか、目の前の景色が先ほどよりも色鮮やかに見える。全身を巡る血の温度が、生々しく伝わってくる。再び襲い掛かってきた吐き気に抗うことなく身を任せる。胃を締め付ける不快感から解放されるなら、何度吐いても構わなかった。しかし何度嘔吐しても、胃の辺りに存在する不快感を拭う事はできなかった。
深雪との思い出の濁流にのみ込まれながら、私の脳裏にはずっと考えないようにしていた、なかったことにしようとしていた疑問がふつふつと湧き上がってきた。
なぜ深雪は店長を殺した?なぜ彼女はそれをわざわざ映像に記録し私に見せた?なぜ助けを乞う相手に私を選んだ?彼女ははじめから、私の中にある不穏な衝動に気づいていたのでは?そうしてその衝動が行きつく先まで、彼女には全て予想出来ていたとしたら?
あの日、頭を打ちつける直前の彼女の瞳が鮮明に思い出された。耳元に、彼女の吐息を感じた気がした。
居ても立っても居られなくなり、私は釣り道具もそのままに車へと駆け出した。

 

 

扉を開けると、ツンとした嫌なにおいが鼻をついた。スイッチを押すと、電気がついた。別に引っ越したわけではなかったし、冷蔵庫などのごくわずかな電気料金も毎月きっちり払っていたから当たり前の事なのに、私は何故か電気がついたことが信じられなかった。部屋を見渡すと、飛び出したあの日と何も変わらない光景が広がっていた。ゴミ袋を手に取り、深雪の私物を手早く入れていく。彼女に関するすべての痕跡を、一刻も早くこの世界から葬り去りたかった。私は一心不乱に彼女に関係するものをゴミ袋に詰めた、詰めた、詰めた。一通り片付くと、今度は念入りに掃除機をかけた。それが終ると、適当なタオルで床をふき、窓をふいた。トイレ、シンク、浴室、全てをスポンジが擦り切れるほどに徹底して掃除した。ようやく一通りのことが終り、とりあえず彼女の痕跡をまとめたゴミ袋を視界から消してしまおうと手に取ったその時、ふと洗濯機の存在が目に入った。私は絶望した。洗濯機はだめだ。これは処分するしかなかった。彼女の衣服を洗ったこの中は、彼女の痕跡が染みついてしまっている。今すぐにでもこの部屋から消してしまわなければいけないのに、しかし一人で処分するにはそれはあまりに重すぎた。途端、極度の脱力感に襲われ、たまらずベッドに向かった。シーツも毛布もはぎ取ってマットレスだけになってしまったその姿は、あまりに寒々しかった。私はベッドに倒れ込んだ。何も考えたくなかった。洗濯機は、絶望的だった。

 

 

目を覚ますと、閉め切られたカーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいた。焦りスマホを確認すると、出社時間を三時間も過ぎていた。スマホのロック画面には、店舗や店長からの不在着信が何件も入っていた。どっと倦怠感が襲ってくる。今は言い訳を考える気力がなかった。スマホの電源を落とし、再び意識を失おうと目を閉じる。しかし玄関に転がったゴミ袋や洗濯機の存在がちらつき、どうしても眠りにつくことが出来なかった。いらだちを感じ、寝返りをうつ。ふと、視界の先の本棚が目にとまった。何の気なしに本棚を見つめる。太宰治、スタンダール、萩原朔太郎、夢野久作、森博嗣に泉鏡花。見慣れた背表紙を目でなぞっていく。ふと、見慣れない背表紙が数冊あることに気づく。嫌な予感がして、私はベッドから起き上がった。重い身体を引きずるように本棚に向かう。買った覚えのない公文社版の『悪霊』とダンテの『神曲』の地獄編・煉獄編が並んで差し込まれていた。すぐに深雪のものだと思い、本棚からそれらを抜き取った。抜き取った拍子に、何かが落ちた。足元に落ちた赤色のそれは、百均でよく売っているような封筒だった。手に取る。鼓動が強くなっていくのを感じる。胃と心臓の辺りに不快な重みを感じる。誰のものかは、わかっていた。封筒をあけ、中に入っていた二枚の便箋を開いた。

 

 


それは紛れもない深雪の文字だった。最後の一行まで何を言っているのかわからなかった。ああそうだ、洗濯機。洗濯機を早く捨てに行かないと………。

 

 

 



波瑠さんへ

この手紙を読んでいるということは、多分あなたは私の望みをかなえてくれたということでしょう。
ありがとうございます。
黙示録に出てくる緋色の獣に乗った娼婦は知ってますか?前にある人が私の事を彼女の様だと皮肉ったことがあるんです。その人自体はほんとつまんなくて、今はどっかの病院で拘束されながらうんち垂れ流してるっぽいですけど、その皮肉はすごく気にっちゃって。
私ね、今まで自分がしてきたことに罪悪感を抱いたことはありません。でも、それがまぎれもない罪であることは理解してます。
罪を犯した悪い子には、お仕置きしてあげなくちゃ、ですよね?
私、ずっと探してたんです。私に見合った最期を与えてくれるにふさわしい人間を。
化物、は言い過ぎかもですけど、およそ人間にはなりえなかった私に見合った最期。途中で数えるのをやめるほどに多くの人間に災いをもたらした私に見合った最期。どんなのがいいか、いつも考えてました。
人生は映画です。そして私の人生は、醜悪で中途半端にすべってるC級映画でなくちゃいけません。
とにかく醜悪で、つまらない最期がいい。でもいくら探してもなかなかいい人が見つかんなくて。
とそこへ波瑠さんの登場です。
最高につまんなくて、最高に醜悪な欲望をもつ波瑠さん。あなたならきっと最高に醜悪な方法で私を凌辱してくれるだろうし、最高につまらない方法で私の人生を終わらせてくれる。
きっと波瑠さんは直接には私に手をくだせない。勇気がない。
当ててあげましょうか?
多分波瑠さんは要因をいくつか提供して、そこに私を誘導するかして私の命を奪おうとする。どうですか?具体的な方法はわかんないですけどね。波瑠さんらしい、つまらないやり口です。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている。ニーチェの言葉ですね。
波瑠さん、深淵を覗いた気でいたみたいですけど、あなたはそれに見つめ返してもらえてなかったことに気づいていましたか?

「一切の希望は捨てよ。汝ら、我をくぐる者」

『神曲』に出てくる地獄の門に掲げられていた言葉ですね。私ね、この言葉は子宮の出口にこそふさわしい言葉だと思うんです。
あ、だからと言って私、人生が嫌いだったわけじゃないですよ。むしろ私は楽しかったんです。地獄の快楽は、天国のそれよりよっぽど刺激的で興奮しますよ?飽きもなかなかこないですしね。
なんて言っといて、そろそろ飽きてきちゃったんで、波瑠さんに頼ったんですけどね。
最後に、私の望みをかなえてくれたこと、重ねて感謝します。
波瑠さんは最後までつまらない人でしたけど、思ってたよりは楽しかったですよ?

ありがと!

                  深雪





清世さん、またまた素敵な企画をありがとうございます!

160ページ分の長編になってしまいました。
最後まで根気よくお読みいただいた皆様に感謝いたします。

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