正反合で止揚する
カントは、経験論と合理論を調和させ、跡を継ぐヘーゲルが、ショーペンハウエルという希代の対立者を生み、ニーチェに繋がる──
いやいや。哲学史を披露つもりはなく、私の知識、所詮大学入試の倫理である。
原典から、厳密に学ぶ必要も感じなく、何方かと議論する時間も持たない。競い合う趣味など、もちろん皆無なのである。
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私にとっての関心は、人生で起こる現象が、どう理解できるかという一事。何を理解するのかで、次の世界は決まっていく。
そう感得ているのだ。
特別な思想に傾倒したり、宗教を信仰したりという興味はない。敢えて言うなら、我流の思想、自家製宗教である。
参考となる思想や著作はあるけれど、原則、自分の考えを確立させることが興味深い。
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ありがたいことに、関心をお持ちの方がいらして、お読み下さるものだから、調子に乗って随分と書かせて頂いた。
最近は、ファンタジーの形で、13歳コンビの少年少女と共に、人生をやり直す感覚なのである。終活と言えるかもしれない。
今回、正反合の調和、ヘーゲルの止揚を織り込んでみる。自分の思想を語る上で、とても便利な形式であった。
あるものと別のものが、対立して否定し合うのである。すると、両者が統一された時に、より良いものを創り出すのだ。
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私は道術家である。30年来、学んできた。ところで、道術には経典がない。古神道と同じく、堅苦しい規律もない。
師匠が、よく仰っていらした。何一つ誰一人でも、信じてはいけない。もちろん、師匠のお言葉でさえも──
信じてよいのは自分自身だけ。それも、頭や心の自分ではない。中心の自分なのである。細胞の隅々にまで働く法則の力だ。
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これはまた、俯瞰することに通じる。現象に対して、角度を変えて観る習慣を養うのだ。どんな意見も、まず反対を考える。
そして、プラスマイナスを相殺して、ゼロにする。一方が正しい局面はない。正義と悪徳でさえ、二項対立に過ぎないのだ。
今の世は、善悪を決めようと、足掻いて見える。正しいか間違うか。まるで、入学試験の選択肢であるが如く判定する。
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主張と反論は、調和して次の段階へ止揚していく。世界は弁証法で紐解ける。そのような観点を確立すれば、世の動向に同調しない。
そのままでよいと手放せるのだ。
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死後の世界は言葉がない。意識だけである。思いを隠す術もない。あからさま──
肉体という枷がないから、思った途端、全て叶う。邪な考えも、すぐさま反映される。
こちらの世界にいる間に、準備できるなら、死後の世界は安泰なのである。是非、お伝えしておきたい。そう感じたものだ。
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最も苦しむのが偽善者である。如何にも正義の味方を装いつつ、実は下心満載なのだ。
人類のためだと、正論を振り翳しても、死後の世界では誤魔化せない。突きつけられる。逃れられないのだ。
論理も証拠も通用しない。全てを知る法則の前に、隠せるものはあり得ない。
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冥界のことなど、死んでから考えればよい。そう言い残した聖人賢者がいる。これこそが偽善である。死んでからでは遅いのだ。
肉体という、悩み苦しみの元がある今こそ、理解する唯一の機会である。苦悩は理解の宝庫なのだ。この世の成功など、あちらへ逝けば、却って重荷となってしまう。
そう悟ったから、敢えてこの人生に、苦悩を組み込んだ。魂は既に、覚悟しているのだ。この世の常識が通用しない世界──
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とはいえ、縁あって出逢った私たち。意識が通い合うことで、苦難を乗り越えたいもの。
しみじみそう思う、秋の深まりだ。
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ではまた💚
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