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創作における「解釈違い」について。

あくまで「個人的にこう考えている」という話だけれど、その「個人的」な範疇内であれば、かなり強固にこう考えているという面倒臭い話。

前段として。
自分の中で「考察」と「感想」は明確に違う。真逆のものだと思っている。

「考察」は作内の情報から帰納して、その作品(や登場人物)が、どういう法則性で成り立っているか、その法則によって作内世界がどうやって動いているかを見る。
そしてその法則性に則って、作内に表れている事象がどういう意味を持つかを考える。

・作内情報から帰納→法則を察する→法則に則って演繹する→その事象の意味を察する→その意味を情報として帰納して、法則の可否を考える。

考えている途中で、作内の事象で説明がつかない箇所があれば(あるいは他の情報と矛盾が生じるのであれば)その法則が間違っている。そういうフィードバックに沿って、また一から考え直す。
その繰り返しで、作内の世界観や底に流れる明示されていないルール、作内描写や事象の意味を探るのが「考察」だ。

自分は創作における神は作者ではなく、物語の底に流れるルールだと思っている。このルールが創作の世界を構築しているからだ。

創作は「舞台が現代だから現実の法則で動くとは限らない」「キャラの気持ちが強固な法則として働く場合がある」「創作内描写が一層で構成されているとは限らない」など、法則自体は何でもアリである。
ただその法則によって、作内描写(物語の因果)は必ず全て説明できる。
「考察」という場合は、その創作内で世界観を構成しているルールに沿って解釈しなければならない。

「考察」とは違い、創作内のルールではなく現実にいる読み手が「その認識で解釈する」のが「感想」だ。

まとめると
「考察」→その創作内の独自の法則を見つけ、その法則に則って作内の事象の全てを解釈する。
「感想」→読み手個人の認識によって、作内の出来事を解釈する。
こういう違いがある。

自分の認識と「作内描写から帰納されたルール」がぶつかったときに、前者を優先させるのは「感想」である。
「考察」は「解釈違いは生じるはずがないもの」であり、「感想」はそもそも「違う解釈を述べるもの」だというのが自分の考えだ。

自分が創作についての感想(広義)で「面白い」と思うのは、「考察」と「感想」の切り分けが出来ているものだ。
特にきちんと「考察」をしたうえで、それに対して感想なり意見を述べているものを読むと、テンションが爆上がりする。

逆に駄目だと思うのは、「特に根拠なく物語内の事象の意味を決めてしまい、それを土台にして感想なり意見を述べているもの」ものだ。こういうものは、自分の中では対象となる創作を「読んで」すらいない。
「それでは、あの描写やあのセリフやこのシーンや、この展開が説明がつかない、矛盾が生じるのでは」とモヤモヤが止まらないが、そんなことを言うわけにもいかない。
自分にとって「解釈違い」とは、このモヤモヤと折り合いをつけるための概念である。

以下は昨日、目にした「解釈違い」の事例についての感想。

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