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ドラマ「ガリレオ・禁断の魔術」で、女性の登場人物の描き方でモニョった点。創作ではエロよりもこういう点が気になる。

「沈黙のパレード」を観に行こうかと思うくらい、面白かった。
エンタメ創作は「自分にとって面白いか面白くないかが最も大事」と思っているので、それを覆すほどの要素でなければ特に文句はない。
文句はないんだが……ちょっと引っかかった点があるので書いておきたい。

*「ガリレオ・禁断の魔術」のネタバレ注意。

専門的な知識を持ち、しかもその道で天才である湯川が常人では解けない事件を解決していく。
「ガリレオ」はそこに爽快感がある話なので、ある程度はナルシズムと切り離せない話だ。

「禁断の魔術」では、湯川と同じくらい才能を持つ、ゆえに湯川と重なる部分が多い小柴との師弟関係が描かれている。
本来はこの構図も苦手だが、「禁断の魔術」では意外と気にならなかった。

引っかかったのは、犯人・小柴の姉と彼女?である女子高生、小柴の姉の不倫相手である代議士の妻の扱いだ。

小柴の姉は、不倫相手の代議士に見殺しにされ死んでしまう。
創作なので、「不倫をしていること」は気にならない。
気になったのは、小柴の姉が不倫をするようないい面も悪い面もある普通の人間なのに「無謬の聖なる被害者」として描かれているところだ。

この話では「小柴の姉も、そして不倫の末の死の責任を代議士にのみ求め復讐する小柴も、代議士の家族にとっては『加害者ではないか』」という視点が一切出てこない。
なぜこういう視点が存在しないか、というと、「代議士の妻」自体が話の中に存在しないからだ。
「代議士の妻」の存在は、「不倫」という言葉と代議士がしている結婚指輪にのみ、かろうじて示唆されているに過ぎず、小柴姉弟や代議士を始め、どの登場人物の頭の中からも「代議士の妻の存在」がすっぽり抜け落ちている。
このため代議士と小柴姉の不倫は、独身同士の純愛のように描かれており、登場人物たちは(何故か)そういう認識で動いている。

代議士と小柴の姉の愛情が純愛として描かれているため、小柴の姉は「聖なる被害者」となることが可能である。実際にそう描かれている。
なぜ小柴の姉は「聖なる被害者」でなければならないのか?
小柴が科学を殺人の道具にした気持ちに説得力を与えるためだ。
というより、「小柴(男)の気持ちを尤もだ」と視聴者に思わせるために、代議士の妻(女性)の存在を意図的に抹消し、小柴姉(女性)を「聖なる被害者」に仕立てている。

さらに湯川も含めて、物語の構造を性別を基軸にしてみると
「湯川(男)は小柴(男)の中に、自分と似た者を見出し、湯川にしては珍しく人としてとても興味を持ち好きな存在だった」
「しかしその小柴は、湯川から薫陶を受けていたにも関わらず、科学を殺人の道具にしようとした」
「その小柴の心情も尤もだ、と思わせるために、小柴姉を『聖なる被害者』にしている」
「小柴姉を『聖なる被害者』にするために、代議士の妻は存在を抹消されている」
こういう構図になる。
「男の才能と葛藤の表現」のために女性が存在を消されたり、無謬の存在にされてしまっている。

文字を十倍角くらいにして言いたいが、自分がもし創作において「女性の描き方」が気になり批判するとしたら、女性の登場人物を描くにあたって、「聖性」「無垢」(から生じる無力)「受容的存在」を押し付けられる点だ。


男が背負いやすい規範は「無能は悪」「弱い(無能な)くらいなら悪であったほうがいい」ということを何度か書いた。

「男の規範」(*個人にあらず)にとって「無能=弱い」は「悪であること」以上に、忌避すべきものなのだ。

だからグリフィスやバランのように、自分の弱さ、「傷ついたこと」を認めるくらいなら「悪になる」悪役が多い。

彼らが引き受けることを拒否した「弱さ」、そして弱さと紐づいて排除された「善(聖)」はどこへ行くのか。
「バランーソアラ」の対比を見てもわかる通り、「女性キャラ」が引き受けさせられることが多い。
自分を追放した人間たちを「みんな臆病なだけなのよ」と言って許し、バランを身を挺してかばい死んでいく。
「他人(男)を赦し、受け入れるだけの存在」として女性キャラが描かれる。

そうして「(能)力」によって、「悪を悪だと断じ(評価し)」倒す役割も男が担う。
弱さを拒否した悪ー弱さや聖性を押し付けられる存在ー断罪者の構図で考えた時に、「禁断の魔術」では小柴ー小柴姉(代議士の妻)ー湯川となり、「ダイの大冒険」ではバランーソアラーダイになる。

自分がもし、フェミニズムの観点で創作を問題にするとしたら、表層的なエロなどより、こういう「社会的な規範」に基づく、「女性は他人を評価・判断せず、受け入れて許すだけの存在だ」という文脈こそ批判する。(今までも批判していた。映画版「ドライブ・マイ・カー」とか。)

自分の中の「フェミニズム」は、男が男であるというだけで発揮することを期待されてきた主体性(評価・判断・選択・決断・責任を取る側であれということ)を、女性が獲得することでジェンダー規範をなくし、男女共に性別に規定されることなく、自分に合った生き方が選べる社会を作るものだ。

自分の中のフェミニズムはこういうものなので、「『それは悪である』という判断が出来ない、それを他人(男)に言わない(言えない)女性像」こそ批判すべきものだ。

「エルデンリング」は、この「文句を言わず他人を限界まで受け入れる存在」を男であるミケラが担っているのが良かった。(「無力で無垢でも愛され守られ求められる男像」も今後描かれて欲しい。ミケラは、純粋に「男」かというとあやふやな面があるが)
「貶められても、ひたすら穢れを受け入れるだけの存在であるべき」という、従来の女性の規範的な役割を押し付けられていたフィアが、最後に主体性を獲得するイベントもある。

「ジェンダー」という観点で創作を見るなら、自分が「いいな」と思うもの、従来の規範を破ろうとしているものを積極的に評価していきたい。

「禁断の魔術」では、心配している心情を利用して、警察に偽情報を流すのに利用された小柴の彼女が、そこは何も気にせず(本人が気付いていないら、そのまま利用したことなどなかったかのように側にいる小柴はどうなんだと思う)事件後に仲良く受験勉強していることにもモニョった。
女性の登場人物は、湯川と小柴の「科学への熱い思いと葛藤、二人の才能と関係性」を表現するためだけに存在する。もしくは存在しない。そんな話だった。

面白かったからいいが、個人的には女子高生の彼女が小柴に愛想をつかしてビンタをかましてくれたらもっと良かった。

◆余談

「容疑者Xの献身」の靖子は、石神のことをまったく理解できない(しようともしない)のに、自分の身の安全のために石神の言いなりになる、そのくせ石神に不信とそこはかとない嫌悪を抱いている、「普通の女性」だった。
決して綺麗なばかりではない、愚かなところも狡いところもある生身の女性に献身するところが良かった。
湯川→石神の思い入れも、石神がまったく頓着しないところも好きな点だ。

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