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二拠点や多拠点居住は、あまり推進しすぎない方が良いと思っている話

人が減るのだったら関係人口を増やせばいい!そうだ、入り口を広くするべく二拠点居住や多拠点を推進すれば良いのでは?

人口減少の対応策を考えるときに誰もが一度は考える「二拠点居住を推進しよう」という話。むしろ国としても特設サイトまで設けてこの5月からバリバリに推進し始めていますね。

でも、人が減りまくっていて「担い手が足りない現場」から言わせていただくと、ちょっと慎重に進めた方がいいと思っています。

と、いうよりも「コミュニティに合う人を少しずつ受け入れて、定着してもらう」ことの方が、少し時間はかかるけれど、トラブルは少ないし、結果的にはコミュニティの良さを損なわずに担い手を増やすことにつながると思うからです。何より、受け入れ先で調整する人が疲弊して出ていってしまわないように…。

同じような文脈で「働き手が少ないから副業と兼業を推進して、企業相互で働けるように交流しよう!」みたいなのをグイグイ進めようとすると結構受け入れ先が大変になるのと同じイメージ。

梅雨の時期に大雨が降っても家が浸水するような災害にならないのも、里山や田んぼ、道が草木で覆われてジャングルになっていなく「心地よい自然」があるのも、日々草刈りをしたり、メンテナンスしたりする人がおるからなので、きちんとそういうことを説明して理解していただくプロセスが絶対に必要です。

もちろん「人が増えること自体は良いことでは?」と思う気持ちもすごくよく分かります。でも、結果的にかかってしまう膨大なコミュニケーションコストや、トラブルが起きた時のあれこれはそれはもう結構大変。

学校や部活、会社などで「採用のミスマッチ」があった時や、「たまにしかチームに加わらない人のサポートを何度もすることになった時」を思い起こして貰えばお分かりいただけると思います。

小さな集落に住んでいて近所の人もすごく気前も人柄も良い人ばかりだからこそ、空き家がたくさんあっても誰彼構わず「気軽に移住してきて」や「空き家とりあえず借りなよ」とは言えないと思って対応もしています。

前提として田舎暮らしの不便さや都市部との生活ギャップというのは、想像だにできないもの。

例えば、「空き家を借りる」とは「スーモで賃貸を借りる」のとはだいぶワケが違う。大家さんの実家、先祖代々続いた家などを借りるのだ...ひと言では表現できないからこそ「認識のミスマッチが起きやすい」のが過疎地への安易な移住や2拠点生活。理想だけではない現実を知ってもらうプロセスを大切にしたいのです。

もちろん私も、周囲の人たちも、若くて元気の良い同世代にぜひ来て欲しいと考えています。けれど、よくよく認識を擦り合わせないと、移住者も、地域もお互い「こんなはずじゃなかった」になりかねない。例えば移住希望者の方にお伝えしているのは次のようなことです。

「想像以上に、虫がでること」「草の伸びるスピードと管理は本当に大変であること」(一度、体験していただくと少し理解してもらえる)
「空き家への入居は都市部の賃貸物件と同じではないこと」
「野菜などはタダでもらえるわけではない。人間関係の相互のやりとりの中で何かしらと交換するもの」….など

例えば集落に最近来たばかりの人が「無農薬でみかんを作りたい!」と言って大騒ぎになったことがあります。

もちろん良い面もたくさんある有機栽培。こんな事情もあるんだ、ということを知っておくとトラブルを防げたり人に優しくできるかもしれないので一つの事例としてご紹介しますが、農薬を使わないということは「疫病や虫が隣の畑に広がるかもしれない」ということ。

たとえば、みかんの木は消毒しないとみかん蠅という虫がわく可能性が高まります。近くにある畑のうち、どこかで消毒忘れがあったり、無農薬で管理が悪かったりすると、虫が自分の畑に広がるのではないか、と心配する方から聞きました。どんな作物でも、似たような話はあるんだろうなぁ、と。

もし仮に栽培技術がとても高くて対策もしっかり講じられて、そういった事実になりにくかったとしても、近隣の人がそういう心配をしていたらお互いよく話し合う必要があったりする。

そういったコミュニケーションを大切にできると、トラブルには発展しにくいのではないか、とも思うのである。農作物も海産物も「産地としての正義」もあるんだと理解するのも大切なのだ、と。

こういう事例があったときに、普段から行事や運営に参加していたりコミュニケーションをとっていると「知らんだけだから教えとこう」となりますが、

あまり見かけなかったり拠点が別だったりすると、結構こじれたりするのです。言われる方も、受け入れやすさ、調整や説得のしやすさが違うのではないだろうかとも。

『都市部の暮らしから見ると、面倒だったり、無駄だと思えたり、もっと良い方法があると思えることでも、実はその裏にはいろいろな背景、理由、理屈があり、自分の常識と異なる部分があったとしても一旦は「どうしてそうなるんだろう」という事情や背景に思いを寄せられること』が、大切なんだろうなと、強く思います。

それから、立場が異なれば正義も異なります。争いというのは「正義VS正義」のときに大変なことになるものですが、そんなときにも相手を「悪」と両断するのではなく「相手の正義」にも一度「納得できずとも理解する」という行動が必要になる、ということも不可欠なのではと。

誰かが気付かぬうちにやっていること

住んでいる場所のメンテナンス(具体的には草刈り、水路の掃除など景観を守ること)や、災害など助け合いが必要な場面において、人がいない大変さたるや。 人は本来的に助け合わねば生きていけぬ弱い生きものです。

モノやサービスが豊かになり「誰かが気づかぬうちにやってくれている」ことが増えていて、 特に都市部と田舎を行き来していると、生活拠点を自分でメンテナンスする、ということにイメージがつきにくく、自分ごとになりづらいことも確かです。

多拠点も結構なことではあるのですが、その拠点を日々メンテナンスし、住み心地の良い状態に保っている人が実はいて、そういったことに気づけるとさらにステキでお互い尊重し合いながら生活ができるのではないだろうか、とも。

足りないのは、拠点をメンテナンスする人

どんなに集団から人が減ろうが、良いところだけつまみ食いしてサッと他の拠点に移ってしまう人と、自分だったら信頼関係は築けるのだろうか、という点をイメージしてみると分かりやすいとも思います。

スポーツの試合に例えると、試合にだけ参加する人と準備から日々の雑務まで面倒なアレコレまでやる人、というもの。 拠点をメンテナンスする人が減ると結果的に2拠点居住や、多拠点生活のように多様なライフスタイルが実現しにくい世の中になってしまいます。

「良いとこどり」も楽しいけれど、長い目で見ると「面倒ごとを引き受けてみる」というスタイルも積極的に推奨する人がいてもいいのではないか、と考える今日この頃でした。


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