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主観型読書VS俯瞰型読書。どっちのほうがいいのか?

◆「主観型読書」と「俯瞰型読書」はどちらがいいのか。

「主観型読書」……自分が好きな人物、共感できる登場人物に感情移入してその視点で読む、もしくは物語の内部に自分の立ち位置を確保してそこから物語世界を見る。感想は「その話が好きか嫌いか」が主軸になる。別名「感想脳」。
「俯瞰型読書」……メタ視点(物語外部の視点)で、その物語の構造がどうなっているか、作内の事象の意味は何かなどを考えながら読む。感想は「その話がどういう意味を持つか」が主軸になる。別名「考察脳」。

結論としては「好きなように読めばいい」だ。(出落ち)

そもそも「片方の読み方だけをしている人」は少ないと思う。
ただ友達に圧倒的に主観型だ、という人がいたので、物の見方の癖によって多少偏りがあるのかもしれない。

前にも書いた通り、自分は「全体像を把握しないと部分が把握しづらいタイプ」なので創作の見方も自然と俯瞰型になることが多い。
逆の「具体的な事象から全体像を組み立てるタイプ」の人は主観型が多いかもしれない。


◆作品が読み方を誘導する場合もある。

作品のほうで、読み方を誘導することもある。
例えば「一人称形式」は、読み手に主観型の視点を強制する。一人称の小説を俯瞰型で読むと、「本当にこれは俯瞰しているのか」という不安が常に付きまとう。
同じ一人称でも「信頼の出来ない語り手」ならば、通常の一人称とは逆に「主観の穴をついて、俯瞰で読むこと」を強制される。
また物語自体がある真実を隠すための煙幕である「信頼の出来ないストーリー」もある。これは完全に俯瞰で読まないと煙幕に取り込まれる。

「ストーリーが明示していないことが真実である」と何故わかるのか、というと、「書くことを避けているポイント」に共通性や法則性があったり、明示されているストーリーのつなぎが不自然であったりして、そこをつなぐと別のストーリーが浮かび上がるという作りになっているからだ。
これを意識的にやっていて、絶妙なバランスで成功しているのが「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」。
作為的ではないだろうが、絶大な効果をもたらしているのが「鬼滅の刃」。

「多崎つくる」はそのまま読むと意味がわからず微妙な印象があるが、「鬼滅の刃」はそのまま読んでも滅茶苦茶面白い。(煙幕に取り込まれても面白い。)罪な話である。


◆俯瞰型の利点「キャラへの好悪関係なく、作品を楽しめる」

「主要登場人物の誰一人として共感出来ないし好きでもないが、滅茶苦茶面白い話」は多い。パッと思いつくのは「嵐が丘」「悪霊」「天の華地の風」「わらの女」などだ。
キャラの興味も好き嫌いとは余り関係ないが、好きなキャラは「理解できる」という感覚が先行しているため、あれこれ考えるのは嫌いなキャラのほうがむしろ多い。
自分にとって不可解だから考えたくなるのだ。
ホラーは世界の枠組みが壊れる、もしくは枠組みが人間には認識出来ない話なので、俯瞰型と一周回って相性がいいと思う。「見ていたと思ったら見られていた」というのは、背筋がゾクゾクする。

◆主観型の利点「現実に対して、自分が感じている違和が癒される」

普段はあえて意識に上らせないようにしていること、抑えつけていること、形にならないバラバラなもの、生きていくために現実には出せないものを、託せる。
そういう創作の利点は、主観型でしか味わえない。
好きすぎて何度読んでいるかわからないクリスティーの「暗い抱擁」は、作品自体は「信頼の出来ない語り手」なので、俯瞰視点で読む。
だがゲイブリエルの独白のシーンになると、主観に引きずり込まれ「わかる、わかるぞ」という言葉しかない。

自分と距離が近すぎて、どうしても俯瞰して読めない作品もある。
最近だと「アスペル・カノジョ」は、主人公・横井の言っていることすべてに反論したくなるという苦行のような読書だった。
ルサンチマンに苦しむキャラに感情移入する傾向があるので、そのルサンチマンにクソみたいな言い訳をしたり、綺麗に都合よく他人に救われようとする奴を見ると全力で否定したくなる。
「アスペル・カノジョ」は最後まで読むと、そういう話ではないと分かるが。


◆読み方(過程)はどちらでもいい。大切なのは「自分を相対化できること」では。

創作は「相対化することで自分自身を知ることができること」が一番の利点だと思っている。
現実という制約があると、どうしても道徳から外れたや超常的なことなどは追体験することは難しい。
それがどれほど他人にとって理解しがたい、時には嫌悪されるようなことでも、自分にはこれがこう見える、こう感じる、こう考える。
様々な創作に接することで、自分ですら知らなかった心の動きや物の見方、思考の癖、「自分というシステム」を知ることが出来る。

「キャラに対する好き嫌い」も、「わかるから好き」「わからないけど好き」「わからないから嫌い」「わかりすぎて嫌い」と色々とバリエーションがある。
「わかるから好き」と「わかりすぎて嫌い」の差は、ごくわずかだ。「わかるから好き」と「わからないけれど好き」よりも近い。
そのごくわずかな差が、自分にとってとても大切なことだと思うのだ。

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