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#85.『人の幸せと比べる』 ヘタレなオレのエピソード

このnoteは、自分の弱さや恥ずかしい部分を率直に表現し、それを受け入れることができれば、人生の質が高まるのではないかと思い、100日間書くことにしました。

今日で85日目。

今日のヘタレなオレのエピソードはこちら↓↓


【人の幸せと比べる】


幸せは、人と比べるものじゃないよ。


そう人には言っている。

研修でもよく話している。


けれども、最近改めて自分の幸せとは何だろうか?


自問自答する時間をとっていた。



これかも、あれかも、自分の幸せとは何かをいろんな角度から考え


言葉にしようとしていた。


けれど、なかなか言葉にできない。



そして、これだー!


と思ったのは、いまお世話になってるメンターが自分自身の幸せを定義している言葉だった。


あまりにも良い定義すぎて、あー、これがオレの幸せだな。


そんな風に思った。


これ以上、良い定義が見つからないくらい洗練された定義だった。

人の幸せって、こういうことだよな。


人が幸せを感じる時に、共通した普遍的なものに思えたのだ。


だから、これがオレの幸せだなと。



だって、今のオレより、すごくそのメンターの方が幸せそうだ。


だから、きっとそこに本当の幸せがある感じがする。


そう思っていたのだ。


けど、それは、自分の幸せに向き合うことを避け、その幸せそうなメンターの感じている幸せを、自分の求める幸せだと思おうとしたのだ。


そのメンターは、言ってくれている、幸せは人によって違うから、あなたの幸せを見つけうようね。と。


それなのに、自分と向き合うのを、自分の幸せを見るのを避けていたのだ。


なんとヘタレだ。



けど、今日そのメンターと話をする中で、


自分の幸せは、やはり自分の中にしかなくて


そして、その幸せは、どこか遠いところにあるのではなく、何かができるようになった先にあるのではなくて、何かを手に入れた先にあるのではなくて、


今感じていること、今すでにあるものが幸せだと、思うことができたのだ。


そうか、比べなくていいのかと。


なんか、そんな風に肩の力が抜けたのだ。


そうすると、今あるものが見えてくる。


今ある環境、今の自分、今持っているもの、そこに自分が幸せだと思うものがあった。


そう感じたのだ。


どこか、別のところにある、そんな風に思っていると、ない前提で自分を、環境を、世の中を見てしまう。


そうすると、他の誰かが幸せそうに感じる。

そこで、人の幸せと比べてしまっていたのだ。


これまでのnoteで、たくさんヘタレを書いてきたが、自分はヘタレなところがたくさんある。

だから、こんなヘタレでは、幸せを感じれないんじゃないか。

ヘタレをなくさないといけないのではないか。


どこかでやはり、そう思っていたのだ。


けど、ヘタレも含めて自分で、これまでそのヘタレと共に生きてきた。

そのヘタレがあったから、今の自分がある。

たくさん得てきたものもあるし、失ってきたものもある。


確かに失ったもの、ないものを数えるとキリがない。

けど、得てきたもの、あるものを数えてもキリがないのだ。

あるものは、意識して見ない、ないものの方に目が入ってしまうから。


得てきたもの、あるものを見てきてなかったのだ。


今日、自分が人の幸せと比べてしまっていることをメンターと話している中で自覚して、


そして、自分の幸せは今の自分の目の前に、自分の中に、あるのだなと気づかせてもらって、何だかとても幸せを感じている今である。


改めて、人生の師(メンター)、人生の先輩、先ゆく人というのは、すごいなと感じた日であった。


そう、ヘタレな自分は、人にお世話になって生きていくのだな


これが、自分の人生であり、こうやって生きていくことも含めて自分の幸せだなと感じたよ、というお話でした。


改めて、ヘタレとともに生きていこうと思ったよ。




最後までお読みいただき、ありがとうございます。

残り15本、いろんなヘタレなエピソードを書いていこうと思います。

よかったら、また見てみてくださいね🍀

SAKAMO / 坂本岳之

読んでいただきありがとうございます。もし心に残る言葉があれば、サポートしていただけると嬉しいです。今後も応援を励みに書いていきます。