タトゥー

柔らかいクリーム色の照明が、辺りをふわりと包んでいる。
爆音で聴いたら落ち着きとは無縁の状態になるであろう音楽が、計算された程よい音量で流れているため、妙に心を落ち着かせる。
その音楽と、程よく甘い、優しい香りと照明がマッチして、店内の時間をゆったりとした流れにしている。
ここに来るまでに通った渋谷駅の喧騒を思い出すと、ここは自分の願望が具現化した夢の中の世界のように思えた。
さっきまでスマホでヒップホップのドキュメンタリーシリーズを観ていたが、ちょうど東西抗争の血生臭い話が始まり、落ち着いた雰囲気が壊れそうになったので観るのをやめてしまった。それからひたすら頭上の照明を見ている。
心地の良い機械音が等間隔で鳴り続け、店の雰囲気も後押しして眠気が襲ってくる。
先ほどから徐々に施術箇所が痛くなってきたが、眠気がちょうど良く中和してくれている。

タトゥーを入れている時ほど、心が落ち着く事はない。ファーストタトゥーを入れた日、僕の憂鬱がまるで全て吹き飛んでくれたかのような感覚になった。僕にのしかかりまとわりついていた無気力感は消え、考えるだけで憂鬱になり、行為自体の意味を疑っていた、生への気力が溢れてきた。昔食後に飲んでいた、小さな薬とは大違いだった。
それ以来、はまった。昔からタトゥーへの憧れが強く、二十歳になったら入れまくろうと決めてはいたものの、資金的な問題から二十二歳まで待たなければいけなかった。これほど精神に安定をもたらしてくれるのであれば、もっと早くから入れるべきだった。
でもやっぱり僕の憂鬱は強く、不安はすぐに襲ってきた。それが我慢できなくなるとタトゥーを入れた。これが4つ目だ。
基本的に僕はネガティブな小説や映画が好きで、そう言った作品に出てくる言葉に多く共感するが、体に一生残るものなら、やっぱり希望が欲しい。ファーストタトゥーも、好きな海外のバンドの歌詞にある、全てが失われたわけではない、という意味の一節を入れた。I don't belong here と迷ったが、これでよかったと思っている。

ファーストタトゥーの施術後、感情が昂り過ぎてとんでもない顔をしていたのだろう。
「うわめっちゃいい笑顔」
担当してくれたシノさんは、そう言って楽しそうに笑った。
シノさんは本当に僕の笑顔を気に入ってくれたらしく、その後も僕が店を出るまで何度も僕の笑顔をいじってきた。

僕の笑顔は、初対面の人間からいい笑顔だね、と褒められることが多々あった。でもそれは、拒絶の中に生まれた僕が、何とか周りの人間に溶け込むための武器として身につけた、僕の感情を反映するはずもない笑顔だった。
僕を否定する家と、僕を拒絶する学校。どこにも居場所のなかった僕が、必死に人間に溶け込むためにあがいた苦痛の証。
僕は自分がその卑しい笑顔を自然と浮かび上がらせてしまうたびに、陰惨な気分に陥った。

でもファーストタトゥーを入れたあの日、タトゥーを確認するための鏡にちらと映った僕の顔は、自分でも驚くほど素直な笑顔を浮かべていた。それはあの卑しい計算の末に作り上げた偽物の笑顔ではなかった。小さい頃、よく鏡の前で練習したあの作り物の表情は、どこにもなかった。
この人の前では、素直に笑える。その事実が、どうしようもなく嬉しかった。

「とりあえず終わりました!確認してもらえる?」
僕は寝台から起き上がり、腕を見る。胸に温かいものが込み上げてきて、それが直接顔の表情に作用しているのがわかる。
腕にはシノさんと一緒に創作したオリジナルの蛾が、美しい模様の羽を広げ鎮座している。
シノさんに担当してもらったタトゥーは、これで三つ目になる。
いつもこの瞬間が待ちきれないが、同時に一番気分の盛り上がる施術の時間が終わってしまったことが、少し残念に思えた。
「おお!かっけえ!ありがとうございます!」
「出たその笑顔。そう喜ばれるとやりがいあるわ」
毎度のごとく、シノさんは僕の笑顔を見て満足そうに笑ってくれた。

少し雑談をしながら支払いを済ませ、店を出る。最高の気分だ。しかし同時に、またいつ不安が襲ってくるだろうかという思いが頭をよぎる。
そんな考えを振り切るように、僕は入れたてのタトゥーを見る。ラップに包まれ、少しミミズ腫れになっている皮膚に描かれた、美しい蛾。
僕は昨日とは比べものにならないくらい軽い足取りで、渋谷駅に向かう。

井の頭線の車窓から流れる景色は、僕に優しく手を差し伸べてくれる。普段僕への拒絶をあらわにするあの景色と同じなんだと思うと、少しおかしくなる。
吉祥寺駅で降りて、いつもの喫茶店に向かう。喫茶店、と言っても万年金欠の僕がお洒落な喫茶店を行きつけにできるわけもなく、一杯二百円の安いコーヒーが飲めるチェーン店を目指す。
道ゆく人たちは、みんなどこか微笑んでいるように見える。
今日は誰も僕に冷たい視線を送らないし、僕がその場にいないとでもいうように肩をかすめて歩いていく人もいない。
僕は、受け入れられたのだ。
そんなのは気持ちの持ちようだ、あほ。
自分で考え、自分でつっこむ。
しょうもない脳内独演会で、マスクに隠された口がにやけたのがわかる。
そのしょうもなさが、抱きしめたくなるほど愛おしい。
楽しそうに笑いあうカップルとすれ違う。みんな、何かに頼りながら生きている。生きることは、頼ることだ。
俗っぽいなと思い、またにやける。
僕はまだ、生きている。
きっと三日後には、眠りから覚めるのが苦痛になるだろう。いま温かく見えているもの全てが僕に牙をむき、僕は拒絶の中、息をひそめ隠れるように生きるのだろう。
そうなったら、入れればいい。
頼るものがある人間は、それなりに生きるという行為を続けられるみたいだ。
皮膚が全て埋まってしまったら。
その時は、死ねばいい。別にいつでも死ねるのだから。
神がいなくなったこの時代、本当に辛くなったら自分からエンディングを迎えるのも悪くないと思う。実際何度も、終わらせようとした。失敗に終わったのは、本当は僕にまだその気がなかったからだと思う。
そうしてどうにか簡単な延命措置を見つけては、ここまで生きてきた。
そして今度はしっかりと、頼りがいのある延命措置を見つけることができた。
生きていればいいことがある。
僕の大嫌いな言葉だ。勝手なことをぬかすなと思う反面、エンディングを迎えない限りは可能性があることもまた事実だ。
この不健康な白い肌が美しい絵で埋まる前に、もしかしたらもっと強力な延命措置を見つけることができるかもしれない。
今はとりあえず、生きてみようと思う。
きっとなるようになるだろう。
その時は、その時だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?