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承認欲求とわたし。

思い返せば、昔から何かを作り出すのが好きだった。
工作や裁縫や、詞や小説や、フリーペーパーやSNSや。
つくったり、発信したり。
そういう自己主張みたいなのが好きで、思えばそれは全て承認欲求の塊だったわけだけど、残念なことにどれひとつとして上手くはないどころかそもそも芸術的センスも手先の器用さもないので、自画像は大木凡人だし、羊毛フェルトのぬいぐるみは不細工にしかならないし、書いた文章の類いは黒歴史にしかならなかった。
そんなものは結局誰の目にも止まらないから、結果、誰にも承認されず、結局手を変え品を変えが毎度のようにループするわけなんだけど。

それでも私はきっと何かをつくらずにはいられないし、つくったからには褒められたいし、褒めて欲しくて発信し続けるわけなんだけども。

思えば私は何かを発信してる人に常に憧れていたように思う。
そのきらきらとした世界に飛び込みたくて、もがいてもがいて、あの人のようになりたくて、センスの人になりたくて、常に何となく何かに枯渇している。
漠然としすぎていまいち掴みとれず、もしかしたらすでに手の中にあるのかもしれないけど、結局またもがいてしまうのだ。
私だって、私が作り出したクソみたいなモノたちにだって、もしかしたらどこかの誰かは憧れてくれてるかもしれない、なんて1%くらいの、いや3%くらいの希望は持っているけど、結局そういう人たちは大人だから誰かを羨んだりしたってそれを口には出さないし、そもそもだからって自分を卑下したりもしないんだと思う。それでいてほどよく自分の作品に自信を持っていて、そうしてキラキラの世界にするっと入っていってしまうように思う。

どうして私にはそういうバランス感覚がないんだろう。

みんなは承認欲求とどうやって戦ってるんだろう。
もちろん何をやっても上手なセンスの人たちはそんなことは微塵も思ったことがないのかもしれないけど、世の中には目ん玉2つと鼻だけで構成される顔すら何故だか妙ちくりんになってしまう人もいるのだ。
おしゃれな文章を書きたくても、ただのナルシストにしかならない人もいるのだ。

いつだってそうなんだ。
見てるだけでは物足りなくなって、とにかく見よう見まねでやってみて、やったからには見てもらいたくて、出したからには褒められたくて。熱量のバランスがおかしくなる。
こんな状態が続けば、私はきっと定年後にひっそりと自費出版で自伝とか書いちゃう老人になっちゃうのかもしれない。おそろしや。

あ、ちなみにこれを書いていてひとつ恐ろしいことに気づいてしまいました。

わたしは、もしかしたら褒められたあと誰かの上に立ちたいのではないただろうか…ようするに、承認欲求というのはマウントのための足掛かりであって、私が真に欲しているのは周りに対するマウン…

あああああああ!!!自分に絶望するところだった!!!
すみません、真っ当に生きます!


慎ましやかに!!

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