【大企業を辞めた凡人】〜貯金もスキルもいらない海外起業家になるまで〜

こんな時こそ、心にユーモアを、セカイです。

ネパールで飲食店を経営しております。

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ネパールは現在「ロックダウン」で街中には人がいません。

こんな時だからこそ、ボクの脱サラ→起業の話をして少しでも勇気、キッカケを持てる人がいればいいなと思って綴ります。

ボクは小中時代にいじめられていた経験があります。

(自分がめちゃくちゃいじめてたからね)

学生時代から運動もそこそこ、勉強もそこそこ。

大した失敗談も貧乏話もなく何不自由なく暮らしてきました。

この経験が逆にボクの「コンプレックス」を形成しています。

大学4年生の頃「野村かリクルートに入れば潰しが効くぞ」(この2社に入れば自分のステップアップにいい影響を与えるぞ)という人材会社の先輩に言われた言葉を鵜呑みにして「野村證券」へ入社することになります。

野村證券の新人は、入社したその次の日から「ローラー営業」と言って、”ひたすら住宅街を回って営業する”仕事が始まります。

しかしボクが入社したその年から「支店で半年間研修したのち営業に出る」というスタンスに変わりました。

このきっかけは「右も左もインフレもデフレもわからないような奴が回ってきても困る」という顧客からのクレームでした。

そして半年という地獄(外に出れないのが一番キツイ・・・)を乗り越え、颯爽と自転車を走らせ、住宅街への営業がスタートしました。

1日何軒回れるかが勝負ということで「ストッカー」を持たされ、一軒、また一軒とストッカーで数えていきます。

1年目の頃は毎日200軒の住宅を回って「国債一本」というなんとも武器と言えないような商材で勝負していきました。

1年目のペーペーセカイくんでも、ここで大企業の弱さに気づきます。

「研修等の制度はしっかりしているものの”支店ベース”で見るとまだマネジメントがうまく回りきっていない」

それはそう。上司も上司で何百万、何千万という予算が「毎月、毎月」のしかかっているからです。

新人に全精力を注ぎ込めるほど余裕はないんです。

「大企業での成長スピードは期待できない」と1年目のボクは確かなるものはないものの、このふんわりとした気持ちを抱いていました。

激動の一年目が終わり、セカイ(ぼく)は暴挙に出ます。

なんと思いつきで「辞める」と支店長まで言ってしまったのです。

この当時の同期と「インフルエンサーの会社を作るぞ!」と作戦を練っていたのです。

その準備も野村證券鹿児島支店、支店長室で無残に散ってしまいます。

ずさんな事業計画書を突つかれ、まくし立て止められ

ボクのサラリーマン2年目が始まりました。

毎日、経営者の人や、病院の院長、理事長、社会福祉法人の理事長などいわゆる「富裕層」と呼ばれる人への営業が僕たちの仕事です。

「いつの日か起業して自分の会社、従業員を持ってみたいな〜」と思っていたボクの気持ちは日に日に「起業への気持ち」が大きくなっていくのでした。

とわ言え、「野村證券」という日本で業界一の大大企業」

親はもちろん飛ぶように喜んでくれたし、大好きな姉や、兄も「お前は本当にすごいな〜」と喜んでくれるほど。

周りの反応も本当に面白くてナンパして失敗しそうでも「オレ野村證券で働いてるねんけど〜」というと「飲みにく!」とついてくる始末。

「会社の看板」とは知らぬ間に人々にバイアスをかけているものだなーと感心していたのを覚えています。

2年目のボクはというと、同期比営業成績トップ1割をキープ、これが田舎の鹿児島支店で成し遂げられてたことだからなかなか褒められた。

若手では異例の億超えの契約、事業保険などの保険商材も華麗に受注していました。

2年目で結果も出てきているボクは、それはなかなか調子に乗ってました。

「井の中の蛙、大海を知らず」

お金を使って女の子と遊んで食べたいもの食べて、ボーナスでGUCCIの時計を買ったり、あの時の財力を全て使い切っていました。

しかし、毎日繰り返される作業、結果を出しても二個上のできない先輩の方が給料が倍くらい高い。

日本が高度経済成長以降、発展のために土台を築いてきた「年功序列」に強烈な違和感を感じ始めました。

「こんなにもお客様と関係性を必死に築いてもあの人の方が給料をもらっている」

その不平等にも見える、日本の常識に「この手で、看板を持たずとも稼いでやりたい、好きなことをして生きていきたい」と思うようになりました。

ここで、今のビジネスパートナーが登場します。

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彼の名前は宮田 澪。

高校時代に3年間クラスが一緒で、大学時代は週に一回、野村證券に入ってからも休暇には必ず会う「親友」がいました。

彼は高校から音楽活動を始めて、メジャーデビューを目指すバンドマンでした。

売れてはいないものの、「夢めがけて走るその姿」に何回心を打たれたことか。。

そんな彼がヒッチハイクでボクが住んでいる鹿児島まできました。

いつも通り、一緒にナンパして女の子を引っ掛けたり、ナンパして女の子と飲んだり、ナンパして同じホテルに入ったり。

彼が鹿児島を去る前夜、飲みながらこんな話を切り出してきました。

「ネパールに行って一緒に起業しよう!」と。

(彼はネパールと日本のハーフなのです)

