創作において「『作品が語ることができないこと』に注目する」という考え方。
スピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」を読んでいたら面白い話が出てきたのでその話。
創作を読んで(見て)いると、「このことを語ることが出来ないのではないか」という不自然なポイントを発見することがある。
キャラクターでも作品でもそういう場合がある。自分も、創作においてはこの語ることができない事柄(あえて語らないではなく)はかなり重要なのではないか、と思っている。
例えばキャラで言うと、「ゴールデンカムイ」の尾形や「銀河英雄伝説」のロイエンタールなどは、明らかに「語っていないこと」のほうが重要だ。表層的な言動はそれを覆い隠すための煙幕として働いている。
特にロイエンタールは最後まで「自分を語らずに死んだ」という印象が強い。
ロイエンタールというキャラに限って言えば(あくまで限って言えば)「銀河英雄伝説」という物語自体が個人的なトラウマを表現する余地がない構造になっていることで、ロイエンタールのトラウマの隠蔽装置として機能していると見ることも出来る。
またジャンルで言えば、「BLにおいて、女性キャラはなぜ別世界にいる影のよう存在なのか」ということを感じた。(批判ではなくただの感想なので、そこはメインじゃないからいいんだ、と言われればその通りだと思う)
これは長年BLを愛好しているかたから、ジャンル的に試行錯誤や紆余曲折の歴史があって描き方が少しずつ変化していると教えてもらった。(ありがとうございます!)
先日読んだ「エネアド」の他の人の感想で「BLでは女性キャラが存在感がないことが多いが、『エネアド』ではしっかりキャラが立っている」というものがあった。
これは自分も思った。ハトホルとか可愛いし、セクメトやラーのドSっぷりには惚れ惚れする。
「なぜ女性向けでありながら女性(キャラ)が排除されるのか」ということは、考えてみると面白いなと思う。(まあ既に散々考えられていそうだが)
「作品が言うことをできない(できなかった)ことがらのほうが重要」という言葉で、自分が真っ先に思いついたのは「迷家ーマヨイガー」だ。
「迷家ーマヨイガー」は、事実の中で語れることだけを飛び石のように語ったり、その周辺の比較的語りやすいことだけを継ぎ接ぎのように語っている。
かなり強引で尻切れトンボなストーリーだが、そのストーリーに囲まれて影絵のようなものが浮かび上がる構図に奇妙な余韻があり、普通に見ればイマイチな話だがそうとは言い切れない何かが残る。
自分にとっては不思議な話だった。
それこそ最終話を見終わった後に「これ嘘だよな」と言いたくなったのだ。
自分の中では「鬼滅の刃」も「語らないストーリー」である。
「本当のこと」が余りに絶望的なので、「鬼という幻を作り、それを倒せば物事が解決するという幻想」を23巻かけて語っている。
ただ「鬼滅の刃」は、その「嘘」が余りによく出来ていて面白いので「本当のこと」には目がいきづらい。「嘘」の巧みさが「語りえないこと」を隠蔽している。
「迷い家ーマヨイガー」のように「嘘」の出来が悪いほうが、「それほどまでに語りえないこと」とは何なんだろうと気になってしまう。
自分から見ると、これらのキャラなり作品なりには「嘘をついて」おり、見ていると終始「それは嘘だよな」と言いたくなってしまう。
ここで言う「嘘」とは、「創作はそもそも作り事だから」という意味とも「嘘をつかない人などいない」という意味(意識的な嘘)とも違う。
「本当に言いたいこと」を何とか表そうとするが表せない「嘘」、そしてその「嘘」でしか自分を表せないゆえに「嘘」の集積によって「本質」が浮かび上がる「本当のことを表すための嘘」だ。
自分がこういう話で一番気になるのは、「嘘をついていること」それ自体でも「結局、本当のことは何なのか」でもない。
「なぜ、その作品なりキャラなりが嘘をつかなければならないのか」が気になるのだ。
「迷家ーマヨイガー」は、他の作品とは違い、これを考えるとっかかりさえなかったので、今もどこか引っかかりが残っている。(※ノベライズはアニメ版と少し違うようなので、もう少し何か描かれているのかもしれない)
自分は「わからないこと」に強く惹かれる傾向があって、引っかかると自分の中でしっくりくるまでずっと考え続けてしまう。
「それわかる」と思う話も面白いが、同じくらい「自分にとってわからない話」も面白いと思うのだ。
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