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創作は、自分の思考の枠組みに作品を押し込めるのではなく、作品に自分の思考の枠組みを合わせたほうが楽しく読める。

 創作は自由に読んでいいと思う。
 だが前提が足りていないと「読めない」のではと思っている。

 以前「『金田一少年の事件簿』を読んで、『高校生がこんなに殺人事件に遭遇するわけないだろ』というツッコミは感想なのか」という話をした。
 先日、それに近い「何周目の話題だろう」と思う話を見かけた。

 新本格の草分けのひとつである「十角館の殺人」の冒頭で、登場人物の一人がその話をしている。

「僕にとってミステリというのは、あくまで知的な遊びのひとつなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理のゲーム。それ以上でもそれ以下でもない。
 だからさ、一時期日本でもてはやされた『社会派』式リアリズム云々は、もうまっぴらなわけさ。(略)
 ミステリにふさわしいのは、時代遅れと言われようがなんだろうがやっぱりね、名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒な大トリック、絵空事で大いにけっこう、ようはその世界の中で楽しめればいいのさ、ただし、あくまで知的にね」

(引用元:「十角館の殺人」綾辻行人 講談社/太字は引用者)

 トリックを主にすえて書く「新本格」というジャンルは、「ミステリーも人間を描くべきである」という主旨の下、社会的問題やそこから生まれる複雑な感情やもろもろの人としての業をミステリーに組み込もうとした「社会派(ミステリー)」と呼ばれるジャンルのカウンターとして登場した

 まとめ内の感想の対象となった作品が「トリックがメインの(新)本格」かわからない。
 なので感想自体はいいと思うけれど、まとめ内で多くの人が「ミステリー」というジャンル全体にその感想が当てはまるとしている点には首を捻った。
 自分はそこまでミステリーに詳しくないがパッと思いつくだけで宮部みゆきは人間の業を扱った話が多いし、P.D.ジェイムズやウンベルト・エーコの「薔薇の名前」のように陰鬱な内省と濃密な人間関係、社会問題や思想的な問題を含んだ話もある。
 社会派ミステリーでは「砂の器」「人間の証明」など、人の関係性を背景に組み入れた、映像化もされている超有名な作品がある。
 もしかして「ミステリー=(新)本格」だと思って話しているのか? 自分も「ミステリー=本格」と思っていた時期があるので大きなことは言えないが。

 以前「影響を受けた小説」としてローレンス・ブロックの「八百万の死にざま」をあげたことがある。

 最初読んだ時、実はまったく面白さがわからなかった。
 本格のつもりで読んでいたからだ。
 本格の読み方でハードボイルドを読んでいたのだ(二回言う)

 いつまでたっても容疑者がそろわない。
 事件に関係ない話が延々と続く。
 二人目の死者が出たと思ったので「すわ連続殺人か」と思ったら自殺だった(偽装の疑いなどもナシ)
 主人公はアル中でぶっ倒れて医者に説教されたり、アルコールの自助会に行って諭されたり、馴染みの警官と飲んだくれたりするだけで(とにかくよく飲む)一向に事件が解決に向かっているように見えない。
 一人称にも関わらず主人公の内面描写がほとんどない(ハードボイルドだからな)
 何をしているかさっぱりわからないうちに、いつの間にか被害者は恋人がマフィアを裏切ったため見せしめに殺された、ということが判明し終わる。
登場人物欄に出てこない、名前のない人間が犯人だった」ということが当時の自分には衝撃だった。
「何で『私はアル中です』って言って泣いて終わるんだ。自助会に参加しているんだから、そんなのわかりきっているじゃないか」という、いま聞くと( ゚д゚)←こんな顔になる感想を大真面目に思っていた。

 その後しばらくして「ハードボイルド」というジャンルをどういう観点で読むことが想定されているかを知った上で改めて読んで「面白い」と思ったのだ。

 読解力というものがもし存在し、それが読書において重要だとするなら、それを育てるのは経験ではないかと思う。
 勉強やスポーツ、演奏などと同じで、最初は見様見真似で型を真似る(読む)だけなので、わからなかったり面白く感じなかったりする。
 だがわからないなりに一冊読み終えると、別の本で似たような「よくわからない」箇所にぶつかる。さらに他の本を読むと分からなかったことの背景が出てきて、その時に初めて「こういうことか」と理解できる。  
 そうすると認識の幅が一気に広がって、それまではわからなかった箇所の面白さが感じられるようになる。
 その繰り返しで「読める」内容や種類やジャンルが増えていく。対象作品に合わせた読み方ができるようになることで、自分のほうでも他のジャンルの読み方を別のジャンルで試してみたりなど、一種類ではなく色々な読み方ができるようになる。
 同じ創作でも、一度目と二度目、三度目ではまったく違う読書体験が得られたりする。
 自分一人だと一本の鉄の棒でかっちりと形成されているような認識の枠組みが、本を読んでいる時はマッチ棒で作られているように広がったり、変形したり、時には立体構造の建設物になったりすることを実感できる。
 自分が読書に見出している面白さはこれだ。

 読書の仕方はもちろん自由であり、感想も人それぞれだ。
 ただ自分の内部にある認識の固定的な枠組みを変形させず(前提を受け入れず)そこに創作をただ当てはめるような読み方は、面白くない読み方を「わざわざ」している。

 自分は「創作を読む」のは凄く個人的な体験だと思っている。
 百人読んだら九十九人の感想はこうだけれど「自分は違うように読める(見える)」なら、それは何故かということを大切にしたい。
 他人とは違うように物事が見える、違う方向に感情が動く。他の人がどうでも良さそうなところで疑問や引っかかりを覚える。
 他人がどうでもいいことに自分が引っかかるから、それがまぎれもない「自分」だとわかるのだ。
 自分固有の考え方、自分固有の感じ方、自分固有の世界の見方をありありと感じさせてくれるから、創作を読めば読むほど世界が広がり読むことがどこまでも楽しくなるのだ。


「我々は、思考の次元が低すぎる。もっと瞳が必要なのだ」
「ああ、ゴース、あるいはゴスム、我らの祈りが聞こえぬか。我らの脳に瞳を与え、獣の愚かを克させたまえ」

 つまり「フロゲはフロム脳でプレイしてこそ楽しい」という話である(鼻息)

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