ボクは間髪入れずに「やる!」と二つ返事で応えました。

その次の日には支店長に「ネパールで起業するからやめます!」と言いました。

一年前の弱いボクはそこにはおらず、時には「脅し」とも取れるような上司の方々の説得を見事にかわし、なんと3週間で会社を去ることになりました。

そこから生まれ育った「奈良」に帰り、宮田とのルームシェアが始まりました。

貯金も大したスキルや資格もないまま出てきた僕たちは「クラウドファンディング」を使って資金調達をしようと考えました。

クラウドファンディングの3ヶ月前から作戦を練りに練って、1日で100万円の支援を得ることに成功します。

「よし、あとはオレ次第だ」

そこから2019年7月、ボクは始めてネパールに向かいます。

降り立ったネパールは想像していたものとは違う景色でした。

地理的に中国とインドという、現、未来の超大国に囲まれているにも関わらず、経済は全く発達していない、道路は一本入ると砂利道のところや舗装されていない道路がたくさん、なのに人々は「足りていない現実」を気にもせず、今日もミルクティーを飲みながらニコニコ。

「ん?これは国なのか?」

そんな錯覚を起こすほどマイペースなこの国には信号はなく、バイクと車が今日もぶつかりそう。

他の東南アジア諸国に比べて「観光客からぶんどってやる!」などの発想はなく、本当に誰にでも家族のように接するネパール人を見て、日本にいた頃に欠如していた感覚を思い出しました。

「先輩の方が結果出してないのに」

「この年功序列がなければ」

社内でも

「あいつは使える、あいつは使えない」

「あいつは生意気だ」

などの負の感情が多い職場だったことに気づいたんです。

国を出ないと気づけないほど「環境」というものは厄介で「慣れ」ほど怖いものはありません。

そこからネパールで運良く居抜き物件を見つけることができたボクたちはネパール人の従業員1人と3人で飲食店経営をスタートさせました。

そこからの半年は本当に学ぶことばかりでここには書ききれないくらい。。

そして先々月から従業員を1人増やしたボクたちは「自社のアパレルブランド」事業をスタートさせました。

これが僕たちのアパレルブランドです。

始めたばかりなので、修正点や至らぬ点は多いと思いますが確実にその壁を乗り越えていきます。

実は飲食店もそうなのですが「毎月の純利益を10%を孤児院に寄付する」社会応援型のビジネスモデルなんです。

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「孤児院」とか「ボランティア」という言葉は世の中に溢れていますが、ボクたちの思いは一般のこれらの言葉とは違う気がしています。

ボクがボランテイアについて思う記事です。

こちらを読んでいただいたら早いのですが要は

「持続可能なモデルじゃないとなんの意味もない」ということです。

ボランティアをしている人がいてもそれが持続不可能ならば意味はありません。

ただの「自己満足」止まりです。

しかし、ボクたちも「自己満足」でやっているに変わりはありません。

誰かから「毎月、寄付して偉いね」と言われたいわけでもなく

「君たちはすごい若者だな!」とおじさんたちに媚を売りたいわけでもありません。

ここで本質を話すと「孤児院に一番必要なもの」は”雇用”なんですね。

孤児院に入れるのは最大18歳まで、その先の人生の方がはるかに長いし、家族を持って子どもを持つとなるとますます”雇用の機会”がないと生活は困窮し、死を迎えることもあります。

現地で見たボクたちだからこそ、最終ゴールは「雇用の創出」においていて

毎月支援して、「もし仕事をする時がきたなら、ボクたちのアパレル工場で働いてもらうか、ボクの人材紹介の仕事を活かして日本で働いてね」という具合に

いずれも有無を言わせない平均月収2万円のネパールでは考えられない「破格」の給料を準備します。

とまあボクたちの現状はこのような感じなのですが。

実は実は・・・

恥を恐れず正直に話すと

「明日10万円の請求がきたら僕たちの事業は終わります」

それくらい、今資金繰りと毎日戦っています。

会社の経営、マネジメントだけ、新事業の提案、設立、施工などは正直誰にでもできるんです。

ただ、従業員を抱えて、固定費も毎月払って、「来月から給料払えない・・」と従業員に言わなければいけない状況がすぐ後ろにある。

この精神状況の中、異国の地で戦うことは本当に”精神を削る戦い”になります。

「資金繰りの危機に直面したらこんないも辛いのか〜」と落ち込む時ももちろんありますが

会社員を辞めたあの日から、

「やるだけやってダメならホームレスYouTuberになる」と決めているのでやれるだけやります。そしてしっかりと結果を出して、アジア最貧国のこの国で「孤児革命」を起こし、日本とネパールに橋をつなぎます。

実はボクたちも「日本人だから」という理由で相当良くしてもらってる部分があります。

それは先人たちから贈られてきた「確かな努力の塊」でそれを恵まれた国で生まれたボクはまた次の世代に繋ぐ使命があると思っています。

きっと何度転んでも立ち上がるでしょう。

自分のことは自分が一番よく知っています。

命途絶えるその日までこの情熱は誰にも消せないでしょう。

行こうか、高みへ。

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ほなまた!


もし1億円稼げるようになったらコンビニで100円のおにぎりじゃなくて200円のおにぎりが買いたい