「陰謀論」に巻き込まれないために、「世界の複雑さに耐える心」を大切にしたい。
中央公論12月号に掲載している大澤真幸「共通の枠組みなき世界で 人々の不遇感が信心を強化する」が面白かった。
その中で、ある程度荒唐無稽だとわかっていてもその情報を信じ、拡散する状態のことを「アイロニカルな没入」と表現している。
原因がわからないことは解決することが出来ない。
だから端から見たらどんなに無茶苦茶だ、理不尽だと思うものでも「原因を明らかにするストーリー」を生成してしまう。
今の時代は、情報量が余りに膨大なために、情報を得ることで安心するのではなく逆に不安が生まれたり、増幅してしまうことがある。
どれだけ情報の総量が増えても、人間が見ること、認識することができる情報量は増えない。どの情報を見るか(クリックするか)を選ぶことになる。
その時に「自分が理解できる、安心できる、不安の原因がわかる全体像」を形成するような情報(ピース)を知らず知らずに選んでおり、全体像を知るためにピースを「見ている」つもりが、いつの間にか安心する全体像を形成するためのピースを「選ぶ」という風に転倒してしまうのではないか。
陰謀論が厄介なのは、陰謀論の正しさを証明するのではなく「既存の世界観では概ねそうだが、百パーセントそうだ、正しいとは言いきれない→言いきれない点では陰謀論と同じである」ということを根拠にしているところだ。
その根拠に基づき、長い歴史の中で批判や反証を繰り返して、社会の合意の上に積みあげられた「事実の検証システムそのもの」と、「〇〇さんが言っていた言葉」が世界観を構成するフレームワークとして等価だと判断し、相対化してしまう。
多くの場合、「〇〇さん(かその大元)」は既存の思考の枠組みを揺らがせることを目的としている。
そのためわかりやすいように、短いセンテンスから出来た強い言葉、耳に残るようなワンフレーズを符丁として繰り返す。その繰り返される符丁によって、確かだと思うものに寄り添いたい人に一体感を与え、世界を形成する。
複雑さは「曖昧な情報が多いと不安になる人」にとっては邪魔なので、なければないほど良い。
地下鉄サリン事件以後のオウム真理教の信者を追ったドキュメンタリー「A2」で、「麻原を信じるのは、彼だけが自分を解脱に導いてくれる存在だからだ、他のことは関係がない」と言い切っている信者がいた。
「自分の存在を確かにしてくれる」という主観的なストーリーに勝てる客観的な論理はこの世に存在しない。
そのため対策を見つけるのは難しいと思っていたけれど、「人々の不遇感が信心を強化する」の中では対策の一案として、「敵がどこにいるのか」という思考ではなく、「敵の中にいる味方を探す」という風に思考の枠組みを転換することで、生成される世界観を変えればいいのでは、という提案をしている。
「自分を取り巻く状況の原因」を探すのではなく、「自分の状況がどうすればよくなるのかという解決方法」を探す。
「敵(原因)を探すのではなく、味方(より良い結果)を求める方向に思考の枠組みを『意識的に』変える」というのはなるほどなと思った。
落ちている時、疲れている時、不安的な時、状況が困窮している時は、世界の複雑さに耐えることは凄く難しい。
自分もそう感じることが多々ある。
ただそういう時でも、特定の記号にすべての原因を押しつけたり、誰かを排斥すればすべての問題が解決するという「わかりやすいストーリー」に巻き込まれないことは重要だと思う。
陰謀論とまではいかなくても、その問題の背景への理解がない、理解しようという試みも事態の打開策を考える風もなく、ただ特定のものに対する符丁を繰り返すだけの言動からは距離を置く。
今後はそうしていこうと思う。
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