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231203 はたちの君へ

先日、「自己とはなにか」について大学の後輩たちにお話する機会をいただきました。

その時の内容をここに残します。


今日は自己とか個、関係性についての私の考えを少しお話ししようと思います。

何をお話しようかと考えて、私がみなさんと同じくらいの大学2.3年生のとき何を考えていたかを思い返してみました。それから今日に至るまで、色んな人と色んな話をして、考え方が変わったり、世界に対する解像度が上がったりしたなと思います。今日のこの時間もみなさんと私にとって、その一端になったらいいなと思います。


大学2.3年生のとき、自分ってなに、私の個性ってなに、と悩んだことが私にもあります。

そのとき私が書いた日記を少し読みます。

「死んでもいい」と感じることは何度もあったけど、今までで一番柔らかくそう感じている。いま、底に落ちそうな誰かの手を取って代わりに私が落ちて、その人が助かるならそうしたい。悪意の刃を向けられている誰かに被さって盾になれるならそうしたい。ヒーローになりたいわけではなくて、この身を賭して誰かの命が延びるなら、いまは迷わずそうしてしまうだろうなという危うさを自覚している。やりたいこともあるし、会いたい人もいるし、行きたい場所もある。嫌な言葉を浴びたわけでもない。けれど、死にたくないと思えない(この表現が一番しっくりくる)。なんでだろう。


こう感じるのはなぜなのか自分で考えたことも残していました。

自己以外かつ一時的な願いしかないのはつまり、自分の本質的な価値を見いだせていないということ。価値がない≒存在意義がない。自分の価値が分からないから死にたくないと思えない、ということか〜となんか腑に落ちました、
最期に誰かの身代わりで死ぬことによって人助けという役割(価値)が生まれるから、そこに期待しているのでしょう(結局それも対外的なものだけれど)


私にもこうやって思い悩んだことがあるし、自分ってなにと迷うことはこれからもあるかもしれません。

でも、こう感じていた私が、意見を交わして経験を積んで、自分なりに納得したのは、

「確固たる自己などない」

ということです。


生きている意味や自分の価値など、必死になって自分の内側を探したところではなからそんなものはないのだと知って「なーんだ」と思えるようになりました。


絶えず外部と接しているのに、変わらない確固たる自己があるほうが不自然じゃないですか?

変形したり揺れたりしている心のどこかで変化しない部分があったとしてもそれは小さな欠片なのに、私たちはそれを探して見つけては核だと信じようとする。そうやって信じた「核」は信じることによって願望や感情に覆われて、実際の自分の姿とはかけ離れたものになっていく。そうして自分で生んだギャップに、自分が苦しめられるのです。


人は「ない」ことを悲観しがちだけれど、「ない」ことを前提に生きたほうが楽なこともある。


自己とは絶えず変化するもので、外部と関わり合うものです。

外部との関わりについて、ここで一つのテキストを紹介します。

「急に具合が悪くなる」という本で、これは哲学者の宮野さんと人類学者の磯野さんという方の往復書簡をまとめたものです。宮野さんはガンを患っていて、病気が進行する中で、二人は日常のことから病気のこと、お互いが研究する学問のこと、色んなことを手紙でやり取りしていきます。二人は「ラインを描く」という表現で、関係性について触れています。

みんなさまざまな場でいろんな形の当事者でしかないとき、いったい「当事者」って何なんだろうと思うのです。
(中略)
たとえば、私はガン患者当事者なのだろうけれど、私は患者であることを100パーセント引き受けきれていないし、それを引き受けることが大切だとも思えない。そんな当事者に勝手にラベリングされて落とし込まれたくない、ということはここまでの書簡でも書いてきたことです。
(中略)
私が求めることを磯野さんが、的確に表現してくれています。
関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。

『急に具合が悪くなる』宮野真生子、磯野真穂


私たちは様々な局面で様々な当事者性を抱えて、戸惑って、生きています。その自分の戸惑いや、関わる人と描くラインの揺れも、すごく自然で当たり前のことです。


私は最初に読み上げた日記のように、自分の価値が分からなくて悩んだこともたくさんあります。

でも他者と言葉を交わすことや知らない場所に飛び込んでみることで、自分の世界がすごく広がったと思っています。そしてそういう自分がいまここにいること、これから看護師として人と関わっていくことが、社会にとってプラスになると確信しています。すごく大袈裟でとてつもない自信のように聞こえるかもしれませんが、これくらいポジティブに楽観的に生きてみても良いと思います。せっかく言葉が使える人間に生まれたので、対話をして、揺れていく自分も楽しむことが、私のモットーの一つです。


自分について考えるとき、内に内に目を向けてしまいがちですが、外側の揺れを排除してしまわないで、見つめてみるのもいいかもしれません。

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