子供のころ「自分の正しさを声高に主張しながら、自分が興味がないことや都合が悪いことは前提をすり替えたり矮小化したりする大人の言動」に怒りを抱いていた。

 最近「不適切にもほどがある」の批判記事が目につくようになったあと思ったら、名前を見たら両方同じ人が書いていた。

 前者のFRAUの記事のタイトルは「視聴を脱落する若者がいる理由」となっており、その根拠としてこういうことをあげている。

先日、ある媒体が主催するドラマ座談会に参加しそこで、『ふてほど』は40〜50代以上が盛り上がっている一方、20〜30代の若い世代で脱落者が多いという話になった。昭和あるあるのコネタが理解できないからかと思ったが、話を聞いていくと、「差別やハラスメントの描写を見ていられない」という理由が多かった。

(太字は引用者)

「そうなのか」と思って少し調べてみたら、

さらに個人視聴率を細かく見てみると、このドラマを最もよく観ているのは、昭和期を全く知らない若い女性であることが分かる。F1(女性20~34歳)と呼ばれる視聴者層である。F1層の個人視聴率は4%前後と極めて高い。「さよならマエストロ」のF1層の約2倍もある。

(太字は引用者)

 目が点になった。
「FURAU」の記事は2月23日付、デイリー新潮のほうが3月8日付の記事だ。

「自分の観測範囲=社会」と思ってそれを「正しい根拠」にして「社会としての意見」として発信する人はいる。
 ひどい時は「私の願望=社会」を根拠(?)にして「社会としての正しい意見」が述べられていることさえある。

 私がこう望んでいるから社会の大勢もこうである。社会の大勢がこうであるから、創作(個人の領域)はその影響を考えなければいけない。

 普段ならば「こういう言動があるのは仕方がない」と思いスルーするが(「ふてほど」は未視聴だし)冒頭にあげた文春の記事のほうに引っかかる箇所があったのでそのことについて書きたい。

 こういう言説の特徴としては「社会=自分」なので、自分が興味がない問題は社会においても問題として存在しないものとする。
自分が興味なかったり、自分が受け止めなければならない問題は矮小化して(社会問題として扱わず)スルーするのだ。

 こうして「ふてほど」に対して批判的な声が大きくなる中で、「もともとクドカンは、男子高ワチャワチャノリが大好きなホモソドラマの人だよね」という“擁護”とも“批判”ともとれる声が増えてきた。これは確かに一理ある。長瀬智也の出演作品に代表される、男くさい、男だらけのホモソーシャルを魅力的に描くのがクドカンの得意技であることは間違いない。

(太字は引用者)

 長瀬智也はクドカンのドラマに何作品か出演しているので、どれを指しているかはわからないが、特定していないのですべての作品を指すと仮定する。
「社会の影響」を前提とした時に、大人が「IWGP(ドラマ版)」を「男子高ワチャワチャノリが大好きなホモソドラマ」と語るのは明らかに矮小化だ。
 
桐野夏生の「路上のX」を「女子高生たちのイチャコラソフト百合話」というようなものだ。

 どちらも大人(社会)に傷つけられ不信感を持ち、周縁に追いやられた子供たちの互助システムの話だ。 

「創作は創作で現実とは関係ない」という前提で「男子高ワチャワチャノリが大好きなホモソドラマ」というのは構わない。
 ただ現実の社会問題の視点を入れて考えれば、「IWGP」は「社会(大人)の規範」の中で生きることができない、社会と反社会の両方からつぶされそうになっている子供たちがどうお互いを守り合って生きているか。
 その構図を描いている話だ。(「IWGP」と設定が似ている「木更津キャッツアイ」は、うっちーは何らかの困難を抱えているのが垣間見えるキャラだし、アニは家庭内で無視されている)

 大人(社会)から見捨てられ頼れない、それゆえに大人に強烈な不信感を持っている少年たちが、その気持ちを別の大人(反社会)に利用されないようにいかにお互いを助けながら生きのびていくかという構図が根底にある。サルのように実際に「そちら側」に行ってしまった人間もいる。
 社会によっては守ってもらえない、むしろ疎外されてきた彼らを、キングは「悪いことすんなって言ってんじゃないの。だせえことすんなって言ってんの」という社会とは別の規範を作ることで、社会と決定的に対立しないように、反社会的なものによって食い物にされないように守っているのだ。
「鉄血のオルフェンズ」がそうだったように、社会と決定的に対立すれば確実に潰されるからだ。(「IWGP」では警察署長の横山がそうしようとした)
 だからオルガもキングも会社を作って、仲間たちを社会に引き戻すことで守ろうとする
 彼らは社会(大人)に対して強烈な不信感を持ちながらも、それでも最終的には社会と宥和して生きて行こうとする。

「教育格差」「文化資本」が社会問題として語られる中で、虐待やネグレクト、引きこもり、いじめ、家庭内カーストを経験して、そういう自分たちをすくい取ってくれない社会(大人)に不信感を抱き、周縁部に寄り集まらざるえなかった子供たちの互助システムの構図を「男子高ワチャワチャノリが大好きなホモソドラマというのも一理ある」としてのみ語るのは、「創作はいかなるものであれ現実の社会問題と接続しうる」という前提で見るならば明らかに問題だと思う。

 現実の社会と接続して大人として見たら(しかもある程度恵まれた環境で育ち社会に出たのであれば)「ああいう状況にいる子供たちを社会がどう包摂するか」という自己内省抜きにしては見られないはずだ。 
 自分が内省を迫られる構図の時は、創作はあくまで創作としてしか見ずに「男子高ワチャワチャノリが大好きなホモソドラマ」となってしまうのだろうか。 

 自分が子供の時に疑問や怒りを持っていたのは、正に冒頭に挙げた記事に代表されるような、「自分の主張は正しいと言いながら、他人(こちら)が重要だと感じることは、平気で前提をすり替えたり矮小化したりする、そのことを気付くことすらしない大人の言動」だった。

 大人になった今もおかしいなと思うが、あの頃と違って怒りはわかない。
 自己を相対化する視点がない→その結果「社会=自分」のように自分の感覚を無意識のうちに絶対化してしまうのではないか、だから「自分の主張のために都合よく前提をすり替える」ようなことをひとつの記事の中でしてしまう(他者の視点だと矛盾があることに気付かない)のかな、と今のところ考えている。
 そういう視点がないのであれば指摘しても仕方がない。
 
ただ読んでしまったので「ここがおかしいよな」と確認のために書いておこうと思った。

「IWGP」と「鉄血のオルフェンズ」は構図が似ていると気付いたので、悪いことばかりでもなかった。
「オルフェンズ」の最適解が「IWGP」だったのではないか。
 そう思いついたので、考えがまとまったらそのことについて語りたい。

*誰か同じようなことにキレている人がいたなと思ったらこの本だった。


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