フェミニズムをよく知らない自分が、「フェミニズムが傷を抱えた人間のセラピーになることについて」を読んで考えこと。

気になった上の増田について考えたこと。
フェミニズムの専門家やフェミニズムを名乗る人たちの言動を見て出来たイメージを基にした、あくまで個人的な印象論だ。

本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。

(上記増田より)

フェミニズムを名乗る人の中には、他人の話を聞くには怒りが強すぎるのではないか、と感じる人がいるので増田の言っていることもわかる。
人間は自分の感情で頭がいっぱいになっている時に、「他人」という自分と違う要素を受け入れることは難しい。
自分の経験からの怒りのままに、他人に対して強い言葉を使うことは避けるべきではないか、と自分も思う。

ただ一方で、一般論として

自分が今、「冷静な研究者」か「傷つき怒れる当事者」かということを判断できるのだろうか? 

(フェミニズムに限らず)周りから見ると「この人、この問題に関して何か強い感情があって冷静さや公平さを欠いているな」と思うことは間々ある。(自分もあると思う。)

仮に「冷静な研究者」と「傷つき怒れる当時者」が分離可能だとして、それを本人が判断できるのか、他人が判断するにしてもその他人の判断は合っているのか、合っていたとしてもそれに従うかは本人の自由ではないか、など疑問がわく。

もう一つは、「冷静な研究」と「当事者としての怒り」を分離しないところにむしろフェミニズムの肝があるのではないか、という印象を抱いている。(ただの自分の印象と推測。以下は同じ)

この社会で女性として生きる時に覚える違和感(怒り)に言葉や理を与えるのがフェミニズム(の役割のひとつ)なのではないか。

「この社会」というのは(性別の枠組みでいえば)「男が作った社会」であり、そこから生まれた言葉は基本的には男のためのものだ。

金子は女たちを「かわいい女」として抑圧してきた森に対し逆に「かわいい」の語を投げつけるのである。
男女間の支配関係の語としてのみ作用してきた「かわいい」を最高指導者である森に投げ返した彼女の発言はそれこそ革命的、なものだったとぼくは思う。
この金子の「かわいい」の語法は重要である。
何故なら、この「かわいい」はそれまでの「かわい子ちゃん」ー「かわいい女」という男女の支配関係を肯定する語として連合赤軍内部で使われてきた「かわいい」とは決定的に異なるからだ。(略)
女性を支配することばとしてあった「かわいい」が、逆に女性たちが彼女をとりまく世界を「かわいい」で支配し直してしまうことばへと変容していったのである。

「『彼女たち』の連合赤軍ーサブカルチャーと戦後民主主義ー」大塚英志 ㈱KADOKAWA P25-P26)

「『彼女たち』の連合赤軍」では「かわいい」を例示に上げているが、社会で被支配の立場にいる女性は、女性を解放するための言葉を持っていなかった。(連合赤軍事件の主犯の一人である永田洋子も活動を通して女性解放を目指していたが、そこで使われる言葉が「何か自分の考える女性解放とは違う」という違和感を自著の中で述べている。)
男が女性を支配するために機能していた「かわいい」という言葉の意味を、女性たちは時間をかけて変容させ、自らを支配するものから自分が世界を支配することが出来るもの(コントロールすることが出来るもの)へ変えていった。


増田は自分が精神障害を持っているという流れから「セラピー」という用語を用いている。
精神障害は、社会という枠組が前提となって存在する「病」だ。

アメリカ精神医学会によれば著しい苦痛や社会的な機能の低下を伴っているもの

Wikipediaより

このことはフーコーが「狂気の歴史」で「狂気は社会によって便宜的に作られた病」という風に言及していた。(うろ覚えだが、大意は間違っていないと思う)

ここからはそのあたりを踏まえた自分の個人的な意見になるが、「(病としての)狂気と正気の境は、社会を基準に分離している。

「この社会で女性として生きる違和」を女性が自分たちの言葉を獲得して主張することがフェミニズムだとしたら、「この社会が作った、狂気(怒りという病)と正気(冷静さ)の分離」という判断自体を受け入れることを拒むのではないか。
「こういう状態であれば、あなたは冷静であると判断できるから、(男)社会に向かって主張していい」という「男社会における判断」と戦ってきたのがフェミニズムなのでは、と思った。

以前、フェミニストの学者が「自分はどんな人であれ『フェミニスト』を名乗る人は切り捨てたりはしないし、その人を批判するとすれば『フェミニストとして』批判する」と言っているのを見たときに、自分も増田と同じように「どう見ても、個人的な怒りに囚われて感情的になっている人を分離しないことは、フェミニズムにとっても害じゃないか?」と不思議だった。

だが今回、もう一度考えてみて、その「冷静さ/冷静さを失っている」という既存(男)社会のジャッジそのものも戦いの対象である、と考えていると理屈としては納得がいく。(理屈としては)

自分も含むフェミニストではない人間からのフェミニズムそのものに対する批判は、フェミニストから見れば、既存の社会の価値観から生まれた批判(言葉)であり、無意味であるということかなと思った。

これは自分がフェミニストを名乗る人の色々な言動を見てこういうことかなと思ったことなので、正しいかはわからない。

本当は本などを読むといいのだろうけれど、どうも「自分の中の感情に理を与えるもの。ゆえに行動と学問が不可分である」ように見えてしまい、これが自分の精神の骨格?に合わない。

だから増田の言いたいことも分かる。

自分は「フェミ」「表現の自由戦士」(この名称も何だかな)のどちらの意見も「わかる」と思うこともあれば、「それはおかしくないか」と思うこともある。

「陰謀論」の話の時に描いたが、「自分が本当にそう思う」「自分なりに誠意をもって調べたり考えたりしてこう思った」ということ以外のものに囚われること、その「囚われたものの論理」の中に自分が閉じ込められることが一番怖い。
だから今後も「フェミだから」「反フェミだから」という軸に(それ以外の軸にも)縛られず、自分自身としてその時にその対象について考えたり、思ったことを書いていきたい。



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