「男にサイゼに連れて行かれる」のではない。「男をサイゼに連れて行く」のだ。

自分は最初から「文脈としては女性向けで、女性が描いたのではないか」と思っていたので、「男の妄想漫画」として叩かれているのを見て驚いた。

この漫画を女性キャラ視点で見ると、(恋愛的な)力量がはっきりしているために脅威を感じない相手に対して、相手のことを気にせず好き勝手にふるまえる、そして自分の好き勝手なふるまいに対してさえ、相手が一挙手一投足に反応してくれることへの快感を描いている。

熊が人間相手に猫のフリをして、相手がびくびくすることを楽しむ、みたいなものだ。(*サイゼの話の続編である「ラッキーアクシデント」編では、なっちゃんは胸を触られたにも関わらず、まったく動揺せず余裕の表情で手を貸している。)

いわゆる「女性向け女攻め恋愛漫画」だ。

「巨乳パイスラで、サイゼでも喜ぶ無邪気な美少女」はリーチする層がそのほうが広がるからで、本題ではないと思う。

なぜそう思うのかと言うと、「巨乳パイスラ」が物語上、まったく機能していないからだ。


男である「りっちゃん」は、巨乳パイスラにはまったく目をくれない。

巨乳パイスラに視点が当たっているときも、意識は「高そうな服に本革のバック」に向いており、昔とは関係性が違くなってしまったのではないか、という不安や焦りに焦点が当たっている。

またその後は、ひたすらなっちゃん(女)の笑顔にばかり目を向けている。

「胸なし→巨乳」の変化があるにも関わらず、「全然変わらない」「やっぱり変わらない」と二回繰り返している。
女性キャラの外見が男キャラに対してほぼ作用せず、笑顔(内面・本質)が強力に作用するのは女性向けの恋愛漫画の文脈に多い。

巨乳という外見以外でも、この漫画のなっちゃん(女)は食べる姿にもエロさを感じない。仕草や表情に性的な要素がない(視点である男キャラが、女性を性的に見ていない)のも女性向けだと感じる点のひとつだ。

りっちゃん(男)がなっちゃん(女)に対して持っている感情は、(巨乳が目の前にあるにも関わらず)小さいころから引きずっている憧憬だ。


それに対してなっちゃん(女)は、相手が飲まないにも関わらず、一人で昼間からワインを飲んで「大人の気分」という(いささか寒い)セリフを吐いたり、「慣れていない」という相手に結局は飲ませている。
相手に一切気を遣わず、好き勝手にふるまっている感が半端ない。

「相手に一切気を遣わず、好き勝手にふるまう」のは、一緒にいる相手に対する究極の甘えであり、女性に限らず、いい大人がこういう態度を取る時は、「相手は何をしても許してくれる」という確信がある時だけだ。

男に例えると、よく批判の対象になっているのを見かける「外では愛想がいいのに、家族の前では不機嫌になる男」が近い。


この話は「なっちゃん(女)は、りっちゃん(男)が自分にベタ惚れで何をしても許してくれることを分かっており、好き勝手にふるまうことを楽しんでいる」というものだが、文脈から女性視点を失くしている。(だから、一定の女性の反感を買ったのだと思う)。

りっちゃん(男)は、「慣れていない」と一度は断ったワインを飲んで顔を真っ赤に染めているところを見ても、大抵のことは受け入れてくれそうだ。なっちゃん(女)のほうはそれを百も承知なのだ。(だから断られても、ワインを勧めることが出来る)


「女性向け女受け恋愛もの」では、りっちゃんのような男が相手役になることはあり得ない。だから「モブのような男に、サイゼに連れて行かれる都合のいい女性」のように見えるのだろう。

だが「弱い男に嫌いにならないでと縋りつかれたかった」女攻めものでは、こういう男を「サイゼに連れて行って」好き勝手振る舞う、そんな自分を見てあわあわしたり頬を染めたりする男を「可愛い奴め」と楽しむ、ラッキーアクシデントに動揺してうろたえている男を余裕の表情でフォローする、そんな恋愛こそが萌えなのだ。


ワインを勧めても断れない相手であれば、この後何かアクションを起こすことは考えにくい。
ここからどういう展開に持っていくかを考え、判断し、選択するのは女性のほうなのだ。


「それなりの店をきちんと予約をしてくれていたら、自分のことを評価していてくれ、サイゼだったらその程度の女と思われている」

というのは、常に自分(女性)が「評価される側である」という発想だ。

「サイゼだったらその程度の女」と思われていようが、相手の思惑などどうでもいい。
自分は自分のしたいように振る舞う。
自分がやりたいように振る舞うことで、「落としたい女性だったらそれなりの店を予約しなければ」「この女程度ならば、サイゼでいいだろう」という評価軸そのものを拒否する。
「男が評価する側だと誰が決めた?」と思うのが女攻めなのだ。

なっちゃん(女)はりっちゃん(男)が自分をどう評価しているかなど、一切気にしていない。
りっちゃん(男)が自分をどう思っているかはどうでもよく(というより既に熟知しているので)「自分がりっちゃんをどう扱うか」にしか興味がない。


「自分が相手をどう評価するかが主眼であり、相手の評価などどうでもいい」(ただもちろん、相手が自分を評価しなければミスマッチなのでそれは受け入れる)

自分は主体的に生きる、とはこういう風に「自分の評価、自分の判断、自分の責任で行動すること」だと思っているので、女性が評価をし、行動し、判断する側である「女攻めもの」があたかも男にとって都合がいいものかのように言われることに驚く。

「予約をした高級店に連れて行かれる女性は評価されており、サイゼに連れて行かれる女性は評価されていない→結局は、女は男に評価を下される側である」という発想そのものに違和感がある。

化粧や準備でお金がかかると言うが、それも男のためにしているわけではない。
服や化粧は女性自身の(目的の)ためのもの、自分が自分のために、自分の判断、自分の意思でするものだ。


「女性が評価する側(主体的)」の文脈で読めば「この程度の男はサイゼでいいや」になるのに(本編もサイゼを選んでいるのは、女性であるなっちゃんなのに)、なぜ「連れて行かれた」と見えてしまうのか。

なっちゃんはサイゼに連れて行かれたのではない。
相手がワインを飲まなかろうが、自分が飲みければワインを飲み、自由奔放なふるまいで相手の余裕をなくさせ、笑顔ひとつで妄想まで引き起こし、「慣れない」と断られても、ワインを飲ませて顔を真っ赤にさせる主体なのだ。

「男が私をサイゼに連れて行く、ということは私を評価していない」と怒るのではない。
「私が選んだ大好きなサイゼで好きなワインを飲んでミラノドリア喰っているだけで、連れて来た男が私を見て頬を染めて俯く」と思う。

女性は、男にサイゼに連れて行かれる客体ではない。
自分が選んだサイゼに男を連れて行く、主体なのだ。

そう思っていたい。


余談:「ラッキーアクシデント」編の話の流れは好みだけど、若干この後「女受け」に行ってしまいそうな予感がする。(あくまでバランスの問題なのでいいんだけど)

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